【紹介】
 今回は,青崎有吾さんの小説「早朝始発の殺風景」の紹介です。
 初読は刊行直後の2022年です。書店で裏表紙の内容紹介を見て,「何か面白そうだな」くらいの感覚で購入しました。表紙や内容紹介からして,最初は高校生の青春恋愛小説かと思っていましたが,まったく異なるジャンルでした。今年になって,久しぶりに再読してみましたが,再読でもやはり面白かったです。

 

 


【あらすじ】
◆早朝始発の殺風景
 男子高校生の加藤木が,諸事情で早く登校する必要があり,始発電車に乗ると,同じクラスの女子・殺風景がその電車に乗っていた。お互いが,なぜ始発電車に乗っているのかを会話の中から探り合う。

◆メロンソーダ・ファクトリー
 仲良し三人組女子の真田・乃木坂・詩子が,ファミレスでおしゃべりしている。クラスTシャツのデザインを描いてきた真田が,二人にその素案を見せるが,詩子だけは真田のデザインに反対する。

◆夢の国には観覧車がない
 部活の卒業旅行で遊園地にやってきた男子高校生の寺脇は,後輩男子の伊鳥にいっしょに観覧車に乗るように誘われる。なぜわざわざ男どうしで観覧車に乗ることを望んだのか,寺脇は考え始める。

◆捨て猫と兄妹喧嘩
 妹に公園に呼びつけられた兄が駆けつけると,そこには捨て猫が入った段ボール箱があった。家に連れて帰るわけにもいかずに途方に暮れ,喧嘩にまで発展してしまうが,そんなやり取りの中で,妹はあることに気づく。

◆三月四日、午後二時半の密室
 女子高校生の草間は,卒業式を体調不良で欠席した煤木戸に卒業証書を届けるために,煤木戸の家に行く。煤木戸は真面目だが不愛想で,ぎこちないやり取りが続くが,煤木戸の態度や言動から,草間は何か違和感を感じ取る。


【レビュー】 ※以下,わずかながらネタバレが含まれています。
 この小説は,5本立ての短編集です。
 各話の主人公はすべて高校生です。ストーリーはすべて独立して,読むうえでの互換性はありません。ただ,巻末の「エピローグ」に,このことに関するちょっとした仕掛けがなされていて,それがとても秀逸だと感じました。

 ※ここから,さらに踏み込んだネタバレが含まれています。
 3つ目の話「夢の国には観覧車がない」は個人的にお気に入りです。男子高校生が2人で観覧車に乗るというシチュエーションからして,おそらく誰もが同性愛をテーマにした話なのかと思いながら読み進めることでしょう。しかし,寺脇には好意を抱いている子がいるということがわかります。ただ,その片思いの子が男子なのか女子なのかは,最後まで明かされません。同性愛なのか異性愛なのか,どちらをテーマにしているとも取れる描写が,非常に優れています。

 前述の【紹介】で,最初は青春小説だと思ったと書きましたが,青春の要素を盛り込んだ「コージーミステリー」となっています。結末に導くための伏線が巧妙に張り巡らされていて,読了後の納得感を得ることができます。

 全体的には軽い雰囲気のストーリーが多いので,安心してサクサクと読むことができます。それでいてちゃんとミステリーとして成立しているのが,この小説の素晴らしいところです。現役の高校生はもちろんですが,大人が青春時代を振り返りながら読むのも,なかなか味わい深い作品だと思います。

 私は,人生の中で1つの目標があります。47都道府県を制覇することです。
 ここでの制覇の定義は,「目的地として訪れること」です。つまり,通過しただけではカウントしません。たとえば,先日の社員旅行で,福岡と長崎を訪れたときに,佐賀を通ったのですが,目的地としてはどこにも寄っていないので,これはノーカウントです。(一応,佐賀県内のサービスエリアには止まりましたが,さすがにこれは目的地とは言いませんね。)

 それで,45歳時点での達成具合はと言いますと,33都道府県に訪れています。まだ結構残っています。。。
 北海道・沖縄といった難易度の高い道県は達成済みです。高校の修学旅行で東北全県を訪れたので,これも大きいです。
 西日本に未達成の県が多く,四国・山陰・九州は一部しか達成できていません。割と珍しい所に連れていってもらえる社員旅行に期待したいです。

 旅行にはいろいろな趣向がありますが,私の場合はやはり「食」です。その地の名産とされているものを現地で食べたいのです。広島に行ったらお好み焼き,宮城に行ったら牛タン,といった具合です。ご当地ラーメンなんかもいいですね。
 あとは,各地の名所も訪れたいです。たとえば,鳥取だったら鳥取砂丘,熊本だったら熊本城とかですね。

 人生折り返し地点を過ぎた今となって,金欠な私が残りの県を達成できるのか,雲行きが怪しくなってきましたが,まだまだ諦めずにいたいです。

 昨日,自転車を購入しました。
 自転車と言っても,ロードバイクのような本格的なものではなく,普通のシティサイクルです。というか,そのタイプしか乗ったことがありません。

 コチラです↓↓

 中学生になるときに買った自転車を長らく持っていたのですが,古くなって何年か前に処分したので,家には自転車がありませんでした。
 車を持っていますし,駅も近いので,移動手段に困ることはほぼないのですが,ちょっと近所まで出かけたいときに気軽に使えます。また,足腰に負荷がかかるので,健康にもいいです。私は過去に少しだけ介護の仕事をしていたことがあり,認知がはっきりしていても,足が使えなくなると致命的であることを学びました。そういう意味でも,足腰を丈夫にしておくことは大切です。

 とはいえ,運動嫌いの私が自転車に乗る習慣を身につけられるかは,未知数です。三日坊主で終わってしまう可能性すら危惧しています。いかに自律できるかですね。

 

 買った即日,早速乗ってみました。自転車の運転自体が12年ぶりだったので,ちゃんと乗れるのか不安でしたが,そこはしっかりと体が覚えているものです。

 片道20分くらいの運転でしたが,夜の涼しい時間帯でも,降りた直後は暑くて汗が止まりませんでした。座りながら足を動かし続けているだけでも,結構いい運動になっているということですね。スマホに万歩計のアプリを入れているので,歩数を見てみたら,20分の運転で2000歩相当でした。

 これからだんだん涼しくなってきますので,できるだけ使う頻度を上げていければと思います。

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オリジナル曲「If I had been ...」をアップしました。上記リンクより,ご高聴ください。

【概要】
 「If I had been ...」は,2005年制作,2020年音源化の楽曲です。
 若き頃の人間関係に対する憤りをロック調に歌った曲です。

【お断り】
 デモテープ並みの音質・演奏技術です。

【歌詞】
 あの頃俺たちがもっと腹割って振舞っていれば
 今このときがどんなに楽しかっただろう
 決して仲良しクラブではない厳しさを
 お互いがもっと持ち合うべきだった
 誰もが精一杯生きているのに
 人を選び色眼鏡で見る奴等なんて大嫌い
 If I had been・・・ 友よお前たちはどうして
 恥じらいも体裁も捨ててしまったのか
 If I had been・・・ 君もお前もあんたも貴様も
 帰りたくてもあの頃に帰れない
 戻りたくてもあの頃に戻れない

 その場しのぎの楽しさのために
 どれだけたくさんのものを犠牲にしてきたことか
 友人がただの知人に変わった瞬間
 俺たちの歴史に傷が付いた
 本当の優しさがいったい何なのかを
 忘れてしまった奴等なんてくそ喰らえ
 If I had been・・・ 本当にこのままでいいのか
 これからも女々しく生き続けるつもりなのか
 If I had been・・・ 僕も俺も私もてめえも
 見せかけの友情ごっこはまっぴらだ

 If I had been・・・ 友よお前たちはどうして
 恥じらいも体裁も捨ててしまったのか
 If I had been・・・ 君もお前もあんたも貴様も
 帰りたくてもあの頃に帰れない
 戻りたくてもあの頃に戻れない

 オリジナル小説「ばあ」はいかがでしたでしょうか。
 4回に分けて投稿しましたので,未読の方は,あとがきの前にぜひお読みください。

 第1章
 第2章
 第3章
 第4章(終)

 祖母を亡くして1年が経ちました。
 貧乏性で地味な生涯を送った祖母でしたが,晩年は私にとって,祖母と向き合う濃密な経験となりました。亡くしてから気付いていては遅いのですが,やはり家族というのは,かけがえのない大切なものです。できることならば,昔に戻ってもっと家族を大切にしたいと思っています。

 今回は自伝風小説として執筆しましたので,小説というよりはエッセイに近いものになりました。実体験を小説に落とし込むのは,執筆を楽にしますので,すらすらと筆が進んだのですが,100%フィクションの小説というものも,今後は書いていければと思います。

 

 第四章(終) 一年前

 

 ある日、やたらとリアルな夢を見た。

 家に帰ったら、台所にばあがいる。まだ元気だったころのように、慣れた手つきでお勝手仕事をしているのだ。驚く貞夫に向かって、

「長いこと留守にしとって悪かったなあ。」

とばあが貞夫に言う。

「これからいっしょに暮らせるんか。」

と貞夫が言ったところで夢が終わった。

 これが現実だったらどれだけよかっただろう。長いこと留守にしていた理由なぞ聞かずに、昔と同じ生活ができる喜びを噛みしめていただろう。しかし、残念ながらばあが生きて帰宅することはなかった。

 

 暑さが少しだけ和らいできた九月の中頃。深夜に施設から電話が入った。ばあ危篤の知らせだった。

急いで施設に駆けつけると、ばあは集中治療室に移されていた。バイタルサインは著しく弱い。しかし、手に触れるとまだ温かい。命のぬくもりだ。貞夫がばあの顔をのぞくと、ばあは奇跡的に目を開けた。そして次の瞬間、

 「あんばようしてくれて、ありがとな。」

弱々しい声だったが、たしかにそう言った。そして、貞夫に向かって最後の力をふり絞って微笑みかけ、息を引き取った。

 そう。ばあは最後の最後に貞夫のことを思い出してくれたのだ。認知症を患ってからはずっと敬語だったのに、このときは違ったのが、それを証明している。

 ばあは死んでからもしばらくは温かかった。三十分くらいして、少しずつ冷たくなってきたのを確認してから、貞夫は葬儀の手配のために集中治療室をあとにした。

 ばあ 享年九十七歳

 

 ばあは三年半ぶりに無言の帰宅を果たし、一日だけ家に安置してから、葬儀場に引き取られていった。死化粧への立ち会いをした。ばあが化粧なんてするのは、もう何十年ぶりのことだろう。葬儀場のスタッフが二人がかりで死装束に着替えさせるとき、ばあの体を横転させようとすると、これがなかなかどうしてうまくいかない。ばあは、貞夫の方向に顔と体を向けたまま、横転するのを拒んでいるかのように見えた。葬儀場のスタッフが、

 「ずっとお孫さんの顔を見ていたいんだねぇ。」

などというから、貞夫は感極まりそうになるのをこらえるのが大変だった。

 六曜の都合で、さらに一日おいて、無事に葬儀が執り行われた。親族だけの小さな葬儀だ。当然、貞夫が喪主を務める。というか、ばあの二親等以内には貞夫しかいない。四年前の嬶の葬儀でも喪主を務めたので、もう慣れっこだ。そして、これが貞夫にとって最後の喪主となることは間違いない。こうして、秋の訪れとともに、ばあは荼毘に伏された。

 

 ばあが死んだとき、不思議と涙は出なかった。それどころか、「仕事に穴をあけてだいじょうぶかしら」とか「生命保険の受取人、誰にしようかしら」とか、現実的なことばかりが頭をよぎる。嬶が死んだときもそうだったが、極度の緊張状態にあると、泣くのも忘れてしまうのだろう。

 

 それから数か月経ったとき、「おばあちゃん」を題材にした映画を観る機会があった。図らずも、ばあのことが思い起こされる。しかも、この手の映画は大げさに感動路線の演出をしてくる。まばらとはいえ、周りに人がいる映画館の暗がりの中で、貞夫は声を殺して泣いた。泣いても泣いても涙が止まらない。これがYouTubeだったら確実に再生を止めて、号泣に徹していただろう。ハンカチをもう一枚持っていくべきだった。このタイミングでこんな映画を観た貞夫が馬鹿だった。

 映画館を出たあと、ばあがいるであろう夜空に向かって、貞夫はつぶやいた。

 「ばあ、九十七年間、お疲れさん。」

 

 社員旅行で九州へ

 先週末,会社で2泊3日の社員旅行がありました。行き先は福岡長崎でした。
 長い人生の中で,いろいろな都道府県を訪れましたが,九州は未訪の地が多いです。
 12年前に福岡を2回,大分を1回訪れましたので,福岡はこれで3回目です。博多の屋台は見覚えのある光景で,大変に懐かしく感じました。今回も,もつ鍋・明太子・博多ラーメン…と,ひととおり味わってきました。

 

 太宰府天満宮と賽銭

 観光としては,太宰府天満宮に行きました。こちらも2回目ですが,前回の記憶があまりなく,新鮮味がありました。やはり,パワースポットはいいですね。
 バスガイドさんから聞いたのですが,神社や寺院に投げる賽銭には,縁起のよい金額と悪い金額があるそうです。(下記以外にも説明を受けましたが,覚えている範囲で記載します。)

     5円 … 御縁 ⇒○
   10円 … 穴がないので見通しが悪い ⇒×
   15円 … 十分な御縁 ⇒○
   25円 … 二重の御縁 ⇒○
   35円 … 再三の御縁 ⇒○
   65円 … ろくな御縁がない ⇒×
 125円 … 十二分な御縁 ⇒○
 415円 … よい御縁 ⇒○
 500円 … これ以上の硬貨(効果)がない ⇒×


 とは言っても,結局のところは神頼みなわけですから,何が正解というものはないのでしょうが,せっかくならば験を担ぎたくなりますよね。
 私はあいにく5円玉を持ち合わせていなかったので,50円玉を投じました。穴が開いている硬貨は見通しがよくなるので,50円も縁起がよいとされているそうです。

 

 

 

 初めての長崎旅行

 2日目と3日目には長崎に足を運びました。長崎は初めてだったので,何もかもが新鮮でした。歴史的に要所となった地域だけに,市内は洋風の街並みが目立ちました。大浦天主堂グラバー園出島原爆資料館平和公園軍艦島を2日間かけて回り,盛りだくさんのツアーとなりました。
 原爆資料館に展示されている資料は,どれも生々しく,いたたまれない気持ちになり見ていられなかったです。戦争をせざるを得なかった当時の国の事情にまったく理解を示さないわけではありませんが,やはり罪のない人々を苦しめるようなことは,二度と起きてほしくないですね。

 軍艦島には上陸する予定だったのですが,波の高さが基準値を超えていたとかで,残念ながら船で周遊するだけとなってしまいました。それでも世界遺産を間近で見られたのは,よい体験になりました。
 長崎名物の皿うどん・ちゃんぽん・卓袱料理・カステラも味わいました。ついでにいろいろなお酒をちゃんぽんで飲みすぎました。頭痛薬を持っていかなかったら大変なことになっているところでした。
 旅行前と旅行中では,体重が3kgも増えていました。サンドウィッチマンの伊達みきおさんが,「回転テーブルの料理は,回したときにカロリーが飛ぶ」と言っていたので気にせず飲み喰いしましたが,それを信じて食べ過ぎたのがよくなかったようです。
 
 

 空港での珍体験

  実は,社員旅行と同じ期間に,天皇皇后両陛下が長崎を訪問されていました。2日目の出島付近で厳重な警備体制が敷かれていて,ものすごい数の警備隊を目にしました。さらに帰りの長崎空港での待ち時間に,ちょうど両陛下がご帰還されるタイミングと重なり,通路で旗を振ってお見送りすることができました。
 下の写真を撮ることができたのですが,天皇陛下は後部座席奥側にいらっしゃったため,皇后さましか写真に収めることはできませんでした。それでも,両陛下を生で謁見したのは初めてのことですので,これは貴重な経験でした。

 

 

 

 九州の気候

 九州の気候は,私の住んでいる愛知県よりは少しはマシだと思っていましたが,まったくそんなことはなく,9月半ばとは思えない猛暑でした。途中で雨に降られたこともあり,気候にはあまり恵まれないものとなりました。まさに「長崎は今日も雨」ですね。汗と雨で,毎日のように服やタオルが濡れてしまったので,着替えを余分に持っていくべきでした。このことは反省点として次回に活かします。
 そんな不安定な気候の中,たくさんの観光が詰め込まれたため,3日間の合計歩数は45,000歩に達しました。翌日は足が酷い筋肉痛でした。

 

 

 

 総括

 久しぶりの福岡と初めての長崎ということで,観光を中心としたイベントが凝縮された有意義な旅行となりました。
 ただ,一度も訪れたことのない佐賀県は通過しただけだったので,ワンスポットでもいいからどこかに寄りたかったという名残惜しさもあります。旅行自体は90点です。
 私が勤める会社の社員旅行は,普通ではなかなか行かないところに連れていってもらえるので,とてもありがたいです。一昨年は北海道(道東)に行かせてもらいました。次回はどこに行けるのか,今から楽しみです♪
 一方で,社員旅行の最も重要な趣旨である社員どうしの交流というのが疎かになってしまいました。30人以上の大所帯でしたが,誰とどう話したらよいかがわからず,浮きがちになってしまいました。この点は自分自身の反省として15点です。

 第三章 二年前

 

 年が明けてすぐに、感染症蔓延を理由に、面会が一切禁止された。リモートでの面会は認められたが、耳が遠くてハイカラな機器に懐疑的なばあと、リモートでやり取りなんかができるはずもなく、六か月もの間、ばあに会うことができなくなってしまった。

 ようやく面会が解禁され、半年ぶりに貞夫は施設に顔を出した。

 ばあは髪の毛が真っ白になっていて、表情から生気が消えていた。半年前のように歓迎する言葉をかけてくれることもなかった。そして驚くことに、貞夫に対して敬語で話し始めたのだ。会話になっているようでなっていない。何よりも、貞夫のことを孫だとわからずにしゃべっている。たぶん、施設の職員だと思い込んでいたのだろう。

 あまりにも衝撃的だった。貞夫は一時期、介護の仕事をしていたことがあるので、認知症というものについて、ある程度は知っていた。自分の家族のことさえもわからなくなってしまった利用者を何人も見てきた。しかし、貞夫の身内で認知症になった人は今まで見たことがなく、病気になっても認識だけはしっかりできた人ばかりだったので、最も近い身内の一人であるばあが、まさか貞夫の顔まで忘れてしまうとは…。

 貞夫は帰りの車の中で荒れた。

 「感染症だか何だか知らんけど、施設に入っとる高齢者を半年間も家族と会わせんかったら、そりゃこうなるわ。面会禁止、面会禁止と、いつまでもしつこく、いい加減にしとかなかん。ばあが俺の顔を忘れてまうことと、感染症にかかって死ぬことを選べって言われたら、俺は感染症の方を選ぶわ。」

 誰もいない車の中に、貞夫の叫び声がこだました。

 それでも貞夫は諦めなかった。

「今日は久しぶりだったし、何回か顔を見たら少しずつ思い出してくるかもしれん。」

 

 その後、足しげく面会に通った。しかし、何度会っても、ばあは貞夫のことを思い出さなかった。

 「孫だよ。」

と言って自分の名前を名乗っても、

 「孫? ワイには孫はおらせん。」

と来たものだ。

「四十歳を過ぎて、まさかの絶縁宣言か?」

と自虐ネタを言ってごまかしたが、心中は穏やかでなかった。

 

 あるときは、ばあの弟を連れて面会に行った。そのときは、その弟のことをはっきりと覚えていたようだ。だが、隣にいた貞夫のことは、やっぱりわからないらしい。

 認知症になると、若い頃の記憶だけが残り、近いところの記憶は消えていくことがある。ばあにとって、人生の半分もいっしょにいなかった貞夫よりも、子どもの頃からいっしょにいた弟の方が鮮明に記憶に残っていても、無理はない。

 

 ちょうどその頃、たまたま読んだ本におもしろいことが書いてあった。

「おじいさんやおばあさんは、孫に愛情を注ぎきったら、自分の役割を終えたと考えて、孫のことを忘れてしまう。」

という趣旨のものだった。

 貞夫は妙に納得した。おばあちゃん子だった貞夫は、幼少期からばあといっしょにいることが多かった。小学校低学年までばあといっしょに寝ていたし、二人で買い物に行ったり、ゲームの相手をしてもらったりと、かなり愛情を注いでもらったと思っている。四十を過ぎて、嬶を見送って、もう一本立ちしたから、自分が注げる愛情はすべて注いだ、とばあは判断して、貞夫が生まれるよりもずっと前のころの童心に戻ったのだろう。

 そう考えると、少しだけ開き直ることができた。ばあの認知症は、ここからよくなっていくことはない。それから、今の状態のままでいいから、少しでも長く元気でいてもらうことを願おう、と貞夫は考えるようにした。

 

 第二章 三年前

 

 ばあが入所してからの自宅は、想像していた以上に静寂としていた。二階建ての一軒家に貞夫は一人で住むことになった。何もかも自由になり、ばあの身を案じなければならないこれまでの心労がなくなった反面、夜に帰宅すれば家の中は真っ暗。「おかえり」と言ってくれる人もいない。まるで別の住居に引っ越したような感覚だった。

 

 貞夫は何度か施設に面会に行った。ばあは車椅子生活になっていたが、頭ははっきりしていて、きちんと会話することができた。おまけに、施設では食欲旺盛なのだそうだ。

 「眼鏡を家に置いてきてまったから持ってきて。」

 「ここの金は払えるんか?」

などと、つじつまの合った発言も聞かれた。

 「病気を患っとるわけじゃないから、こりゃ当面だいじょうぶだな。」

と貞夫は安堵したものだ。

かなり昔のことだが、ばあは冗談めかして、

「百二十歳まで生きる。」

と言ったことがある。まあ、百二十はアレとしても、百歳までは生きられるといいな、と貞夫は思っていた。

 

 ばあが入所してまもなく一年になろうとする年の瀬、久しぶりに施設に面会に行った。ばあは入所したばかりの頃よりも顔色がよくなり、

 「おお、来てくれたか。やっとかめだなぁ。」と貞夫を歓迎してくれた。最初は渋っていた施設生活も気に入ったようで、

 「皆んなええふうにしてくだれる。あんたが入れてくれたんやなあ。」

と面会のたびに言っていた。

 ばあはもともと内弁慶タイプで、家では意固地さや卑屈さが見られることが多かったが、一歩外に出ると、声が一オクターブ上がり、とても控えめでお行儀がよくなる人だった。なので、本心から施設生活を気に入っていたのかは、正直なところ、わからなかった。施設の職員も見ている手前、社交辞令を言ったのだと考えることもできる。それでも、安心できる環境で何事もなく暮らしてもらえるだけで、貞夫はよかった。近いうちに、一日だけ帰宅させてもらえるように頼んでみることも検討していた。

 

 第一章 四年前

 

「ばあ、何やっとるの。」

 夜の八時に、ばあがおめかしをしているのだ。

 「もうすぐデイサービスの人が迎えにくるから、支度しとるんだが。」

 たしかに、ばあは週に二回、デイサービスに通っている。朝の八時に送迎車で迎えにきてもらえる。しかし、今は夜の八時。

 「今は夜の八時だぞ?」

と貞夫が尋ねるも、ばあは、

 「テレビに八時って書いたるがや。」

と言って譲らない。

 こんなことが、一回だけでなく、短期間に何度かあった。今思うと、これがばあの終末の始まりだったのだ。

 

 貞夫の家族は大所帯ではなかった。貞夫は一人っ子で、嬶とじいばあとの四人暮らしだった。親父は物心がつく前に蒸発していて.貞夫は一度も会ったことがないし、どんな人かもほとんど知らない。じいは貞夫が高校生のときに病死したので、ばあ・嬶との三人で生活していた時期が長い。しかし、五年前に嬶が先に死んだ。こちらも病死だった。そこから、貞夫はばあと二人で生活することになった。ばあは九十歳を過ぎていたが、自分の身の回りのことくらいなら自分ですることができた。何なら八十代後半まで自転車に乗っていたほどだ。貞夫は平日の日中は仕事で留守にしていたが、ばあを一人家に残しておくことに、とくに不安はなかった。

 ばあの様子が不穏になったのは、嬶が死んで少ししてからだ。前述のように軽い見当識障害の症状が見られたり、自分で高いところの物を取ろうとして転倒したり、体がダルいと言ってデイサービスを勝手に休んだり、ひいては、嬶の三十五日法要に出席できないと言い出したりと、年齢相応の心身の衰弱が見られるようになってきたのだ。そして、ついには足が痛くて立てないと言って、ほぼ寝たきりになってしまった。ケアマネージャーに相談して、病院に連れていくことにした。

 

 ばあを病院に連れていくために、貞夫は仕事を休んだ。そして、いざ出かけようとすると、

 「立てんで病院は行かせん。」

と、ばあは通院拒否をし始めた。何度も説得して起こそうとしたが、ダメだった。わざわざこのためだけに仕事を休んでいた貞夫は、さすがにしびれを切らして、

「いい加減にしやあ。そんなことばっか言っとるなら救急車呼ぶぞ。」

と怒って、結局通院は諦めた。

 

ケアマネージャーに再び相談をした。事態が深刻だと理解したケアマネージャーは、即座に施設入所を検討してくれた。そして、嬶が死ぬまで入っていた施設にかけ合ってくれて、その日のうちに入所できることになった。

 態勢が整ったのはよいのだが、問題は、ばあをどう説得するかということだった。病院に行くことでさえ渋っていたのを、無期の施設入所なんて、受け入れてくれるはずがない。しかし、施設への送迎車が来る時間が決まっていたので、それまでに説得しきらなければならない。

 貞夫は、丁寧にばあに話をした。状況が深刻であることを強調しすぎず、しかし、施設に入る必要があること、自分で動けるようになったらすぐに家に戻れること、利用料は年金で相殺できること…。

 最初はばあも渋っていた。だが、最終的には折れてくれたようだった。ただ、施設に行くのを観念したときのばあが、目に見えてわかるくらいに寂しそうな顔をしていたことを、今でも忘れることができない。ひょっとしたら、ばあは悟っていたのかもしれない。もう家には帰ってこられないことを。