山尾志桜里『立憲的改憲――憲法をリベラルに考える7つの対論』(ちくま新書) | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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 ここのところリベラル界隈で憲法改正をめぐるおかしな動きがあるようなので,それがどんなものなのか,掲題の著作で確かめてみようと思った。

 いわゆる「立憲主義」の立場からの改憲論である。つまり国家権力を縛るという憲法の本質的役割を取り戻すため憲法改正が検討されるべきだという考え方。このような立憲的改憲論が出てきた背景は,2015年の集団的自衛権の一部行使を認める安保法制成立だったようである。そもそも立憲主義という考え方がフォーカスされたのはここ数年(第二次安倍政権発足以降)のことだ。

 立憲的改憲を主唱する著者の山尾志桜里・衆議院議員の問題意識は次のようなものである。

 そうです。憲法九条は安保法制を止めることができなかった。憲法の本質的役割は権力統制にあるにもかかわらず,最も権力が先鋭化する「自衛権」という実力を現状の憲法九条で統制することができなかった。
 ならば,憲法の統制力を強化する憲法改正を本気で検討すべきではないか。これが「立憲的改憲」の問題意識のスタートラインです。

 (本書p.18)

 山尾さんが主張する立憲的改憲の一番の目玉が憲法九条であり,それは自衛権の範囲を個別的自衛権に限定するような条文を書き加えるという改憲案だ。そのほかにも,衆議院解散権の制限や臨時国会召集の期限なども明文化して書き込みたいという。このような明文化は,安倍政権のような憲法違反を平気で侵す権力を規制し拘束するために必要なのだという。

 それから山尾さんの立憲的改憲のもう一つの柱が憲法裁判所の設置である。これは憲法違反を放置しないために必要なのだという。

 大切な不文律の明文化と憲法裁判所の設置――この2つが山尾「立憲的改憲」の両輪とされる。本書を読む限り山尾さんは頭が凄く切れる人のようで,憲法の立憲的統制力を強めようという改憲の趣旨もわからなくはないのだが,何か立憲主義的というより,上から目線というか,やっぱり検察官的なんですよねぇ,この人。現憲法の矛盾や弱点を突いたり,安倍政権の横暴さを攻撃したりするのは上手いのだけれど,じゃあ,それでどうして立憲的改憲をやらなければいけないのかがよくわからない。改憲する必要性が全く説得的でない。改憲しなくてもできるものばかりであるし,九条などはむしろ個別的自衛権を書きこむことで逆に統制力を失い,フルスペックの集団的自衛権行使へと道を開くものではないかとさえ思う。そんなふうに対処療法的に憲法を改正していいものなのか,あまりにも拙速で前のめりな感じを本書全体から受けた。憲法典の文言を変えて形式的に統制力や規律力を強めれば何もかも上手く行くと勘違いしているようだ。インテリ特有の思い上がりというか上から目線というか,ちょっとタチが悪い改憲案が出てきたなという印象を受けた。

 さて本書は,序章で山尾さんの基本的な考えが示された後,その山尾「立憲的改憲」をめぐって,7人の識者との対論が収められている。目次は下の通り。

序章 「立憲的改憲」とは
第1章 自民党改憲案の急所(阪田雅裕×山尾志桜里)
第2章 その改憲に理念はあるのか(井上武史×山尾志桜里)
第3章 「歴史の番人」としての憲法(中島岳志×山尾志桜里)
第4章 日本に“主権”はあるか?―九条と安全保障(伊勢崎賢治×山尾志桜里)
第5章 求められる統治構造改革2・0(曽我部真裕×山尾志桜里)
第6章 国民を信じ、憲法の力を信じる(井上達夫×山尾志桜里)
第7章 真の立憲主義と憲法改正の核心(駒村圭吾×山尾志桜里)


 1~6章の対談相手がすべて改憲論者で,細かな点で異論はあっても基本的には山尾さんの改憲案を支持する人ばかりだったので,予定調和だなと興醒めしながら読んでいたのだが,第7章でどんでん返しというか,立憲的改憲に対する根本的な批判があって面白かった。私も第7章の対談者である駒村さんの意見に大方賛成である。本書は370ページを超えるボリュームで全部読むのは大変だが,この第7章だけでも読んでほしいと思った。

 第6章の伊勢崎さんとの対論では,日本には軍事過失を扱う法体系のないことや日米地位協定と朝鮮国連軍地位協定との関わりなど,興味深い話が多かったが,自衛隊を憲法に明記する改憲案にはやはり納得できない。第3章の中島さんも,絶対平和という「統制的理念」(カント)を捨ててはいけないと言いながら,結局は憲法で個別的自衛権に限定する山尾さんの立憲的改憲に同調していて,情けなかった。みんな,安倍政権に引きずられすぎなんですよね。ああいう独裁的な権力が現れたからといって,直ちに憲法をいじって立憲主義を強める必要はないだろう。今,改憲論議に乗ることは相手の思うつぼであり,徹底して反対,抵抗することが大切である。

 その意味では,最後の最後まで自説を貫いて,山尾さんの立憲的改憲に妥協せず,むしろ論破したと言える駒村さんの言説は本書の中でも一際光っている。すなわち憲法改正の核心を衝いた議論だと私には思えた。

 駒村さんの指摘で一番重要だと思ったのは,民主主義というのは数だけでなく,熟議を尽くすことにその正統性があるという指摘である。だが安倍政権はそのような正統性を調達できていないがために,むき出しの権力になっている。そこで安倍政権は,正統性の頂点にあるアンタッチャブルな憲法に手を付け,タッチャブルなものにすることによって正統性を確保しようとしているのだ,と。

 駒村さんの認識からすれば,このような状況で憲法改正という空中戦に参戦することは,非民主的な権力の強化に手を貸すことになる。つまり山尾さんの立憲的改憲は安倍加憲をプッシュし補完するものにすぎない。私も全く同じ認識である。結局は同じ穴の貉。戦争できる国家への道を開くものにほかならない。

 よい社会をつくるための憲法問題を考えていくとき,なぜその議論の対象が憲法改正に収斂するのか私にはよくわからない。テキスト(文言)をいじる前にやるべきことが山ほどある。それにもかかわらず,なぜ改憲に議論がいくのか。(略)憲法学者として非常に短絡的に見えてしまう。(本書p.313)

 私は(九条改正も憲法裁判所の創設も)いずれも憲法の文言に手を付けなくても実現できるのではないかという気がします。それよりも,憲法に書かないと政策が動かないという日本政治の感覚が非常に心配です。憲法典をいじらないと一歩も前に進めない,あるいは改正すれば物が動くという感覚が透けて見えます。(略)国家の基本に関わる課題についても,憲法の制限の下で,通常は立法府や行政府そして裁判所が制定法や解釈法を駆使して解決してゆく,まずはこのフレームワークで対応すべきです。(本書p.316)

 しかし,やるのであれば本当に意味のある改憲にしなければならないとも思う。(略)今はそうした条件が整っていないと考えております。ですので,改憲には基本的に躊躇せざるを得ないというのが私の立場です。(本書p.323~p.324)

 現在の日本の状況は,憲法改正にはまだ全く機が熟していないという認識である。熟議を回避するような非民主的な状況で憲法改正に取り組むことは,権力基盤の強化を助長することにつながる。結局のところ,山尾さんの立憲的改憲論というのは,安倍政権による改憲を後押ししているだけなのである。だが,立憲主義を纏った検察官的な上から目線でしか憲法を見ない山尾さんには,そのことがよくわからないみたいだ。

 それから,駒村さんの「法と政治の役割分担」の話も,立憲的改憲の急所を突くような議論で,興味深かった。以前書いたことがあるのだが(立憲主義vs.民主主義),立憲主義(憲法典による権力濫用の抑止)と民主主義(民衆・多数者による統治)とは究極的に追求すれば衝突するが,そのバランスに関して駒村さんの議論は大変示唆的である。山尾さんは立憲主義ばかりに眼が行っているため,両者の緊張関係,特に民主主義のダイナミズムや民意の本来の役割がよくわかっていない。だから上から目線の検察官型改憲論になる。

駒村 憲法解釈自体を全面的に大衆的な討議に任せるのは,私はよいことではないと思っています。これは,法と政治は,もともと折り合いが悪いという面があるからです。本質的に仲良くできない。が,そこに意味がある。仲良くできないからこそバランスを取る必要が出てきて,その緊張の中から結果的に均衡が得られる。(略)
 一般市民はむしろ政治の領域で,運動を展開し,政党を結成し,デモをする。あるいは国会議員になる。そのようなダイナミズムと法律家が対峙し,互いに緊張感を持って進んでいくことが,人類が長年育ててきた「法の支配」の伝統であり立憲体制の要になっていると私はみています。
 (略)
山尾 法解釈と民意との間には距離があった方がいい,と。
駒村 それが政治と法の役割分担です。(略)法と政治は競り合う仲なんです。国民代表が集まる国会で多数決が法律を生み出す。しかし,それは違憲立法審査を通じて,民意に直接支えられていない裁判官によって吹き飛ばされる。そして,その裁判官も最終的には国民審査を通じて民意によって解職される可能性がある。さらには,裁判官が用いる最大の武器である憲法も国民投票を通じて民意によって改正できる。こうした競り合いの中で,法と政治の攻防の着地点は形作られている。

 (本書p.320~p.321)

 山尾さんの立憲的改憲論が極めて危険だと思うのは,それがもっぱら戦争の論理だからである。平和主義の国から戦争をできる国へ,戦争を欲する国へと変えるための改憲と言わざるを得ない。個別的自衛権の行使とはいえ自衛隊を「戦力」として憲法に明記するということは,集団的自衛権の行使に歯止めをかけるという作用以上に,深刻な事態をもたらすと思うのである。つまり「戦後社会に打ちこまれたくさびを一気に抜くことになる」!

 自衛隊は「戦力」で,国際標準の軍事力であることを日本が公然と認めるとなると韓国や中国は黙っていないのではないか。沖縄も,今までは何となく戦力未満だった自衛隊がフルスペックの戦力となり,米軍と共同行動をとるとなれば,「いったいどうなってしまうのか」といいうことになる。
 自明性を追認するだけの「お試し改憲」を九条でやろうということですが,それは「お試し」にならないのではないか。半世紀以上前に自衛隊を戦力未満だと規定した政府解釈が打ち込んだ九条のくさびは,結果的に,隣国や沖縄の問題を熟議するための時間的余裕と精神的余裕をもたらしましたが,せっかくのそれも生かされず論点は置き去りになったままです。そのくさびを抜くことは,論点を一気に俎上に載せることになるのではないでしょうか。
 (略)
 ですから「お試し改憲」では済まない。そのことを根本から議論する時間的余裕と精神的余裕と熟議の条件が整わなければ,九条改憲を実現してもすぐに空洞化するだろうし,空洞化したまま戦争になりかねない,と思います。

 (本書p.334~p.335)

 私は,自衛隊を憲法条文で「戦力」と認めてこなかったことの意義を説く駒村さんに同意する。実質的に自衛隊が「戦力」であることは自明であったとしても,「戦力未満の実力組織」との詐術的解釈をし続けた結果,逆に積み上げられたものも大きい。それを解きほぐして改憲をするには,まだまだ時間や熟議が必要だ。そして改憲を考える場合は,戦争の論理ではなく,平和の論理でもって改憲案を提案すべきだと思うわけである。山尾改憲案は,現憲法の絶対平和主義を切り捨てるものであり,あまりにもおざなりである。「自衛隊」を憲法に書き込めば違憲状態が解決するとか(安倍加憲),個別的自衛権に限定すれば戦争を防げるとか(山尾「立憲的改憲」),そういう安易な考え方で平和構築ができるはずがない。安倍加憲とともに山尾改憲案も極めて危険。全く話にならない。

 私が一番許せなかったのは,改憲案の最後の項に,取って付けたように「我が国は,世界的な軍縮と核廃絶に向け,あらゆる努力を惜しまない」と書いていることである。軍縮とか核廃絶とは真逆の,「武力を行使する」という文言を書き込んで戦争国家を目指す改憲案を示しながら,最後にこういう詭弁を弄するようなことを書き込む政治家は信じることができない。立憲民主党が,こういうふざけた改憲案を出すなら絶対支持しない!

【追加する条項】第九条の二
一項 前条の規定は,我が国に対する急迫不正の侵害が発生し,これを排除するために他の適当な手段がない場合において,必要最小限度の範囲内で武力を行使することを妨げない。

(略)
六項 我が国は,世界的な軍縮と核廃絶に向け,あらゆる努力を惜しまない。
 (本書p.375~p.376)

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