この気持ちが恨んで救われるなら、身体が灰になっても恨んでいたい。

と思い続けて、20年が過ぎました。

結婚して住み始めた市には、当時産婦人科が1件もなく、市内の妊婦さんはみな近隣市町のお産のできる病院まで通っていました。

私も評判を頼りに、隣市の教会が併設されている病院へ通いました。

古い病院で、産婦人科、小児科、内科、耳鼻科、眼科が何棟かに点在する形でしたが、ドクターをはじめ、看護師さんやスタッフみなさんがとても親切で、信頼のおける病院でした。

施設は古くても、エコーなどの機器類は揃っていたので、安心して検診をうけて、お産の日を迎えました。

待望の子どもは、一目でわかる奇形児でした。

ドクターや看護師さんは口々に「いまはキレイに治せるから」と言いましたが、目の前が真っ暗になりました。

エコーで鮮明に映っていたであろうこの子の異常を、なぜ教えてくれなかったのだろう?

絶対にわかっていたはずだ。

宗教の教えに反するから?

子どもが成長するにつれ、そんな考えが恨みとなって積み重なりました。

それと、幸いにも主人は子どもを受け入れてくれましたが、当時は仕事も忙しく、生活も不規則で出張も多く、お互いに大変でした。

初めての里帰りのときに、私の母は子どもを見るなり「この子の面倒は一切見ないから!」と言い放ったことも忘れられない恨みです。

亡き父は初孫でしかも待望の男の子というだけで、ただただ喜んでくれたのに。

特別な子を育てるのは、言い尽くせない大変な思いがありました。

大学病院では、同じ症例をたくさんみているからか、まるで流れ作業のような患者の扱いで、

親の不安なんて微塵も考慮してはもらえず、最初の手術はドクターが立ち会ったものの、執刀は研修医と聞かされました。

きちんと形がキレイにならなかったのは、このせいでは?と、それも恨みに思っています。お金を積まなくてはならなかったのでしょうか?

入院中は子どもようの柵のあるベッドに添い寝し、泣けば看護師さんに「うるさい。泣かせないで!」と怒られ、どの親も片手に赤ちゃんを抱え、もう片手で点滴台を引きずりながら、人気のない廊下を探して歩きまわっていました。

通院中、大学病院はいつも混んでいて、予約をしていても、検査、診察、会計が済むと昼食の時間が15時過ぎはざらでした。

子どもをのぞき込んでは、「可哀想にねぇ」と言う人や、「うちの子より酷いのね」と言う人など気持ちが休まることはありませんでした。

やっと病院を出ても、そんな時間に乳幼児を連れて食事をとっていると、見知らぬ人から、 「こんな時間にご飯?赤ちゃんかわいそうねー」と言われることもありました。

こうした人たちは、何かと比べて優越感を持たなければ生きていけないのでしょうか?

こんなふうに生んでしまってごめんね。という子どもに対する罪悪感は誰よりも私が一番感じているし、一生背負っていくものと思っています。

が、他人から言われて、落ち込み下を向いて歩くのはとても辛いものです。

告知してくれなかったドクター(故人)、実験台でしかない大学病院での日々、口さがないことを言う人たち。

恨みは尽きないけれど、きっと一番恨まれているのは私自身だと思います。

息子の恨みは、どうしたら晴らしてあげられるのでしょうか