東浩紀さんはなぜ迷走するのか | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)


 選挙の棄権を呼びかけて実質「安倍応援団」みたいなことをやっている東さんが絶賛炎上中なわけだが,どうして東さんのような優秀な人がこんな風におかしくなってしまったのだろうか。それを問うことは,ひとり東さんがどうこうというよりは,80年代以降のニッポンの思想の行き着いた先を見定めることにもなるのではないか。東さんのこの迷走は,結構大きな思想問題を孕(はら)んでいるように私には思えるのだ。

 80年代「ニューアカデミズム」に外挿されたポストモダンが,その後ひとしきり喧伝され,さまざまな変奏を経て辿り着いたその先が,ゼロ年代初めに出た東さんの『動物化されたポストモダン』であり,また今の東さんが必死にやっている民主主義の破壊運動なのではないか。デリダなどのフランス現代思想を知りすぎた(反対に日本を知らなすぎた)東さんがこのように崩れていくのは,80年代からのニッポンの思想の流れからして必然だったように私には思えるのである。

 ポストモダンは,「大きな物語」が終わって,「小さな物語」が散乱し氾濫する時代を極めてポジティヴな像として描き出したが,それ以降,その多元化と複数化と相対化がひたすら進められ,どうしようもなくなってしまった。そして結局,このどこまでも続く相対化を丸ごと認めるしかないという「最悪の現状肯定」に陥っていくわけである。そこでは,人の生死に関わるような倫理的な判断さえ阻害する恐れがある。相対化(ポストモダン)を徹底化した社会においては,倫理的な「個」は死滅するほかない。事実それを示すような事件が90年代以降頻発したわけである。90年代初めデリダの批判的解読で論壇デビューし,「脱構築」を徹底化していった東さんは,そうしたポストモダンの文脈のド真ん中にいる。

 ポストモダンの徹底化は不可避的に破滅に向かう。そのことを浅田彰や柄谷行人ははっきりと認識し,それに抵抗する理論を用意していたけれども,東さんはどうもポストモダンの流れに乗ってそのまま自滅しようとしているように見える。自滅だけならまだしも,他者や社会を巻き込みながら破滅に向かっているとするなら,それには抵抗しないわけにはいかない。例の「積極的棄権」というキャンペーンも,日本の現実への脱構築の適用なのであろう。というか,本人にとっては民主主義を脱構築しようという試みであり,革命的なパフォーマンスとしてやっているつもりなのだろう。だが,それが本当に革命的・創造的な破壊となりうるだろうか。それは実質的にニッポンの現在=現実を肯定し受け入れていく振る舞いに過ぎないのではないか。

 私が東さん(=デリダ)の脱構築主義に懐疑的なのは,やはり第一に歴史性が決定的に欠如しているという点である。ここで詳しく論じる余裕はないけれども,要するに脱構築とは,あらゆるものに「かもしれない」という可能性の束を挿入する思考法である。だから,「ああも言えるし,こうも言えるし,・・・」を永遠に繰り返すことになる。その無限ループに時間性はあるが,真の意味で歴史(性)はない。実際,永遠に脱構築し続けることなどできないし,いずれ底が抜けるはずだが,その底が抜ける論理もないし,底が抜けた先も見通せていない。そういう意味では,いつまでも日銀が国債を買い続けられるはずもないのに量的緩和を続けようとする金融政策や,放射性廃棄物の処理の仕方が分からないまま原発を動かし続けるエネルギー政策も,脱構築主義の産物と言える。そんな非歴史的で非主体的な脱構築主義に未来を見通せるとは思えない。

 脱構築主義やシステム論的思考から導かれるのは,ある種の合理的な監視社会,宮台さんや東さんにならって現代思想的な用語で言えば,環境管理型社会(アーキテクチャー)である。それは近い将来の日本である。

 東さんの具体的な立ち位置は次のパラグラフにはっきりと表れている。

 筆者は連載開始の時点では,ポストモダン系リベラルの多くの論者と同じく,監視社会批判の立場に立っていた。・・・しかし,連載を進めるにつれて,その足場そのものが危うくなっていった。連載終了の時点では,筆者は自由の観念を信じられなくなり,監視技術を単純に批判できなくなっていた。(『情報環境論集 東浩紀コレクションS』「あとがき」)
 (佐々木敦『ニッポンの思想』p.321より)


 東さんにとっては,民主主義や個人の自由よりも国家秩序維持や国民監視の方にヨリ重い価値が置かれている。すなわち,監視社会化が,やむを得ない方向性として考えられているのである。だから「選挙なんて,くだらねぇ」と言える。棄権して民主主義を問い直したい,つまり民主主義を脱構築したいなどと,いかにももっともらしい欺瞞を言えるわけである。「選挙を棄権して民主主義を問い直す」といっても,東さんのキャンペーン声明文を読む限り,それは在日外国人や障害者の方々のように選挙権を剥奪されているか制限されている人たちの立場からの脱構築では決してないことが分かる。そういう権利弱者やマイノリティへの配慮は全く見られない。そういう「幽霊たち」(東さんの言葉)の声に耳を傾ける脱構築であれば私も賛同したであろうが,そういう可能性は閉ざしたままである。すなわち,投票権の行使によっては今の政治を変えることはできない,むしろ投票は今の政治状況を追認することになる,だから棄権こそが民主主義の問い直しになる,という思いっ切り飛躍した脱構築なのである。別に選挙だけが民主主義ではないし,私も偉そうに「投票しましょう」などとは言いたくないけれども,東さんの影響力を考えると,言わざるを得ない。

 もう一つ,歴史性の欠如に関連して,私が東さんの脱構築主義に欠けていると思うのは,経済学的思考なのである。特に価値論的思考が全く欠けていることが致命的であるように思う。だから,一物一価の価値法則が貫徹する自由で公正な市民社会の歴史的・現代的意義が理解できない。よって市民社会や民主主義よりも管理社会化の方向に向かうのである。東さんは2000年代になると,社会学や心理学や工学,法学などを取り入れて,抽象的・思弁的な哲学・文学からヨリ実践的でリアリスティックな思想へと移行したように見えるけれども,しかし東さんの脱構築の本質は変わっていない。すなわち東さんの脱構築主義の致命的な欠陥は,歴史性を欠き,個=単独性を欠き,また市民社会的視野を欠いていることで,国家=資本に対抗する原理を持ち得ない,という点である。その点が,浅田さんや柄谷さんとの決定的な違いである。東さんはむしろ「安倍応援団」みたいなことをやって,現状=現実を肯定するだけ。ただ今ある世界を受け入れることしかできない。たぶんそのことに本人も気づいていると思うが,彼のアイデンティティともいえる脱構築主義からは逃れたくても逃れられないのだと思う。

 正義とは計算不可能なものである。生活のあらゆる場面がデータ化され,解析され,リスク管理の資源としてシステムへとフィードバックされる環境管理型社会において,この言葉ほど,わかりやすく,そして実行が難しいものがほかにあるあろうか。(「情報自由論」)
 (『ニッポンの思想』p.330より)

 ここに書かれている「計算不可能なもの」としての「正義」とは,民主主義や公正,平等といった価値・理念であろう。それは,東さんにとっては「実行が難しいもの」だという。つまり民主主義や公正な社会は,東先生によって実現が難しいものとして棚上げもしくは否定されてしまったのである。そう結論せざるを得ない所が,ポストモダンの行き着く先なのである...。


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