まぁ、私は個人的には維新の会のような政党は消えてなくなってほしいと思っているのだが、標題の本に書かれてある世界各国のポピュリズム政党をめぐる諸事情を読んでみると、そういう私の考えが決して間違いではないと確信を持った。日本で維新をのさばらせてはいけない、というのが本書を読んで得た教訓的結論である。
かつて多様な層の人々の「解放の論理」として現れたポピュリズムが、現代では排外主義と結びつき、「抑圧の論理」として席巻しているのである。
(水島治郎『ポピュリズムとは何か』中公新書p.5)
日本の維新の会とよく似ているなあと思ったのは、本書で詳しく分析されているベルギーのポピュリズム政党VB(フラームス・ブロックまたはフラームス・ベラング)である。ベルギーはフランス語とオランダ語を使用する多言語国家であるが、VBはベルギー北部のオランダ語圏フランデレンを地盤とする政党だ。VBのイデオロギー的特徴としては、フランデレンの独立を目指すフランデレン民族主義、反移民・反イスラムの主張、政治エリート批判などが挙げられるが、なかでも維新との関連で重要だと思ったのは、VBの文化エリート批判である。
VBは既成政治エリートだけでなく、学校・教会・メディア・アートなどの文化エリートに対しても、訴訟やマスコミなどを通じて活発に批判活動を展開した。とりわけフランデレンの劇場に向けて行った批判は、かつて橋下徹が文楽教会に対して行った批判と通じるところがあって興味深い。
VBの主張は、納税者の税金で賄われるフランデレンの劇場は、何よりオランダ語とフランデレン文化を守るために運営されるべきであり、むやみにフランス語の優位や文化的多様性を受け入れてはならない、というものであった。これに対して、フランデレンの劇作家や劇場側は、純粋なフランデレン文化を追求するのは無理があり、文化的多様性の中で新たにフランデレン文化を位置づけようという立場であった。
フランデレンの劇場が実際に上映する演目についても、VBはイチャモンをつける。すなわち、一部の文化エリートの好みで作られたあまりにも前衛的・実験的な演劇は上演すべきではなく、もっとフランデレンの一般市民が望み、理解しやすい大衆的な演目を上演すべきだ、というのである。
公的助成を受けた劇場は住民全体のために存在する以上、敷居を低くして、一般の大衆、「普通の人々」が気軽に訪れることができるよう「古典的・大衆的」な演目を上演すべきであるという。
(同書p.96)
こうしたVBの主張は、元大阪市長の橋下が行った文楽批判と重要な点で重なる。かつて橋下は、文楽が大衆に受け入れられる芸能になっていないとして、大阪市による文楽協会への補助金打ち切りを表明した。VBと橋下に共通するのは、公的助成を受けた芸術活動は大衆受けするものでなくてはならない、というポピュリズム的な観点である。同様のポピュリズム的な批判は、数年前の「あいちトリエンナーレ」でも慰安婦像(平和の少女像)をめぐって名古屋市長の河村たかしが主張していた。
このように「大衆」とか「人民」を前面に押し出し、その立場から既成政治やエリートを批判するのがポピュリズムの論理である。しかし騙されてはいけない。ポピュリストたちは大衆とか人民つまり「普通の人々」の味方を装っているだけなのだ。
ポピュリストが言う人民とか大衆が何を意味しているか考えてほしい。ポピュリストは自らを「人民の利益全体」を代表する存在だと自任するが、このように人民を一括りにして考える思考は、民意は多様であると見なす多元主義とは相容れないものであろう。また、人民の一体性や同質性を前提とすることで、ポピュリズムは外国人や移民・難民、民族的・宗教的マイノリティを「よそ者」と見なし、排除する。
特にそこで問題となるのは、多数決原則を重視するあまり、弱者やマイノリティの権利が無視されることである。
(同書p.22)
要するにポピュリズムが重視する「人民」なるものは、多様性を否定し、弱者やマイノリティを無視した、中身の薄っぺらい概念なのである。VBや橋下の文化エリート批判には、こういうポピュリズム的「人民」の立場がはっきり見て取れる。すなわち,同質的な特徴を共有する国民や民族集団を「人民」とか「大衆」と見なして優遇し、文化や芸術もそれに迎合したものを作っていかなければならないと考える。こういうポピュリストのアート観は、近代美術や前衛芸術を「退廃芸術」として攻撃・排除したナチスの芸術観と何ら変わるところがないわけである。
資本と利潤の原理で動く資本主義社会にあっては、公的な保護や財政支援がないと、なかなか自らのアート作品を発表する機会に恵まれないアーティストは多い。公的助成を受けた芸術活動が公権力の意に沿って、こぞって大衆迎合的なものになるならば、それは芸術本来のあり方に反するし、芸術活動を衰退に導くであろう。公的助成を受けていようがいまいが、自由で豊かな発想や批判精神でもって作品を創造し発表していくべきだと私は思う。
橋下が言うように、「もともと芸能は大衆娯楽だ」として、高度な技能や独特の感性を持つ専門家による前衛的・実験的なアートが排除されていくならば、結局、何が残るだろうか。多様性・多元主義を否定した、マジョリティにわかりやすい大衆芸能だけが残っていくだろう。つまり、大阪のようなポピュリズム政治のもとで残るのは吉本新喜劇だけということになる。
そして、美術品はすべて「粗大ゴミ扱い」となる。アート作品もアーティストたちも「人民」や「民意」の名の下にゴミとして回収されていく。それが橋下をはじめ維新が大阪で進めてきたポピュリズム政治の「最終的解決」なのだ・・・
