NHKの再放送だが、90年代のサブカルを語る番組を観ていた。
僕が生まれたのは90年代の真ん中で、人として意識的に生きられるようになったのはミレニアム直前くらいなので殆ど90年代に生きていないのだが、確かにその時代にその場にいて、小さい手でゲームボーイでポケモンをやっていた。
今、2015年から見てあの頃を思い返すと、全てがまだぎこちなく全てが「画質の悪い」時代ではあったが、「画質の良い」今に比べて、どこか温かみのある良い印象が頭に浮かんでくる。
こう思えるのは、昔だからだろうか、それとも本当に今に比べて良かったからだろうか。
何を基準に良い悪いを決めるのは人それぞれだが、おそらく前者であろう。ゲームにしてみても今のゲームは殆ど「もう一つの現実」となっているようなものもあるくらいだし、昔に比べて発展はしている。良化していると言えるだろう。
何故、僕は(人は)一般的に昔を良しとするのだろうか。昔だって今と同じくらいトラウマなことや悩みやらがあったはずなのに、何故。
「人は辛いことや悲しいこと時が経つと忘れるものなんだよ」という感じのことを様々なところで聞くが、僕はそれは違うと思う。僕は小学2年の時クラス全員が見ている中、先生に怒鳴られたことを昨日のように思い出せるし、泣いたことも一つ一つ忘れることなく思い出せる事ができる。忘れないのだ。忘れないから、相対的に昔になればなるほど楽しかったことが大きくなるわけではなく、昔が記憶上でどんどん良くなることはないとも思っている。
多分、この答えは「思い出」という言葉にある。
「思い出」という言葉は昔にあったマイナスなこともプラスなことも全てひっくるめて、なんか良かったんじゃね?と思わせてしまう魔法の言葉だと僕は考える。僕としては「思い出」という言葉が昔を美化しているから昔が良しとするのだと思うのだ。
そう思うと、「思い出」という概念の無い世界があるとしたら、その世界は常にパンドラの箱が開けっぱなしになっているような、人々が昔を枷にして生きている世界であるのだろう。
今僕がこうしてこの国語力や文章力の無い文章を書いているこの時も、この瞬間から「思い出」というパンドラの箱にしまわれているのなら、いつかこの箱を見て良いと感じられる時が来るに違いない。
いつしか良かったと思う日々、僕は今日も今日を生きていこう。