きさらぎクリニック・2階休憩室
ガイウスはまず最初に、ミラが受けた美月クリニックでの検査結果を、元御典医ガレノスと酒神バッカスへ共有した。
「先ほどエコー下内視鏡検査で、膵臓の腫瘍から、細胞診を取った。重度の低血糖を起こしているインスリン産生腫瘍だ」
ミラの膵臓には、鉤部と体部に、インスリノーマと思しき腫瘍が描写された。
今週中に、市民病院へ入院予定だ。
こちらで全身の精査と、血管造影などを行い確定診断をつける。
消化器外科病棟の、女性ベッドが空く。情報をキャッチした主治医の一太は、素早くキープした。
それほどインスリノーマの確定診断と治療…手術を急いでいる。重度の低血糖は神経、精神的な症状も進行しやすいからだ。
「昔、剣闘士は炭水化物を中心とした食事で脂肪を付けた。外側から体を守ったもんだが。内部の保護は難しい、コントロ―ルできん物も当然あるの。ひとまず、冷たいお茶を飲んで、頭をスッキリしよう」
元御典医ガレノスはテーブルに置いた二つ折りのミラー、「タブレット・ミラー」から顔を上げ、ゆっくり立ち上がった。
食器棚の前に進むと、中からグラスを取り出している。
「ワタシはフェリクスと出会ってない、かつ年長だがの、共通点が多い。ヒポクラテス派の医学を習得した外科医で、剣闘士の担当医、皇帝たちと関わりを持った」
フェリクスと同時代に生きた元御典医ガレノスは、かつての同輩、その活躍に目を細めている。
フェリクス医師は、3代目皇帝ガイウスと出会って。ガレノスは、16代目と彼の息子そして、19代目皇帝の侍医を務めたんだな。
バッカスが食べている、古代のスーパーフード、ナツメヤシの実はトルコ産だ。
午前中の空き時間を利用して、ガレノスが買ってきた。
彼は荒ちゃんの電動チャリをすっ飛ばして、品揃え豊富なスーパーへ買い物に出かけた。当院周辺は丘陵地帯だ、ゆるやかな坂道も多いけれども。
ガレノスは生前同様、好奇心旺盛だ。待望の電動自転車も初乗り、坂道もなんのその。
全ての道はローマに通ず…このくらい、意気込んでいた。
およそ3キロの道のりを走るうちに、かつて広大なローマ帝国を渡り歩いた、懐かしい風景が脳裏に浮かんだ。
キャラバン隊やローマ兵さながら、デーツを持って、自転車を充電すれば…故郷ペルガモンまで、横断できるのではないか?
恋しやふるさと…郷愁に駆られた。
「だからスーパーで、トルコ産のデーツと目が合った瞬間、手が伸びてしまった」
半分冗談、そこは医食同源を唱えた元御典医だ。古代のスーパーフード、こちらの栄養素を考えていた。
さて酒神に投与している輸液は、残量100MLを切った、本日はこれで終了だ。
バッカスは慢性疲労症候群、症状のアップ・ダウンが続いている。繰り返す微熱、強い倦怠感と食欲不振により、シンボルのワインを始め、アルコール類を欲しなくなった。
体重はマイナス7Kg。
画家カラヴァッジョが描いた、ふくよかな姿は幻だったのでは無いか?そのくらい、ボディー・イメージは変わってしまった。
ミラのような腫瘍性病変や、難病では無いけれども。慢性疲労症候群も、医者泣かせ。
症状コントロールが、難しい病気だ。
原因は確定してない。発症の引き金は、心身の過度なストレス。
薬剤だけのコントロールは、十分でないので。代替え療法も有効だ。本人も奥さんアリアドネのサポートで、色々試している。
食欲不振に悩む酒神は、太古からワインの摘まみにしていた、ドライフルーツは割と食べられた。
そこでガレノスは、糖質とミネラルや食物繊維が豊富なデーツの実を、タンパク質が多いタイプのヨーグルトと合わせた。
予想は当たり、食べやすいようだ。
酒神の嗜好の変化は、幸い肝機能の低下をもたらした。アルコール性肝障害の発症は、避けたい。
「病めるバッカス」。
またしてもカラヴァッジョの絵画を参考に、頭の中でイメージしてみると…。
ぎょろりとした眼球、黄疸まで出ている姿は、回避できそうだ。
本人と奥さんも「これだけは、棚からぼた餅だねえ」覚えたての日本語で、胸の内を明かしてくれた。
人間も神様の体も、バランスを整える方向へ進む場合もあるんだな。ヒポクラテス医学の原点、大元だよな。
「味見しよう、頂きます」
俺も皿に盛られたデーツを、一つ口にした。
久しぶりに食べた、干し柿みたいなしっとりした食感、濃厚な甘さだ。
緑茶と合わせると、後味がスッキリする。
ス―パーフード・デーツは古の時代から、人間の体へ糖質のガソリン、オイルにあたるミネラルを提供してきた。
古代メソポタミアやエジプト文明から、ローマ帝国でも食べられてきた。ローマ軍の兵士や、剣闘士たちの疲労を回復し、エネルギー源の一つだっだろう。
「お前さんも、世界の移り変わりを眺めてきたんだな。お疲れさん」
ローマ帝国3代目皇帝ガイウスは、小さな木の実を手に取り、一言添えてから口に入れた。
「さあデーツの糖分で、脳の働きも加速するだろう。フェリクス医師と看護夫ルカが、再生ネクタルの製造を閃いた、そして断念した理由を探ろうではないか」
元御典医ガレノスもデーツを頬張り、音頭を取った。彼とバッカスは午前中、ミラのカルテには、ほぼ目を通していた。
ガレノスは疑問を解くヒントになりそうな箇所、初診時を開くよう促してくれた。
ガイウスが右人差し指でミラーに触れ、ページを出した。
左ページはラテン語、右ページには日本語訳が表示される、優れものだ。
さてミラの初診は、紀元160年4月1日。
剣闘士デビューに向け訓練中に受傷した、右横隔膜下の傷だった。練習相手のシカ(湾曲した短剣)、木剣で受傷した。
ミラが受傷した右横隔膜下の切傷は、右側腹部にかけて10センチ弱。割と大きな傷だが、臓器を損傷するほど深くはなかった。
しかし木剣も、あっぶねえな…。
グサッと刺さったら、肝臓損傷だって起こしかねない。腹腔内出血を来したら、えらいこっちゃ。当時の医療では、止血困難だったろう。
「シカによる傷の治療には、薬草ヤローを用いた」
えっ、治療にヤロー?…更に驚いた。
俺たちも太古の傷薬ヤローを、神酒ネクタルと混ぜて、再生ネクタルの一つを拵えたんだ。
「ヤローは炎症を抑え、傷の回復を促進する。精神安定や、女性の体の周期を整える効果も持つ。女性剣闘士は魅せる意味合いも大きい、ヤローの効果に期待する」
フェリクスは薬草ヤローを煮て、洗浄に使った。かつ煮汁へ樹脂を混ぜて、軟膏を作った。これを患部に塗って、包帯保護した。
元御典医はフェリクスとルカが、再生ネクタルの製造を閃いた動機を、二つ思い付いたんだそう。
その一つ目に迫る。
「確かにフェリクスは軍医時代、開業してからも、日々遅くまで勉強していた。哲学も熱心に読みけっていたな。私は苦手だったし、未だにとっつきにくい」
ガイウスは横目でもはっきり見て取れる、デーツを食べながらニヤッとした。
その気持ちは、分かるな…。
俺も仕事…医療倫理に絡んだ内容とか、それこそヒポクラテスの誓いが入口だったし。
医療哲学者ガレノスやフェリクスを前に、恥ずかしいくらいの知識しか持ってない。
先人たちの学びが現代の医療倫理、医の倫理に繋がっている、本当に頭が下がる。
「フェリクスも、医療哲学者だったろう。私も学んだ紀元前の哲学者の中には、輪廻転生説を唱えた者もおった。彷徨う魂が視えたからこそ、救済まで、考えたのではないかの」
ガレノスらしい、柔軟な発想だな。医療と哲学のルーツはギリシアだ。医療のベースに哲学的な思考が、自然と含まれたんだ。
「輪廻転生…彷徨う魂らを生まれ変わりへ進めたくて、再生ネクタルを閃いた可能性は高いね」
俺は合点がいった、ポンと膝を叩いてしまった。
「当時ローマ人の間で、主流だった死生観は。旅立った先は何もない、暗闇だと考えられていた。なおさら再生ネクタルの製造に関して、誰かに打ち明ける事は、憚られただろう」
今度はガイウスが、再生ネクタルについて、沈黙を貫いた理由を推測した。
「まして生前の私は古代ローマの神、この頂点に立った、自ら神格化したと思い込んでいた。だから死後も、ユピテルたちが暮らす空間で、過ごすと信じていた」
親友フェリクスは、ガイウスと異なる見解を持っていただけに。打ち明ける、相談するタイミングを逃してしまったのかもしれないな…。
「さて、再生ネクタルの製造を思い付いた、二つ目の動機を推測しよう。ローマ帝国の医療水準と、人口問題が根底になかったか?
乳幼児の成長と、平均寿命の延長は切実な課題だったからの」
ガレノスはデーツに手を伸ばし、ポイと口に入れた。
「特に辺境…国境付近の人口減少は、生活の安全に直結した。辺境の地で医療班に所属したフェリクスは国が抱える課題を、目の当たりにしただろうな」
ユリウス・カエサルが医師へ市民権を授与した背景にも、この問題解決が含まれていた。
裕福な貴族層には再婚を促す法律が、設けられたくらいだ。
「フェリクスとルカは彷徨う魂らを、見かけるうちに、ふと思い付いたのではないかの。
彼らが輪廻転生へ向かったら、国が抱える課題の解決に、結びつくかもしれない。そこで神酒ネクタルの応用を、閃いたのではないか。これが二つ目の推測だ」
古代ローマ軍の医療班…ローマ版DMATは、30名で構成された。有事の際は医師二人と看護夫、そして獣医師で6000人と、物資を運搬する要、動物の命を預かった。ハードな仕事だ。
とはいえ当時「資格」はなかった、ヘルプの力も大きかっただろう。
さらに街道の敷設や整備、橋梁などなど…公共事業でも、事故や怪我は起きただろうし。
軍病院では付近で暮らす人々も診察、治療した。
多忙な日々を送るうちに、再生ネクタルの製造、必要性を、ひしひしと感じたかもしれない。
その一方で、胸の内を明かす訳にはいかなかった。主な理由は、当時主流だった死生観が、ブレーキを掛けたのではないか?
「あんセンセは、軍医だった、今じゃ剣闘士も診察している。熱心で腕も良い、評判だけんが。兜の下に隠れた、素顔は怪しかね」
「彷徨う魂が視えると?救済まで考えとるけん。それは不可解じゃけ、あの世は、まーっくら…なーんもない世界たい」
「裏では、アコギな商いに手を染めとるんよ…〇〇に効くニセ薬とか、売ってなか?」
尾ひれの付いた噂が回れば、患者さまからの信頼を失う可能性をはらんだろう。
ましてヒポクラテス医学は、病気を科学的な視点で探求した。アイツは、過去の医療へ遡ってる…迷信や魔術が病気の原因だ、考えを改めた。
同業者に誤解を招き、クールな視線を浴びたかもしれない。
この様な背景が影響して、再生ネクタルの製造に関して、沈黙を貫いたのではなかろうか?
今度はバッカスがバトンタッチした、次の疑問の解決へ、話しを進めた。
フェリクスにとって、ミッションに等しかったろう、再生ネクタルの製造を断念した理由だ。
フェリクス医師は、クサンテン駐屯地で出会った看護夫ルカの協力を得て、カルヌントゥムで開業した。ルカも、彷徨う魂が視えた。
「ヘベレケな日々でも、人々からの祈りはちゃんと聞き取っていたんだよ。まあ奥さんアーリィに、協力して貰ったけどさ」
酒神はネクタル管理記録へ、神酒の分配量や返却、予定変更まで詳細を記録していた。
人間がネクタルを希望する場合、祈りの最中だった。うっかり聞き逃したり、間違えるわけにいかない。
父親である最高神ユピテルから託された、神酒ネクタルの管理は、バッカスのミッションだ。
さてフェリクスとルカは、敬愛した古代ローマの神々へ、午前零時の祈りを日課としていた。その際、神酒の使用を相談していた。
ミラの初診時、紀元160年4月の祈りでは、こんな風に述べていた。
「不老不死のネクタルを使えば、彷徨う魂らを昇天へ、生まれ変わりへ進める事は、可能ですね」
「臨床現場で用いてきた、薬草と組み合わせて再生ネクタルを完成させたいのです」
ここまでイメージを膨らませていたら、いついつ、ネクタルを届けて下さい…。いよいよ現実味を、帯びてきた。
宅急便ぺガサリオンへ、日にちと時間指定で、配送依頼も、そう遠くはなさそうだ。
バッカスとアリアドネは、毎夜ドキドキしながら、午前零時の祈りへ耳を傾けていた。
それでも超多忙な二人からの返事は、年月を要した。
この日、午前零時の祈りでは、フェリクスとルカは、決心を素直に告げていた。
これ以降、二人はネクタルについて一切触れなかった。ネクタル管理記録にも、残されてない。
「二人は、断念したけれども。神々にも、再生ネクタルの製造を諦めた訳を明かさなかった。切っ掛けは、ミラの急逝以外、考えられないなあ…」
バッカスは首を傾げている。
「親友の私も同感だ。今度はミラのカルテ、最後のページで検証しよう。
彼女はカルヌントゥムの剣闘士養成所で、女性剣闘士の練習に参加していた。この時に、蜂か蜘蛛に刺された、アナフィラキシー・ショックで急逝したな」
ガイウスはお茶を啜り、掠れたバリトンボイスを潤した。俺はその間に、タブレット・ミラーに触れる。ネクタル管理記録を閉じて、ミラのカルテ、最後のページを開いた。
掠れぎみのバリトンボイスは、手術時の気管内挿管の影響だ。左腹部の創痛よりも、早期に回復するだろう。
さてフェリクス医師が綴ったミラの最期へ、目を通してみよう。
プルートが翻訳してくれた報告書は読んでいるから、当時をよりイメージしやすい。
「魂の行進を見物する、観客席も満員御礼だ。誰かが教えてくれた」
客席にはローマ軍、6軍団の兵士の姿も目立った。軍旗を持っている者もいたから、所属した軍団が比較的、判別しやすかった。生前の彼らにとって、楽しみの一つが、競技場でのイベントだったのだな…。
一般人々は肌の色も、髪の毛も、目の色も…ファッションも異なる人々、老若男女が身分に関係なく揃っていた。
トゥニカやトーガ姿、ズボンをはいた者、腰巻だけの者もいた。
「クレイジーな生前エピソード満載、私が言うのもなんだがね。ローマ帝国は、人間の共存を考えた。様々なタイプが存在した剣闘士競技のコスチュームの一部は、各民族を象徴していたんだ。だから魂の行進でも、フル装備だった」
ガイウスはモグモグ、デーツを食べた。
2000年近く前、広大な帝国で起きた、不思議で壮大な出来事を語るには、やはり脳にプネウマを回さにゃいかんね。
「3代目皇帝カリグラって、確かにディープインパクトなエピソード満載だけど。オヒレがついた噂も多いじゃん。おかわり、クレイ・ジィ!」
「ホイ、キタッ!」
バッカスは血気盛んだった頃の古代ローマから、刺激を受けたのか?デーツ・ヨーグルトのおかわりを、元侍医へ頼んだ。
彼の「ディオニュソス教」も、古代ギリシアで流行った頃は、相当クレイジーだったらしい。フフフッ、他民族国家、寛容なローマ帝国では、禁教にしたくらいだ。
ルネサンス期の画家ティツィアーノが、人々の酔狂ぶりを分かりやすく、描いてたな。
「話は戻るがの。現代でも発生する、熱波によるローマの大火では、ガイウスは素早く指揮を執ったな。消防も消火活動に当たった、ローマ軍も被災した人々のためにテントを造営したり、食料を配給したではないか。後世では、なかなかスポットを当てない部分だの」
ガレノスはデザートのおかわりを酒神へ渡しながら、ガイウスの統治へスポット・ライトを当てた。確かに「カリグラ効果」ばかり注目しては、寂しいよなあ…。
昨日の昼間、亜子と古代ローマ時代の夢を見た。
まさに剣闘士競技が始まる、直前だった。
円型競技場では、亜子が水オルガンを演奏して。俺は戦車を操るガイウスと、ミラの登場を眺めていたんだ。夢なのに、懐かしかった。
俺の前世の一つは。
ひょっとしたらガイウスや甥っ子ネロの様に、剣闘士や戦車競技を好んだ、一市民だったかもしれないし。
ユリウス・カエサルや初代皇帝アウグストゥスの様に、自分の好みは脇に置いて、人々が求める物を提供する、裕福なスポンサーだったか?
もしくわ、元老院議員の屋敷で働いた奴隷や。命を掛けて挑む選手だったりしてね…。
前世まで引っ張り出して当時を考える俺も、相当クレイジーだろうなあ。でもそこまで思い巡らすと、眉をひそめがちな古代の競技も、客観視できる。
原点は、人間が生み出したヘビーな競技だ。
逆に古代の人々が…ローマ帝国に限らずだ、超ヘビーな現代を眺めたら、どの様に感じるだろう?
俺は馬鹿みたいに、考えあぐねてしまうんだ。
「では、その魂の行進なんだがね」
おっと魂の行進は、いよいよ幕開けだな。
デーツを食べ終えたガイウスは、頬が紅潮している、ハキハキした口調だ。
「サム二ウム闘士は、長い槍と大きな長方形の盾を持っていた。元々イタリア中部から、南部に住んでいた民族だ。
バルカン半島がルーツだったトラキア人…トラキア闘士は、湾曲した剣(シカ)と麦わら帽子のような形をした兜を被った。
魚兜闘士は兜の後方が、魚の尾ひれのような形が特徴だった。
網闘士はネプトゥウスの三叉と、網を携えた。
ミラの戦車闘士は、ひときわ色鮮やか、派手な上着を着ていた。花形の選手だな」
スタートゲートには太陽光が燦燦と降り注いで、とても眩しかった。
ミラだけでなく他の剣闘士も、誰もが素直に額へ手を翳したり、心と体が赴くまま動いた。
現役時代の様に、奇をてらう必要はなかった。
「やがてファンファーレが、普段よりも小さく鳴り響いた。これを合図に、魂の行進は競技場の内部へ、静かに進んだ」
ガイウスはミラへ、音楽へ耳を澄ませるよう声を掛けた。水オルガンの演奏ではなかった、音色が異なった。端正な音楽は、神聖な気配を醸し出していた。
「後世になり、判明したが。演奏された曲は、聖杯への厳かな行進だった。もちろんピアノの音で…間違いなく奥深い表現を追求した、ピアニストの演奏だった」
ガイウスの青白い肌は、スキンヘッドの頭皮までほんのり赤みを帯びた。
全身の血が沸き立つような興奮を、感じているのかもしれない…。いや、それは俺か。
「魂の行進に相応しい音楽が、時空を遡ってきたんだ。俺もその場に、いたかったなあ。そこから生まれ変わりへ進みたかった」
聖杯への厳かな行進は、フランツ・リストの作品だ。ワーグナーの楽劇「パルジファル」から、リストが編曲した。
この曲は祈りそのものだ、「聖杯の動機」には祈りのメロディー…旋律が含まれるんだ。
って、これは亜子の受け売りだけれど。奥深い表現と、スケールの大きにも、グググッと引き込まれる作品だ。
「魂の行進は、どなたの計らいか、はっきりしないがの。意味深いな」
ガレノスが腕を組み、唸った。
そうだよ、やがてローマ帝国は、この「聖杯」を受け入れるのだもの…。
「気が付いたら競技場全体が、静寂と厳かな空気に包まれていたんだ。満員の客席と行進する者のざわめき、戦車の車輪が軋む音すらしなかった」
音楽以外に、音は存在しなかった。
しかし魂たちは感情を素直に、表現していた。
興奮のあまり身を乗り出す者、行進へ拍手を送る者、中には顔をしかめる者もいた。フフフッ、競技を好まない方だったのだろう。
ローマ兵士の中には、軍団旗を振っている者もいた。太陽光…スポットライトを浴びる剣闘士達は、腕を上げて、客席の声援に応える者が多かった。
みな喜怒哀楽、さまざまな感情を表現していた。
「今でこそ私は、生まれ変りを信じている。行進では、魂が次の世界へ進むにあたり、音楽が不要な物を浄化して、その受け皿が競技場。巨大な聖杯だったのだな」
無限に等しいくらいの人間の感情、体から流れ出た物を、巨大な聖杯は浄化したのだろうなあ。
ガイウスはF1ファンチームのキャップ、エンブレムに触れている。デザインは、赤十字と人を飲み込む蛇だ。
エンブレムのルーツは、赤十字は言わずもがな十字軍、蛇は脱皮が再生を現わしている説が有力だ。そうそう蛇は医療のシンボルだ、アスクレーピオスの杖にも巻き付いてる。
「行進の間、私の気持ちに若干、変化が現れた。自分の統治に、葛藤や後悔は残っていたが。国の行く末を、もう暫く見守りたい。聞いた事のない曲が、誕生する時代を眺めてみたいとね」
気持ちの変化は、後ほどミラへ伝えよう。
暗闇の世界へ進む前に、時間は取れるだろう、ガイウスは決めた。
ガイウスとミラの前には、敬愛した女神ディアナが現れた。
さて男勝りな一面を持つ女神ディアナは、二人の望みを、あっさり承諾した。そして魂の状態のまま、無事に過ごせるよう魔術を掛けた。
「女神は左肩に掛けていた、金色の弓矢を降ろした。私たちへ向けて、矢を放った」
金色の矢は、ガイウスとミラの周りを、くるりと一周した後、女神が守る森へ消えた。
サプライズを贈った女神デイアナは、更に一つ提案をした。
二人が出逢った懐かしいクサンテン駐屯地へ、戻ってみてはどうかとね。
ミラは兄妹の様子だけでなく、川向こう故郷の状態も分かる。ガイウスは親友と出逢い、かつて家族と共に過ごした、思い出の地だ。
このエピソードはプルートの翻訳版にも載っていた、印象に残っている。
そしてこの日を境に、魂と人間の交流は、自然な形で途絶えた。手紙のやり取りも無かった。
ガイウスとミラは現在のドイツ、クサンテン駐屯地付近で。フェリクスとルカはウィーン、カルヌントゥムで過ごした。
家庭を持ち、子供を育てた。
神々と共に、フェリクス医師のカルテをまとめた報告書へ目を通した。
当然、昔話しに花が咲いたが。
24時間の絶食検査を終えて、今度はエコー下内視鏡を控えている。疲れや緊張も溜まって、混乱しているのだろうか?
ガイウスを始め、真紀子さん宅に居候中、5人の神々は、いったん落ち着いて考えてみた。
ところが更に疑問を増すような、症状まで出現した。
当院への初診時「感染症で旅立った」、ミラはこの申告内容すら、忘れていた。
確かに初診時は低血糖を起こし、意識状態も低下していた。グルコースの静脈注射で、血糖と意識状態は改善した。
「感染症で旅立った…貴女は、アタシに話してくれたでしょう。処置室では、バッカスも点滴中だったわよ」
「倫太郎のトコへ受診した…うん、これは覚えている。感染症で旅立ったと、言ったわね。じゃあ…アタシは昔の出来事を、勘違いして申告したのかしらね」
初診時については、問診票を代筆した女神ウェヌスの指摘で、なんとか思い出した。
単なる、もの忘れなのか?それにしては、記憶力が落ちてやしないか?
本人以外は余計に困惑…混乱した。
「明日、美月クリニックで検査だ。ミラの症状、記憶の状態を確かめよう。ウェヌスと真紀子が、付き添う予定だが、私も同行する」
「ミラの長期記憶は低下、短気記憶も曖昧の様だから…。健忘症状が、起きているかもしれない、原因は…」
お時間を割いてお読み頂き