一週間続くスコット、"仮庵の祭り"は休日モード。




なのでこの機会に常々行ってみたかった場所へどんどん行く。



今日の目当てはクムランの遺跡。





"20世紀最大の考古学的発見"と謳われた、「死海文書」が発見された場所である。




エルサレムからバスで約1時間弱。




いつもバスで通る道を通って、ヘブライ大学の裏手に出ると、そこはもうすでに砂漠の光景。





大学のラウンジから広大な砂漠の光景が見えるほど、エルサレムは砂漠にほど近い。





エリコの街の横を通って、少し行くと、クムランの遺跡にたどり着く。





家から1時間とちょっとでこんな場所についてしまう。でも普段の生活では雑務に追われてなかなか行けないのだ。


クムランへ向かう道。向こう側に死海が見える。





1946年の冬、このあたりに住むベドウィンの羊飼いの少年が、子ヤギを追いかけて石を洞窟に投げたところ、中から陶器が割れるような音がして見に行くと、中から古い巻物が出て来た、という。これが「死海文書」の発見につながった。






いったい誰がこれを書いたとされるのか。



定説となっているのは、"エッセネ派"と呼ばれた、ユダヤ教の一派で、清貧で、厳格に戒律を守った集団生活をこのクムランの洞窟で営んでいたという。洞窟の近くには、会食をともにするスペース、"ミクべ"と呼ばれる儀式的な沐浴が行われる場所の跡も発掘されている。



沐浴のための"ミクべ"の跡

集会のためのスペース。ここでは、食器として使われたらしい陶器の破片がいくつも発見されているという。

ここがクムランの洞窟。






ここで修道生活を送ったエッセネ派の人々は洞窟の中に住み、死海写本を書き記した。





エルサレムの古い地区で、地下の岩盤をくり抜いて作られた洞窟のようなスペースは、夏は石が冷たいので涼しく、逆に冬は石が温かさを逃がさないのでとても快適なのだ。





今なお電気が通っていないという、エルサレム近郊のマル. サバ修道院の修道士たちも、冬のエルサレムの寒さに溜まりかねて、修道院近くの洞窟に行って寝る、という話を聞いたことがある。イコンの修復士をしている私の友人が教えてくれた話。



発見された死海文書



それまでの最古のヘブライ語文書と言えば、10世紀ごろに書かれたという"アレッポ写本"と呼ばれるものだった。死海文書が書かれたとされるのは1世紀頃とされるので、アレッポ写本よりも一気に1000年近く遡るという、大発見となったのだった。





内容はエステル記とネヘミヤ記をのぞくすべての旧約聖書の内容、「エノク書」「ヨベル書」など、今では旧約聖書の外典とされるもの、その他ギリシア語で書かれた断片など、その数は900点以上にものぼるという、大量の資料。





なぜそんなに大量の資料が洞窟の中に埋もれる状態にあったのか。





それはおそらく、当時このあたりを支配していたローマ帝国とのいさかいで、貴重な写本がローマ軍によって燃やされてしまうのを防ぐため、だったとも考えられている。





ではどうやってこの文書の年代を割出せたのか?




もちろん、歴史的、地理的相関関係を照らし合わせる研究もされているが、






この文書が書かれているのは羊皮紙。





羊の皮、つまりDNA鑑定ができるのだ。





今、本物の死海文書は国立イスラエル博物館の"死海写本館"に収められている。


イスラエル博物館の"死海文書館"
クムランで発見された陶器をイメージした形の外観。

死海写本館の内部。真ん中の円形部分に死海写本が展示されている。

展示されている死海文書






文字通りの"タイムカプセル"となった死海文書。






一説によると、洗礼者ヨハネやナザレのイエス(キリスト)も、ひょっとするとこのエッセネ派の属していたのではないか、 とも言われている。






死海のほとり、このクムランの先には、ユダヤ人が全霊をかけてローマ軍から立て籠ったという、マサダの要塞がある。





...続く!