利休の切腹の一因といわれている利休像
大徳寺金毛閣
大徳寺の三門は、一休禅師の遺徳を偲んで連歌師の宗長が造営したものだったが、
途中で資金が尽きて山門の楼閣は未完成だった。
そのため千利休が、その上に金毛閣という部分を建てた。
古渓宗陳が中心になって行った事だったが、
これは利休からの要請ではなく大徳寺の独断で行った事であるが、
雪駄を履いた利休の等身の木像を置いた事が秀吉の怒りを買い、
これに文句を付けたのが秀吉、
「勅使(天皇の使い)が門を通る時に上に(2階)利休の像があるのはおかしい」
古渓の懸命の弁疎も叶わず、
大徳寺の破却こそ免れたが、千利休は秀吉に切腹を命ぜられた一因とされている。
1591年、山門から引き摺り下ろされた木像は、一条戻橋のたもとで磔にされ、
聚楽屋敷内で切腹した利休の首は木像の下に晒されたということです。
同日、利休も京の屋敷へ戻される。3日後、切腹を命じられる。
利休の聚楽屋敷は、戻橋のすぐ近く、今の晴明神社に隣接していたとの事で、
石碑が晴明神社境内に平成16年10月に建立されました。
大徳寺塔頭 聚光院
本堂の奥へ進むと其処には「利休像」がある。
その右に「三好長慶」の像がある。2人は同い年で気も合ったと考えられる。
1564年42歳でこの世を去った三好長慶、
一方、利休は1589年に自らの墓を建てている。(死の2年前)
聚光院は利休の故郷・堺とゆかりの深い寺である。
1566年に建てられた「三好長慶」の菩提を弔う為、
息子が建てた寺である。この寺の名は長慶の「法名」で(聚光)
利休の最初の妻は三好長慶の妹、
宝心妙樹(ほうしんみょうじゅ)名はお稲である。
利休が作庭したと伝わる「百蹟の庭」がある。