五月雨をあつめて早し最上川という句がある。松尾芭蕉のものだが、私が好むものを例示しろと言われたら、多分これが適切である。
私は小説あるいは詩、そういったフィクション性のあるものを読むときに、人間であるから、その作品が気に食わないだとか、この作者のは好きだというのを思いながらする。別にこれは批評家を気取るとか、そもそも批評というものすらない。というより、私の読書の好悪についての性質上、「面白かった」「つまらなかった」くらいの、小学生の読書感想文のようになるから、批評という土俵に立てないのだ。
私は、フィクションを脳内で映像として処理してから読むので、その風景についてなにかしらの感情を引き起こすもの、そしてその中でも特に、思い起こされる風景、映像が綺麗だったりしたものが好きなのだ。それに、映像作品においてだってライブ感満載で、その瞬間瞬間の面白さについて好悪を決めるので、正直なところ、ストーリーの重厚さは「私にとっての名作には」必要な条件でなく、アクセサリー的価値を持つものであるから、小説についてもハッピーエンドならそれでいい、というのが大まかな私の条件である。ストーリーがつまらなくとも映像の妙(あるいは文章が表す動きの妙)があったりするものは好むが、何かをご大層に風刺してみたりだとか、社会の闇を暴くだとか、そういったものを見せられたとて、それを評論でなく、フィクション的物語として売り出しているのだから、まずは表面としての物語が面白くあれ、というのだ。インターネット上の表現を借りるならば、壮大になにも始まらない、というのを私は楽しむことができる。しかし、内包した主張が素晴らしいがつまらないといった風なものは、もうそれは評論として出してしまったほうがいいのではないかと内心毒を吐く。それどころか、作者はどうしてこんなつまらぬもので満足したのだろうか、説教がしたいけれどもそれを看破されたくないから、適当なものを被せただけじゃないかとまで思ってしまう。
だから、批評によくある、ストーリー自体について話をするというのではなく、それといって映像の妙を論理構造をもって論じられるというでもなく、どうしても自分の気分に適ったものを好むというところから私は脱することができないので、批評家を気取って何々について、こう言う点において客観的価値があるだとか、あるいは倫理的問いかけを行ったから新しいとかを言うことはできず、ただ単に、こう言うところが好きで、でもこういうのが気に食わなかった、こういう描写が欲しい、そういったことしか言えぬのだ。
先の芭蕉翁の句をなぜ引き合いに出したかといえば、その極短き文章が、私が見たことのない最上川という川について、五月雨が収束して奔流になっている、そしてその怒涛はおおよそ初夏の頃にだろうか、暑さの中に清涼さをもたらしているのだということを、映像として脳が理解できるのだというところである。そういった、映像として受容できる感動を私が好むのだということを言い表すのに最も適しているだろうと考えたからだ。
しかしそういうことを考えた時、私はいったい、文芸批評や、あるいは誰か文人について論文などを書くということに甚だ向いていないと考えられる。多分個人的好悪が先行して、「批評」を、つまり客観的な観察と、現実に即した評価が難しいように思われるのだ。