辛い自分に優しくするのは良い。

 

しかし、その優しさは甘えさせることではないと思う。

 

以前は、優しくするのと甘えさせるのは同じだと思っていた。

 

幼いころから甘えることを知らなかったように思う。

 

乳幼児期に、十分に甘えさせてもらった経験が、子どもの自信につながっていくことを後になって学ぶ。

 

そうした甘えの下地があってはじめて、成長する過程の厳しさを 乗り越えていけるものであると。

 

乳幼児期を覚えていないが、不十分だったのではと想像することができる。

 

甘えが足りないと子供は自分に向けるか外に向けるものだ。

 

不十分を補おうと幼いころからいろんな問題行動となって現れて親を悩ませていたものだ。

 

大きくなっても、埋めるに埋められない自分がいた。

 

常に自信がなく、何も言えない自分がいた。

 

他人は、それをおとなしくやさしい子だと言っていた。

 

少しも嬉しくなく心苦しいだけだった。

 

甘えを埋めてくれそうな人だと思って主人と一緒になった。

 

優しい人だった。

 

甘えから一緒になった関係は、甘えられないとイライラする。

 

求めるばかりの関係は、かえって自分を追い込んでしまっていく。

 

相変わらず抜毛は続く、いつも満たされないものを抱えていた。

 

そして言い訳し、相手のせいにし、主人を責めていた。

 

主人の我慢のうえに成り立っていた。

 

甘えを求めている間は、抜毛は消えないことを知る。

 

そのこと気付くのに何年もかかった。

 

甘えを封印する。

 

まず、言い訳しない、愚痴を言わない、人のせいにしない。

 

これは幼児性が抜けていないからするものであると。

 

いつも言い聞かせるようにした。

 

ひたすら努力する、家庭では、寡黙になっていった。

 

ようやく大人へのステップを踏むことができたのである。

 

大人になってからの甘えは甘えを呼びこみ、お互い足を引っ張り合う関係になってしまうものだ。

 

優しさとは甘えさせることではなく、本当の厳しさを知ったうえで生まれてくるものと思う。

 

甘えから脱却しないと、抜毛は消えていかないような気がする。

 

満たされなかった甘えをどこで補うかである。

 

抜毛=満たされなかった甘えではなかったかと思っている。

 

親が乳幼児期に甘えさせるだけの余裕がなかっただけのことである。

 

そのまま大人になったなら、自力で何とかするしかないのである。

 

カンセリングもよし、臨床心理士でもよし、電話相談もよし、親でもよし、恋人でもよし、どこかにぶつけて気持ちを発散させることが大事だと思っている。

 

ただ、だまって受け止めてくれる相手であれば良い。

 

私の場合は、主人だったことになる。

 

自分だけで何とかしようと思ってもできないこともあるものだ。

 

助けを求めることは、恥でもなくとても大事なことだと思う。

 

甘え → 試練 → 優しさ

 

優しさは、乗り越えた最後に与えられるものではないかと思う。

 

順序を踏んでいくことが成長過程で大事なのである。

 

この順番が逆になると生きづらくなる。

 

育てなおしはできるのである。

 

大人になるのは難しい。

 

親になるのも難しい。

 

さらに自立した人間になるのはもっと難しい。

 

しかしその先に、本当の幸せ観があることを信じるものである。

 

そんな人生観をもって今日も生きている。