きさらぎクリニック・2階休憩室

ガイウスはまず最初に、ミラが受けた美月クリニックでの検査結果を、元御典医ガレノスと酒神バッカスへ共有した。


「先ほどエコー下内視鏡検査で、膵臓の腫瘍から、細胞診を取った。重度の低血糖を起こしているインスリン産生腫瘍だ」


ミラの膵臓には、鉤部と体部に、インスリノーマと思しき腫瘍が描写された。


今週中に、市民病院へ入院予定だ。

こちらで全身の精査と、血管造影などを行い確定診断をつける。

 

消化器外科病棟の、女性ベッドが空く。情報をキャッチした主治医の一太は、素早くキープした。


それほどインスリノーマの確定診断と治療…手術を急いでいる。重度の低血糖は神経、精神的な症状も進行しやすいからだ。

 

「昔、剣闘士は炭水化物を中心とした食事で脂肪を付けた。外側から体を守ったもんだが。内部の保護は難しい、コントロ―ルできん物も当然あるの。ひとまず、冷たいお茶を飲んで、頭をスッキリしよう」

 

元御典医ガレノスはテーブルに置いた二つ折りのミラー、「タブレット・ミラー」から顔を上げ、ゆっくり立ち上がった。

食器棚の前に進むと、中からグラスを取り出している。

 
さて俺の手元にも置いてある、B4サイズ、二つ折りのタブレット・ミラーは、魔術の貴公子ナルキッソスの傑作だ。
 
朝9時、診療開始時間に合わせて、宅急便ペガサリオン、ネロがタブレット・ミラーを2枚、届けてくれた。
 
ミラのインスリノーマに端を発し、一昨日の土曜日、バリーニ家の保管庫で、かつてミラの主治医を勤めたフェリクス医師のカルテが発見された。
 
カルテの中に彷徨う魂の救済に、再生ネクタルの製造を考えた…一言、記載があった。
まさかご先祖様が、俺たちよりも先に考案していたとは思わなんだ。
 
「彼がアイデアを思い付いた、そして製造を止めてしまった、断念した経緯を知りたい」
 
ナルキッソスは、プルート・バリーニから相談を受けた。そこでバリー二家の保管庫に眠る門外不出の古文書を、タブレット・ミラーにインストールしてくれた。

フェリクス・アエミリアス・プルケル医師の診療記録と、酒神バッカスのネクタル管理記録だ。
 
カルテの原本は紀元2世紀に綴られたもの、現存するのは写本だ。
14世紀ルネサンス期に生きた、アエミリアス一族の医師が書き写した物だ。

「とても貴重な資料だ、こう判断したんでしょう」バリー二家の生き字引、ヨナスの意見はもっともだろう。
 
バリー二家は、アエミリアス一族の末裔だ。
現在当主のプルートと、2世紀に生きたフェリクスも生粋のローマっ子。
 
だからフェリクス医師は、おそらくローマで医学を学び、軍医として兵役に就いたのだろう。

彷徨う魂が視えたフェリクス医師が、再生ネクタルを思い付いた経緯や、断念した理由は不明だ。親友ガイウスにも、明かさないでいた。
 
「私で試してくれても良かったのに…」、一昨日、ケンイチさんの報告書、カルテをまとめた資料を読んだガイウスも、仰天したそうだ。
 

「ワタシはフェリクスと出会ってない、かつ年長だがの、共通点が多い。ヒポクラテス派の医学を習得した外科医で、剣闘士の担当医、皇帝たちと関わりを持った」

 

フェリクスと同時代に生きた元御典医ガレノスは、かつての同輩、その活躍に目を細めている。


フェリクス医師は、3代目皇帝ガイウスと出会って。ガレノスは、16代目と彼の息子そして、19代目皇帝の侍医を務めたんだな。

 
「ヒポクラテス医学を学んだから。ガレノスも古代ローマ版、医食同源を唱えたんだったね」

酒神バッカスは元御典医お手製デザートを、口にした。頬もゲッソリやつれてしてしまった、食べ物を口に含むと、幾らかふっくらする。

デザートはギリシャ・ヨーグルトに、刻んだデーツの実をトッピングした物だ。
 
「医食同源。今振り返ると、現代的な捉え方をしていたの」
ガレノスは冷たい緑茶の入ったグラスを、それぞれに渡してくれた。
 
元御典医とフェリクス医師が学んだ、ヒポクラテス派医学、特徴の一つは。環境や食事から病を遠ざける、予防医学の提唱だ。

バッカスが食べている、古代のスーパーフード、ナツメヤシの実はトルコ産だ。

午前中の空き時間を利用して、ガレノスが買ってきた。


彼は荒ちゃんの電動チャリをすっ飛ばして、品揃え豊富なスーパーへ買い物に出かけた。当院周辺は丘陵地帯だ、ゆるやかな坂道も多いけれども。

ガレノスは生前同様、好奇心旺盛だ。待望の電動自転車も初乗り、坂道もなんのその。


全ての道はローマに通ず…このくらい、意気込んでいた。

 

およそ3キロの道のりを走るうちに、かつて広大なローマ帝国を渡り歩いた、懐かしい風景が脳裏に浮かんだ。


キャラバン隊やローマ兵さながら、デーツを持って、自転車を充電すれば…故郷ペルガモンまで、横断できるのではないか?


恋しやふるさと…郷愁に駆られた。

 

「だからスーパーで、トルコ産のデーツと目が合った瞬間、手が伸びてしまった」


半分冗談、そこは医食同源を唱えた元御典医だ。古代のスーパーフード、こちらの栄養素を考えていた。

 

さて酒神に投与している輸液は、残量100MLを切った、本日はこれで終了だ。


バッカスは慢性疲労症候群、症状のアップ・ダウンが続いている。繰り返す微熱、強い倦怠感と食欲不振により、シンボルのワインを始め、アルコール類を欲しなくなった。


体重はマイナス7Kg。

画家カラヴァッジョが描いた、ふくよかな姿は幻だったのでは無いか?そのくらい、ボディー・イメージは変わってしまった。


ミラのような腫瘍性病変や、難病では無いけれども。慢性疲労症候群も、医者泣かせ。

症状コントロールが、難しい病気だ。


原因は確定してない。発症の引き金は、心身の過度なストレス。

薬剤だけのコントロールは、十分でないので。代替え療法も有効だ。本人も奥さんアリアドネのサポートで、色々試している。

 

食欲不振に悩む酒神は、太古からワインの摘まみにしていた、ドライフルーツは割と食べられた。


そこでガレノスは、糖質とミネラルや食物繊維が豊富なデーツの実を、タンパク質が多いタイプのヨーグルトと合わせた。

予想は当たり、食べやすいようだ。

 

酒神の嗜好の変化は、幸い肝機能の低下をもたらした。アルコール性肝障害の発症は、避けたい。


「病めるバッカス」。

またしてもカラヴァッジョの絵画を参考に、頭の中でイメージしてみると…。

ぎょろりとした眼球、黄疸まで出ている姿は、回避できそうだ。


本人と奥さんも「これだけは、棚からぼた餅だねえ」覚えたての日本語で、胸の内を明かしてくれた。

 

人間も神様の体も、バランスを整える方向へ進む場合もあるんだな。ヒポクラテス医学の原点、大元だよな。

 

「味見しよう、頂きます」

俺も皿に盛られたデーツを、一つ口にした。

久しぶりに食べた、干し柿みたいなしっとりした食感、濃厚な甘さだ。

緑茶と合わせると、後味がスッキリする。

 

ス―パーフード・デーツは古の時代から、人間の体へ糖質のガソリン、オイルにあたるミネラルを提供してきた。


古代メソポタミアやエジプト文明から、ローマ帝国でも食べられてきた。ローマ軍の兵士や、剣闘士たちの疲労を回復し、エネルギー源の一つだっだろう。

 

「お前さんも、世界の移り変わりを眺めてきたんだな。お疲れさん」


ローマ帝国3代目皇帝ガイウスは、小さな木の実を手に取り、一言添えてから口に入れた。

 

「さあデーツの糖分で、脳の働きも加速するだろう。フェリクス医師と看護夫ルカが、再生ネクタルの製造を閃いた、そして断念した理由を探ろうではないか」

 

元御典医ガレノスもデーツを頬張り、音頭を取った。彼とバッカスは午前中、ミラのカルテには、ほぼ目を通していた。


ガレノスは疑問を解くヒントになりそうな箇所、初診時を開くよう促してくれた。


ガイウスが右人差し指でミラーに触れ、ページを出した。

左ページはラテン語、右ページには日本語訳が表示される、優れものだ。

 

さてミラの初診は、紀元160年4月1日。

剣闘士デビューに向け訓練中に受傷した、右横隔膜下の傷だった。練習相手のシカ(湾曲した短剣)、木剣で受傷した。

 

外科医らしい細かい腹部のイラストから、患部の状態はほぼ把握できた。
 

ミラが受傷した右横隔膜下の切傷は、右側腹部にかけて10センチ弱。割と大きな傷だが、臓器を損傷するほど深くはなかった。


しかし木剣も、あっぶねえな…。


グサッと刺さったら、肝臓損傷だって起こしかねない。腹腔内出血を来したら、えらいこっちゃ。当時の医療では、止血困難だったろう。

 

「シカによる傷の治療には、薬草ヤローを用いた」


えっ、治療にヤロー?…更に驚いた。

俺たちも太古の傷薬ヤローを、神酒ネクタルと混ぜて、再生ネクタルの一つを拵えたんだ。

 

「ヤローは炎症を抑え、傷の回復を促進する。精神安定や、女性の体の周期を整える効果も持つ。女性剣闘士は魅せる意味合いも大きい、ヤローの効果に期待する」

 

フェリクスは薬草ヤローを煮て、洗浄に使った。かつ煮汁へ樹脂を混ぜて、軟膏を作った。これを患部に塗って、包帯保護した。


 当時外傷治療は、ワインで洗浄したあと、樹脂で創傷被覆した。フェリクスは個別性を踏まえ、治療を行なっていたようだ。

おそらく僻地での軍医経験で、柔軟さを求められただろう。
「その経験が開業後、特に剣闘士らの治療に活かされたのではないかの?」

ガレノスも、似たような経験を積んだ。彼の場合は特に、解剖からの学びも糧になっていた。
 
「フェリクスはヒポクラテス医学を学んだ、同志だ。ガイウス…彼は横の広がり、哲学まで視野を広げてなかったか?それが再生ネクタルの製造、ヒントを導いたのではないかの」
 

元御典医はフェリクスとルカが、再生ネクタルの製造を閃いた動機を、二つ思い付いたんだそう。

その一つ目に迫る。

 

「確かにフェリクスは軍医時代、開業してからも、日々遅くまで勉強していた。哲学も熱心に読みけっていたな。私は苦手だったし、未だにとっつきにくい」

 

ガイウスは横目でもはっきり見て取れる、デーツを食べながらニヤッとした。

その気持ちは、分かるな…。


俺も仕事…医療倫理に絡んだ内容とか、それこそヒポクラテスの誓いが入口だったし。

医療哲学者ガレノスやフェリクスを前に、恥ずかしいくらいの知識しか持ってない。

 

先人たちの学びが現代の医療倫理、医の倫理に繋がっている、本当に頭が下がる。


「フェリクスも、医療哲学者だったろう。私も学んだ紀元前の哲学者の中には、輪廻転生説を唱えた者もおった。彷徨う魂が視えたからこそ、救済まで、考えたのではないかの」


ガレノスらしい、柔軟な発想だな。医療と哲学のルーツはギリシアだ。医療のベースに哲学的な思考が、自然と含まれたんだ。

 

「輪廻転生…彷徨う魂らを生まれ変わりへ進めたくて、再生ネクタルを閃いた可能性は高いね」

俺は合点がいった、ポンと膝を叩いてしまった。

 

「当時ローマ人の間で、主流だった死生観は。旅立った先は何もない、暗闇だと考えられていた。なおさら再生ネクタルの製造に関して、誰かに打ち明ける事は、憚られただろう」


今度はガイウスが、再生ネクタルについて、沈黙を貫いた理由を推測した。

 

「まして生前の私は古代ローマの神、この頂点に立った、自ら神格化したと思い込んでいた。だから死後も、ユピテルたちが暮らす空間で、過ごすと信じていた」

 

親友フェリクスは、ガイウスと異なる見解を持っていただけに。打ち明ける、相談するタイミングを逃してしまったのかもしれないな…。

 

「さて、再生ネクタルの製造を思い付いた、二つ目の動機を推測しよう。ローマ帝国の医療水準と、人口問題が根底になかったか?

乳幼児の成長と、平均寿命の延長は切実な課題だったからの」


ガレノスはデーツに手を伸ばし、ポイと口に入れた。


「特に辺境…国境付近の人口減少は、生活の安全に直結した。辺境の地で医療班に所属したフェリクスは国が抱える課題を、目の当たりにしただろうな」

 

ユリウス・カエサルが医師へ市民権を授与した背景にも、この問題解決が含まれていた。

裕福な貴族層には再婚を促す法律が、設けられたくらいだ。

 

「フェリクスとルカは彷徨う魂らを、見かけるうちに、ふと思い付いたのではないかの。

彼らが輪廻転生へ向かったら、国が抱える課題の解決に、結びつくかもしれない。そこで神酒ネクタルの応用を、閃いたのではないか。これが二つ目の推測だ」


ガレノスは皇帝の侍医でもあったから、軍医を経験している。フェリクス同様、リアルな現場も遭遇しただろう。
推測の根拠が、納得できる。

 

古代ローマ軍の医療班…ローマ版DMATは、30名で構成された。有事の際は医師二人と看護夫、そして獣医師で6000人と、物資を運搬する要、動物の命を預かった。ハードな仕事だ。


とはいえ当時「資格」はなかった、ヘルプの力も大きかっただろう。

 

さらに街道の敷設や整備、橋梁などなど…公共事業でも、事故や怪我は起きただろうし。

軍病院では付近で暮らす人々も診察、治療した。


多忙な日々を送るうちに、再生ネクタルの製造、必要性を、ひしひしと感じたかもしれない。

 

その一方で、胸の内を明かす訳にはいかなかった。主な理由は、当時主流だった死生観が、ブレーキを掛けたのではないか?


「あんセンセは、軍医だった、今じゃ剣闘士も診察している。熱心で腕も良い、評判だけんが。兜の下に隠れた、素顔は怪しかね」


「彷徨う魂が視えると?救済まで考えとるけん。それは不可解じゃけ、あの世は、まーっくら…なーんもない世界たい」


「裏では、アコギな商いに手を染めとるんよ…〇〇に効くニセ薬とか、売ってなか?」

 

尾ひれの付いた噂が回れば、患者さまからの信頼を失う可能性をはらんだろう。


 ましてヒポクラテス医学は、病気を科学的な視点で探求した。アイツは、過去の医療へ遡ってる…迷信や魔術が病気の原因だ、考えを改めた。

同業者に誤解を招き、クールな視線を浴びたかもしれない。


この様な背景が影響して、再生ネクタルの製造に関して、沈黙を貫いたのではなかろうか?


「でも再生ネクタルの製造を、ある日パタリと断念した、その理由も不明だよ。ヒントになるかもしれないから。ボクのネクタル管理記録、紀元160年4月1日のページを開いてくれる?
ミラの初診時と、照らし合わせてみよう」
 

今度はバッカスがバトンタッチした、次の疑問の解決へ、話しを進めた。

フェリクスにとって、ミッションに等しかったろう、再生ネクタルの製造を断念した理由だ。


フェリクス医師は、クサンテン駐屯地で出会った看護夫ルカの協力を得て、カルヌントゥムで開業した。ルカも、彷徨う魂が視えた。

 

「ヘベレケな日々でも、人々からの祈りはちゃんと聞き取っていたんだよ。まあ奥さんアーリィに、協力して貰ったけどさ」

 

酒神はネクタル管理記録へ、神酒の分配量や返却、予定変更まで詳細を記録していた。


人間がネクタルを希望する場合、祈りの最中だった。うっかり聞き逃したり、間違えるわけにいかない。

父親である最高神ユピテルから託された、神酒ネクタルの管理は、バッカスのミッションだ。

 

さてフェリクスとルカは、敬愛した古代ローマの神々へ、午前零時の祈りを日課としていた。その際、神酒の使用を相談していた。

 

ミラの初診時、紀元160年4月の祈りでは、こんな風に述べていた。


「不老不死のネクタルを使えば、彷徨う魂らを昇天へ、生まれ変わりへ進める事は、可能ですね」


「臨床現場で用いてきた、薬草と組み合わせて再生ネクタルを完成させたいのです」

 

ここまでイメージを膨らませていたら、いついつ、ネクタルを届けて下さい…。いよいよ現実味を、帯びてきた。

宅急便ぺガサリオンへ、日にちと時間指定で、配送依頼も、そう遠くはなさそうだ。


バッカスとアリアドネは、毎夜ドキドキしながら、午前零時の祈りへ耳を傾けていた。

それでも超多忙な二人からの返事は、年月を要した。

 
「ついにその日が訪れた!ところがどっこい…。ミラがアナフィラキシー・ショックで旅立った170年8月最後の日、二人のメッセージは一転したんだ。酔っていたから聞き間違えたかと思って、アーリィに確かめたくらいだよ」

ガイウスはミラー・タブレットに触れ、ページを進めてくれた。

この日、午前零時の祈りでは、フェリクスとルカは、決心を素直に告げていた。

 
「医療の神アポロン、アスクレーピオス。私たちは踏み込んではならない領域へ、足を踏み入れようとしていた」

「酒神バッカスと女神デイアナよ。彷徨う魂の救済は、やはり私とルカの役目ではないと分かった。ネクタルは望みません」

これ以降、二人はネクタルについて一切触れなかった。ネクタル管理記録にも、残されてない。

 
フェリクスとルカは医療の神アスクレ―ピオスとアポロン、そして酒神バッカスと月の女神デイアナを崇拝していた。

後者二人を尊んだ理由は。
当時、創部の洗浄や消毒に葡萄酒を用いた、もしくわ薬草だ。それらは女神デイアナが司る、自然…命により育まれるから。

 

「二人は、断念したけれども。神々にも、再生ネクタルの製造を諦めた訳を明かさなかった。切っ掛けは、ミラの急逝以外、考えられないなあ…」

 

バッカスは首を傾げている。

 

「親友の私も同感だ。今度はミラのカルテ、最後のページで検証しよう。

彼女はカルヌントゥムの剣闘士養成所で、女性剣闘士の練習に参加していた。この時に、蜂か蜘蛛に刺された、アナフィラキシー・ショックで急逝したな」

 

ガイウスはお茶を啜り、掠れたバリトンボイスを潤した。俺はその間に、タブレット・ミラーに触れる。ネクタル管理記録を閉じて、ミラのカルテ、最後のページを開いた。

 

掠れぎみのバリトンボイスは、手術時の気管内挿管の影響だ。左腹部の創痛よりも、早期に回復するだろう。

 

さてフェリクス医師が綴ったミラの最期へ、目を通してみよう。

プルートが翻訳してくれた報告書は読んでいるから、当時をよりイメージしやすい。

 

「この時ミラは、円型の庭に面した回廊に腰かけて、剣闘士たちの練習を眺めていた。
その中には網闘士であった夫も、訓練を実地していた」
 
ミラは所属した一座のファイターと、結婚していたんだ。それ以前にガイウスやフェリクス、そしてルカと出逢っていた。

場所は、クサンテン駐屯地付近だった。
ミラの家族は、ゲルマン民族間の争いに巻き込まれて、ライン河を渡った。

そこで同じゲルマン人、駐屯地付近に住んでいたローマ人に助けられた。
両親と兄妹は、裕福なローマ人の屋敷へ務めた。

再び自由な生活を取り戻したい、解放税を考えたミラは、女性剣闘士の道を選んだ。
彼女の人生も、死後彷徨っていたガイウス同様、ドラマチックだったな…。
 
カルテではミラの急変、この知らせを受けて駆けつけたあと、周りの者から確認した、彼女の状態が綴られていた。

「休憩中だったミラは燦々と降り注ぐ、午後の日差しが眩しかったのだろうか?
度々、額に手の平を翳して、光を遮っていた。
 
太陽光を味方につけて技を魅せるファイターらしからぬ様子に、気が付いた者もいた。しかし休憩を理由に、誰も不可解に思わなかった。

ミラは無事10年を務め引退した、ベテランファイターだ。太陽光を味方に付ける術は、備わっていたはずだ。長年、体に染み付いた動きを、突然忘れるだろうか?

仮に練習の疲労で、集中力に欠けていたとしても。ぼんやりしていたからこそ、小さな蜂か蜘蛛に気が付いても良さそうではないか」
 
フェリクスとルカは、ミラの状態に疑問を抱いた。
 
「実はミラが回廊に腰かけた時点で、生気・プネウマ…魂が肉体を離れる段階へ進んでいた。
目の前には、生前の私…皇帝カリグラが建設した戦車競技場チクルスが現れたのだ」

なんと様々なタイプの剣闘士が、スタートゲートに揃い、出番を待っていた。
ガイウスは二頭立て戦車の御者を務め、戦車闘士のミラは同乗した。
もちろん皆、魂たちだ。

「中央分離帯に立っていたオベリスクは、現在でもバチカン広場に残っている。その競技場が、出現したんだ、すげえなあ…」

当時の医学用語を用いたガイウスの声が、熱を帯びたから。釣られた俺も、つい声を上げてしまった。

多くの剣闘士が勢揃ったステージだから、面積の広い、戦車競技場が選ばれたのだろう。 

剣闘士競技はチクルスに比べると面積は狭くなる、円形競技場で行われた。

「魂の行進を見物する、観客席も満員御礼だ。誰かが教えてくれた」

 

客席にはローマ軍、6軍団の兵士の姿も目立った。軍旗を持っている者もいたから、所属した軍団が比較的、判別しやすかった。生前の彼らにとって、楽しみの一つが、競技場でのイベントだったのだな…。


一般人々は肌の色も、髪の毛も、目の色も…ファッションも異なる人々、老若男女が身分に関係なく揃っていた。

トゥニカやトーガ姿、ズボンをはいた者、腰巻だけの者もいた。

 

一説によると、戦車競技と剣闘士競技のルーツは、見送りの場で行われたそうだ。

ミラのアナフィラキシー・ショックは、小さな虫が引き起こしたけれど。
その背後では、広大なローマ帝国を象徴する、壮大なドラマが繰り広げられていたとは…。
熱いものが、込み上げてくる。

そうそう、ガイウスが使った当時の医学用語「生気・プネウマ」とは、なんぞや?
体を動かす元を意味するギリシャ語で、由来は哲学だ。

後世ルネサンス期になって、「魂」と解釈されたんだそう。ヒポクラテス医学を習得したフェリクス医師も、治療にあたり生気論を、根拠の一つにしただろう。

ガレノスはこの医学を研究し、自論を展開した。
脳と肝臓、心臓に流れる生気が、機能を発動する元になるとね。

例えば心臓は全身に血液を巡らせ、戻す役目を持つ。最初に生気が流れて、機能が発動する、こんな捉え方だ。

「クレイジーな生前エピソード満載、私が言うのもなんだがね。ローマ帝国は、人間の共存を考えた。様々なタイプが存在した剣闘士競技のコスチュームの一部は、各民族を象徴していたんだ。だから魂の行進でも、フル装備だった」


ガイウスはモグモグ、デーツを食べた。

2000年近く前、広大な帝国で起きた、不思議で壮大な出来事を語るには、やはり脳にプネウマを回さにゃいかんね。


「3代目皇帝カリグラって、確かにディープインパクトなエピソード満載だけど。オヒレがついた噂も多いじゃん。おかわり、クレイ・ジィ!」

「ホイ、キタッ!」


バッカスは血気盛んだった頃の古代ローマから、刺激を受けたのか?デーツ・ヨーグルトのおかわりを、元侍医へ頼んだ。

 

彼の「ディオニュソス教」も、古代ギリシアで流行った頃は、相当クレイジーだったらしい。フフフッ、他民族国家、寛容なローマ帝国では、禁教にしたくらいだ。


ルネサンス期の画家ティツィアーノが、人々の酔狂ぶりを分かりやすく、描いてたな。

 

「話は戻るがの。現代でも発生する、熱波によるローマの大火では、ガイウスは素早く指揮を執ったな。消防も消火活動に当たった、ローマ軍も被災した人々のためにテントを造営したり、食料を配給したではないか。後世では、なかなかスポットを当てない部分だの」


ガレノスはデザートのおかわりを酒神へ渡しながら、ガイウスの統治へスポット・ライトを当てた。確かに「カリグラ効果」ばかり注目しては、寂しいよなあ…。


昨日の昼間、亜子と古代ローマ時代の夢を見た。

まさに剣闘士競技が始まる、直前だった。


円型競技場では、亜子が水オルガンを演奏して。俺は戦車を操るガイウスと、ミラの登場を眺めていたんだ。夢なのに、懐かしかった。


俺の前世の一つは。

ひょっとしたらガイウスや甥っ子ネロの様に、剣闘士や戦車競技を好んだ、一市民だったかもしれないし。


ユリウス・カエサルや初代皇帝アウグストゥスの様に、自分の好みは脇に置いて、人々が求める物を提供する、裕福なスポンサーだったか?


もしくわ、元老院議員の屋敷で働いた奴隷や。命を掛けて挑む選手だったりしてね…。


前世まで引っ張り出して当時を考える俺も、相当クレイジーだろうなあ。でもそこまで思い巡らすと、眉をひそめがちな古代の競技も、客観視できる。


原点は、人間が生み出したヘビーな競技だ。

逆に古代の人々が…ローマ帝国に限らずだ、超ヘビーな現代を眺めたら、どの様に感じるだろう?

俺は馬鹿みたいに、考えあぐねてしまうんだ。



「では、その魂の行進なんだがね」

おっと魂の行進は、いよいよ幕開けだな。


デーツを食べ終えたガイウスは、頬が紅潮している、ハキハキした口調だ。


「サム二ウム闘士は、長い槍と大きな長方形の盾を持っていた。元々イタリア中部から、南部に住んでいた民族だ。

 

バルカン半島がルーツだったトラキア人…トラキア闘士は、湾曲した剣(シカ)と麦わら帽子のような形をした兜を被った。

 

魚兜闘士は兜の後方が、魚の尾ひれのような形が特徴だった。


網闘士はネプトゥウスの三叉と、網を携えた。


ミラの戦車闘士は、ひときわ色鮮やか、派手な上着を着ていた。花形の選手だな」

 

スタートゲートには太陽光が燦燦と降り注いで、とても眩しかった。 


ミラだけでなく他の剣闘士も、誰もが素直に額へ手を翳したり、心と体が赴くまま動いた。

現役時代の様に、奇をてらう必要はなかった。

 

「やがてファンファーレが、普段よりも小さく鳴り響いた。これを合図に、魂の行進は競技場の内部へ、静かに進んだ」


ガイウスはミラへ、音楽へ耳を澄ませるよう声を掛けた。水オルガンの演奏ではなかった、音色が異なった。端正な音楽は、神聖な気配を醸し出していた。


「後世になり、判明したが。演奏された曲は、聖杯への厳かな行進だった。もちろんピアノの音で…間違いなく奥深い表現を追求した、ピアニストの演奏だった」


ガイウスの青白い肌は、スキンヘッドの頭皮までほんのり赤みを帯びた。

全身の血が沸き立つような興奮を、感じているのかもしれない…。いや、それは俺か。


「魂の行進に相応しい音楽が、時空を遡ってきたんだ。俺もその場に、いたかったなあ。そこから生まれ変わりへ進みたかった」


聖杯への厳かな行進は、フランツ・リストの作品だ。ワーグナーの楽劇「パルジファル」から、リストが編曲した。


この曲は祈りそのものだ、「聖杯の動機」には祈りのメロディー…旋律が含まれるんだ。

って、これは亜子の受け売りだけれど。奥深い表現と、スケールの大きにも、グググッと引き込まれる作品だ。

 

「魂の行進は、どなたの計らいか、はっきりしないがの。意味深いな」

ガレノスが腕を組み、唸った。


そうだよ、やがてローマ帝国は、この「聖杯」を受け入れるのだもの…。

 

「気が付いたら競技場全体が、静寂と厳かな空気に包まれていたんだ。満員の客席と行進する者のざわめき、戦車の車輪が軋む音すらしなかった」

 

音楽以外に、音は存在しなかった。

しかし魂たちは感情を素直に、表現していた。


興奮のあまり身を乗り出す者、行進へ拍手を送る者、中には顔をしかめる者もいた。フフフッ、競技を好まない方だったのだろう。


ローマ兵士の中には、軍団旗を振っている者もいた。太陽光…スポットライトを浴びる剣闘士達は、腕を上げて、客席の声援に応える者が多かった。

みな喜怒哀楽、さまざまな感情を表現していた。


「今でこそ私は、生まれ変りを信じている。行進では、魂が次の世界へ進むにあたり、音楽が不要な物を浄化して、その受け皿が競技場。巨大な聖杯だったのだな」

 

無限に等しいくらいの人間の感情、体から流れ出た物を、巨大な聖杯は浄化したのだろうなあ。


ガイウスはF1ファンチームのキャップ、エンブレムに触れている。デザインは、赤十字と人を飲み込む蛇だ。


エンブレムのルーツは、赤十字は言わずもがな十字軍、蛇は脱皮が再生を現わしている説が有力だ。そうそう蛇は医療のシンボルだ、アスクレーピオスの杖にも巻き付いてる。

 

「行進の間、私の気持ちに若干、変化が現れた。自分の統治に、葛藤や後悔は残っていたが。国の行く末を、もう暫く見守りたい。聞いた事のない曲が、誕生する時代を眺めてみたいとね」

 

気持ちの変化は、後ほどミラへ伝えよう。

暗闇の世界へ進む前に、時間は取れるだろう、ガイウスは決めた。

 

やがて行進は、競技場を一周して外に出た、観衆も一人また一人、席を立って後に続いた。

恋しや故郷…。

人々は故郷とゆかりのある選手や、ローマ兵士の元へ、自然と集まっていた。

出身地を示したコスチューム姿の剣闘士、帝国各地へ基地を持ったローマ兵と軍団旗から、同郷だと判別した。

さて、いよいよ行進のゴールだ、それはドナウ河のほとりだった。
魂たちは、静かに消えていった。
 

ガイウスとミラの前には、敬愛した女神ディアナが現れた。

「私は、女神ディアナへ願い出た。もう暫く魂のまま、ローマ帝国いいや、世界の行く末を眺めたいとね」

ミラは何も言わず、頷いた。
実は女神やニンフを前にして、本音を明かすのは、恥ずかしかったそうだ。

「ようやく本当の自由を、手に入れる。そして貴方と過ごせるのだから…」後からガイウスに、コソッと明かしたんだそう。


さて男勝りな一面を持つ女神ディアナは、二人の望みを、あっさり承諾した。そして魂の状態のまま、無事に過ごせるよう魔術を掛けた。


「女神は左肩に掛けていた、金色の弓矢を降ろした。私たちへ向けて、矢を放った」


金色の矢は、ガイウスとミラの周りを、くるりと一周した後、女神が守る森へ消えた。


「覚悟を決めた二人に、特別なプレゼントを付けておいた。魔術の力で記憶の全ては、脳内へ残る。効果は永遠だ…多分な、ハハハッ」

サプライズを贈った女神デイアナは、更に一つ提案をした。

二人が出逢った懐かしいクサンテン駐屯地へ、戻ってみてはどうかとね。


ミラは兄妹の様子だけでなく、川向こう故郷の状態も分かる。ガイウスは親友と出逢い、かつて家族と共に過ごした、思い出の地だ。


「クサンテンへの近道を、案内しよう」

二人が返事をする前に、女神とニンフはドナウ河の上流に沿って進み始めた。
ガイウスとミラは、急いで後へ続いた。

「私とミラはドナウ河のほとりで、女神へ相談したから。後ろ姿を、ルカは目撃したのだろう。フェリクスもミラのカルテに、綴っていたな」
 
カルテでは後半部分、余談風に書き留めていた。

「肉体を離れたミラの魂は、ドナウ河のほとりで恋人のガイウスと再会した。看護師ルカは、私に報告してくれた」

このエピソードはプルートの翻訳版にも載っていた、印象に残っている。

 
「敏感な二人は魂の行進に、おそらく気が付いただろう。フェリクスがミラの状態を聞き取っている間に、ルカは訓練所を抜け出した。神聖な道筋を発見して、後を辿ったのではないか」

ガイウスは二人の行動を、こう推測した。

そしてこの日を境に、魂と人間の交流は、自然な形で途絶えた。手紙のやり取りも無かった。


ガイウスとミラは現在のドイツ、クサンテン駐屯地付近で。フェリクスとルカはウィーン、カルヌントゥムで過ごした。

家庭を持ち、子供を育てた。

 

「うーん…女神デイアナは医療の神アポロンの、双子の姉だもの。医師フェリクスと看護夫ルカにも、魔術を掛けたのかもしれないね…。再生ネクタルの製造を、断念したくらいだもの」

バッカスは口にスプーンを加えたまま、黙ってしまった。すると、ガレノスが続けた。

「女神は二人の医療哲学者に、本来の役目を思い出させた、集中させたのではなかろうか?
医療の普及で人口の減少を改善、広大な帝国の安全保障にも、繋げたいからの」

女神は医療哲学者の二人を、原点へ戻した…。多くの人間を、ひいては母国を救うようにとね。
元御典医らしい、考察だなあ。
 
「私はクサンテン駐屯地で、フェリクスとルカに出逢った。初対面で私のことを、渾名のカリグラではなく、ガイウスと呼んでくれた。
とても嬉しかった。初めて彷徨ってきた理由を、聞いてもらえた。初めて、本当の意味で親友ができた…二人は恩人だった」

ガイウスはもう一度、キャップのエンブレムを撫でた。彼にとって赤十字と蛇は、親友二人のシンボルだろうなあ。

彼の左上腕に彫られたタトゥーのデザインは、月桂冠の中に、オベリスクと愛馬だ。
2000年近く世界を眺めてきたガイウスの、心の奥を表現しているのだろう。

さてと。
俺たちのご先祖様が、魂の救済を思い付いて、断念した理由も推測できた。

後でバリーニ家とケンイチさん、他のメンバーへ報告しよう…。

ホッとしたのも束の間だった。

「しまった!先ほど直人の前で、ミラの記憶を確かめるつもりが。うっかり忘れてしまった」

 突然ガイウスが声を上げたので、驚いた。向かいに座る二人も、キョトンとしている。

 「ミラの記憶を確かめるって、どう言う意味、詳しく教えて」
 
直人さんに確認するつもりだったからには、インスリノーマに関連した内容だろうか?
 
「これまでミラは魔術の掛かった、昔の記憶を覚えていた。しかし一連の出来事を、急に思い出せなくなってしまったのだ」
「ええっ、急に?…」

神々と共に、フェリクス医師のカルテをまとめた報告書へ目を通した。

当然、昔話しに花が咲いたが。


しかしミラは、自分がアナフィラキシー・ショックで旅立った、背後で経験していた出来事を思い出せなかった。

「へえ、そうだったかしら?昔の出来事は、覚えてないわねえ…忘れてしまったのね」
曖昧な返事をしただけでなく、昔のカルテは他人事の様で、さほど興味を示さなかった。

24時間の絶食検査を終えて、今度はエコー下内視鏡を控えている。疲れや緊張も溜まって、混乱しているのだろうか?


ガイウスを始め、真紀子さん宅に居候中、5人の神々は、いったん落ち着いて考えてみた。

ところが更に疑問を増すような、症状まで出現した。


当院への初診時「感染症で旅立った」、ミラはこの申告内容すら、忘れていた。


確かに初診時は低血糖を起こし、意識状態も低下していた。グルコースの静脈注射で、血糖と意識状態は改善した。 


「感染症で旅立った…貴女は、アタシに話してくれたでしょう。処置室では、バッカスも点滴中だったわよ」


「倫太郎のトコへ受診した…うん、これは覚えている。感染症で旅立ったと、言ったわね。じゃあ…アタシは昔の出来事を、勘違いして申告したのかしらね」


初診時については、問診票を代筆した女神ウェヌスの指摘で、なんとか思い出した。


単なる、もの忘れなのか?それにしては、記憶力が落ちてやしないか?

本人以外は余計に困惑…混乱した。


「明日、美月クリニックで検査だ。ミラの症状、記憶の状態を確かめよう。ウェヌスと真紀子が、付き添う予定だが、私も同行する」


知恵の女神ミネルヴァは、「家庭の医学」を開いて、様々な原因で起こる記憶障害を、確かめていた。

以上から俺はミラの状態、合併症をアセスメントした。

「ミラの長期記憶は低下、短気記憶も曖昧の様だから…。健忘症状が、起きているかもしれない、原因は…」

 

「倫太郎。その原因は、インスリノーマ。低血糖を頻回に起こしている、この影響だろうの」
「うん、おそらくね」

すかさずガレノスも、アセスメントした。

糖代謝のアンバランスが脳機能、記憶へ影響を及ぼす。記憶障害…健忘症状は、認知症や、他の脳血管疾患でなくても起こる。

俺はガイウスに承諾を得て、スクラブのポケットからスマホを取り出した。

一太へラインを打ち、ミラの症状を情報提供する。入院ベットのキープは、ほんとに正解だった。

健忘症状について、その症状の適度、確認と精査が必要だもの。
しかし、同時に懸念する症状もある。

入院で生活環境が変わる事で発症する、これまた精神状態の変化なんだよなあ…。

メールを読んだ一太の脳裏にも、こちらのリスクも浮かぶだろう。
医者の俺が言うのもなんだけど、病気の治療って本当に難しい…改めて思う。
 
「あのさ…糖代謝が関係する健忘症状でも、ヤバくないっ?昔の記憶を忘れかけている、これは女神デイアナの魔術が解けているってコトだよ。
ミラは病気が治ったら、生まれ変わりへ進んじゃうよ」

ええっ、マジで…?
お寺の次男坊へメールをうちながら、俺の耳はダンボになっていた。
 
「それはマズイ、鎮魂の旅へ出られない。ユピテルに報告して、二人の神格化を早めて貰おう」
 
あらまっ、ガレノスったら…。うっかり、秘密をばらしちゃったのではないの?
まあ緊急事態だ。誰でも…神々とて、慌ててしまうのは仕方ない。
 
美月クリニックで、ガイウスとキーパーソンの神々は、本人も含めて今後の方向性について、説明を受けた。

「今週中に、市民病院へ入院だ…これを聞いて、ソワソワしたのは。どうやら本人よりも、我々キーパーソン側だったな」

ガイウスは試験外泊で、退院に自信がついた。ミラの入院よりも早く退院しよう、彼女をサポートする。

よし、明日でも構わない。主治医の一太は自信がついたら、いつでもオッケーを出してくれていた。直人さんから説明を聞きながら、ガイウスは即決した。

真紀子さんと女神ウェヌスは、どうやら入院の手続きや準備を控え、段取りを考えていた。
帰りの車内では、役割分担や買い物の予定を立てていた。

そして一番、張り切って同行した、知恵の女神ミネルヴァは…。

「市民病院で受けるだろう、精密検査や、その合併症について、あれこれ先走ってしまったんだ。直人に質問攻めだった、ハハハッ…」

フフフッ…診察室の賑やかな光景が、目に浮かぶよ。直人さん、お疲れ様。

ミラのカルテが、普段に比べて若干、簡潔に感じたのは、気のせいだろうか?

さて、ここまで俺たちは、デーツで糖分を補給し、脳に流れる生気をフル回転させていたけれど。

亜子や岸田主任が上がってくるまで、ランチを食べ忘れていた。
冷蔵庫と頭の中は、すし詰めだった。

ランチメニューは、食欲不振に悩むバッカスが希望した、食べやすそうな和食だった。

納豆巻きを始め、具沢山の太巻き、そしてぼた餅だった。
ガレノスは、たんと買ってきてくれたから。

流石に、食べきれなかった。
余った分は、荒ちゃんが丁寧に包んでくれた。それぞれ、お持ち帰りした。
 
この日、仕事を終えた夕方だ。
帰宅途中の車内で、亜子に尋ねられた。

「後々、ガイウスとミラは、聖杯への厳かな行進を演奏会で聴いたのね。ピアニストは、どなただったのかな?
二人の好みは、すっごく気になるね」

いつ、どこで…?コンサートのプログラムは?
時代によっても、異なったろう。

「しまった…ぜーんぶ、聞き忘れた」

魂の行進が、あまりにも壮大だったもんで、うっかり聞き逃した。気にはなったんだ。

どうやら現代から過去へ、広大な帝国を…いいや時代を渡り歩くには、古代のスーパーフード、デーツのエネルギーだけでは足りなかった。

かつて女神ディアナの魔術にかかった二人が、ほんの少しだけ、羨ましく思えた。


お時間を割いてお読み頂き
どうもありがとうございました
写真・文・Akito

今年は三年振りに、鈴鹿サーキットでF1レースが開催されるのですね。

星マークのチームから、ガイウスのファンチームへ、ベテランドライバーが移籍したそうですから。今期の活躍が気になって、チェックしてます。


参考図書・音源

新潮社
塩野七生著 ローマ人の物語Ⅶ・Ⅹ
 
河出書房新社
杉全美帆子
イラストで読むギリシャ神話の神々

世界文化社
吉田敦彦監修
名画で読み解くギリシャ神話
 
病気がみえる
Vol.3,4
 
静岡文化芸術大学研究紀要 
Vol.15 2014
上山 典子
リストによるヴァ―グナーのオペラ編曲法
 
Timeless‐edition.com
HERBS,各ハーブの効能

List Paraphrase
Yoshihiro Kondo(Piano)