ミラー会議に参加したヘラとゼウスは、気難しい表情を崩さない。

それはヘラ以外に遭遇しておらず、かつ人間がネクタルを持っていた、不可解な出来事だったからだ。
 
「ヘラはモデル撮影の直前、ケイ・バリー二の店員を偽った女性から、水で薄めたネクタルを勧められて、飲んだのじゃ」

ゼウスも今朝ヘラに明かされ、寝耳に水だった。

それもそのはず、彼も新商品を着て、フォロ・ロマーノでヘラと同時刻に、撮影をしたのだ。

もちろん他の神々、出番の多いナルキッソスだけでなく、エロスやアフロデイーテも、店員を騙る女性は見かけてない。
 
まして撮影期間中ヘア・メイクを担当したアリアドネも、自宅の醸造所からネクタルを持ち出して、振舞ってはいないのだ。
 
神々やスタッフも、誰一人、ネクタルを必要とする心身状態ではなかった。

老舗ケイ・バリーニの新作撮影は、前代未聞、神々がモデルだ。興奮は最高潮、ヒート・アップした現場だった。
体調は整えて、挑むだろうな。


女神ヘラも、張り切って準備を整えた。
巫女の家の一角で、真紅色のドレスに着替え、ヘアは夜会巻き、そしてメイクを済ませた。

いそいそ、ウエスタ神殿に向かっていた。

「花咲く春の喜びに…ああ、楽しく遊ぶ…」
ヘラはオペラのヒロインさながら、思わず有名なアリアを口ずさみ、心は弾んでいた。

「衣装は、椿姫が着るようなドレスでしたのよ。是非、直人先生に美しいワタクシを見て頂きたいわ」

「ええ、拝見します。ここまでは、クリニックへいらした時と、違いが大きいようですね。明らかに顔色不良だったし、蘇った記憶に、怯えていましたものね」

「ええ、発作が起きるまでは、自分でも生き生きしてた、自覚しています」

…椿姫はマリア・カラスの当たり役では、なかった?

直人さんがヘラの変化を確かめている間に、俺は亜子へコッソリ訪ねた。

彼女はコクッと頷いて、噂のピアニスト、ムネメ・ヴィアンキも、容姿が歌姫に似ていたね…意味ありげな、返事をした。


「怪しい事態は、撮影現場までの、僅かな距離と時間の隙を突いて、発生したのですわ」

ケイ・バリー二のスタッフだと名乗る女性が、アリア「花から花へ」を口ずさむ女神ヘラを、追いかけてきた。

つばひろの黒い帽子を目深に被る彼女は、ケイ・バリー二のレデイースシャツと、ベージュのロング・タイトスカート姿だった。

帽子以外は店主のパオラ・バリー二…プルートの奥さんや他のスタッフと同じコーディネートだった。白シャツとタイト・スカートは、今季のユニフォームなんだそう。
 
日差しも強かったから、店員女性が目深に被る帽子は違和感もない。

彼女はキュッと頬を上げて、声をかけたてきた。多分…微笑んだのね、ヘラはそう思った。
 
「アリアドネが、女神ヘラのために持参しました。緊張や不安を和らげるネクタルです、これを撮影前に飲んで下さいって、ボトルから紙コップに注いで、渡してくれたのよ」
 
アーリィが持参した、こう言われたら、信じてしまうよなあ。

そして過去に、過換気発作を起こしていたのは、ディオニュソスから聞いたのだろう。

ヘラは女性店員が差し出した調合ネクタルを、疑いもなく飲んだ。

「後は知っての通り。ウエスタ神殿で、翌日は巫女の家の庭で、撮影中に過換気発作が起きてしまったんじゃよ」
 
ゼウスは、苦虫を嚙みつぶしたような顔をする。
自分も含め、撮影をしていた神々やスタッフの目を盗んで、素早くヘラに調合ネクタルを飲ませたのだからね、悔しいだろう。
 
しかし今朝、冷静になった神様と女神夫婦は「何か変だった」と、気が付いた。

これまでヘラの精神状態は、回復していた。
なぜ急に、しかも重い過換気発作を、ぶり返したのだろう?

まさか、ヘラの飲んだ調合ネクタルは「不安や緊張を和らげる」どころか、逆の効果ではなかったのか?

それこそ内視鏡で使用する、鎮静剤と拮抗薬の作用と似ているではないか?

内視鏡を経験したゼウスも、我が身に置き換えて考えた。
 
「ネクタルには、恐れや不安を助長するような薬草類が、含まれていたのではないかのう?」

「だからワタクシは、一世紀も前の不審火や、犯人の姿を思い出して、強い恐怖に駆られた。それで過呼吸を、起こしたのではないかしら」
 
 ヘラの遭遇した出来事と言い、二人の推測は、さまざまな疑問をはらむなあ。

会議に参加する皆も、色めき立った。

「ゼウス…ヘラ。疑うわけではないが、本当にネクタルだったのか?」

「怪しい女性は、ほぼヴィアンキ家に関係する者だろう。ここから目と鼻の先、エステ荘に潜んでいるようだしな」

クロノスとガレノスは、矢継ぎばやに聞き返す。
 
「犯人は確定できませんけれど、彼らかもしれませんね。確かにネクタルではなく、普通の薬だった可能性もありますわ。
ねえ、直人先生?」
 
ヘラは落ち着いているし、柔軟だよなあ。
二人の指摘を考え直しているし、大好きな、いえ大ファンの直人先生を、意識する余裕もある。

「今の時点で、判断は付きかねますが…。
薬の効果を発揮した場所が、敢えて記憶を呼び覚ますようにも思いますし、そして時間を空けて、二日間続いた。
神酒ならではの、力ではないでしょうか?
祐樹と倫太郎、亜子ちゃんはどう思う?」
 
「人間界の薬の効果は、持続時間があるっすよね。だから的を絞ったような場所で、しかも短時間で過去の記憶が蘇り、強い不安を引き起せるのは神酒だからこそ変幻自在の効果でしょうね。普通の薬には、出来ませんよ」
 
俺も亜子は、一先ず返事をせずにいた。

ビアンキ家のスパイにでもなったつもりで、考え込んでしまったからだ。
 
「一旦、落ち着いて考えないか?」
 
ふとアレスが、思い立ったように、この場を仕切り直した。
 
「扱う者の心身状態によって効果の変わる神酒ネクタルを、デオニュソス以外に使える、基本的にはあり得ない。
ましてヴィアンキ家の仕業だとしたら、野望を遂げるために、ネクタルを利用したいのだろう。
しかし邪心にネクタルは、動かない。
妙だなあ…」
 
再生ネクタル造りに取り組んで、神酒の性質を目の当たりにしてきたアレスの指摘は、正しい。
俺達もその難しい性質を、聞いたばかりだ。
 
「デオニュソスの醸造所から、ネクタルを持ち出すのは無謀です、魂を失いますからね。
一か所しかない出入り口と、醸造所の周りには、私とゼウスの魔術が張り巡らされています」
 
ヘパイストスが醸造所を建築したのか。なるほど、安全管理に詳しいわけだ。
 
へパイストスとゼウスによると、その魔術は「危険な魔術」としてリスト・アップされた。

醸造所の出入り口と、周囲に近寄った者の行く末は、シビアだ。

「はっと動けなくなった次の瞬間、落雷が、ピカッと、魂まで堕ちるのじゃ」

やれやれ、物騒だな…。

「だから醸造所は、酒神と妻以外には入れないし、ネクタルは持ち出せないのです」
 
へパイストスは、語尾をすぼめる。

となると、誰がどのようにネクタルを手に入れて飲ませたのか、腑に落ちないなあ。
 
「あのう…今もこうして鏡を使ってディスカッション中ですね…」

ここで亜子が、重くなってきた雰囲気を変えるよう、朗らかな口調で切り出した。

「鏡には皆さんの自宅の様子が、多少映りますね。ナルちゃんはシンプルな寝室、ヘルメスはベッドの上に胡坐をかいている。
ウチは洗面所の鏡なので、倫太郎さんのお手入れグッズが見えますでしょう?」
 
亜子はアニュソスレッド・育毛シリーズのスプレーを片手に、鏡に映る二人へ手を振る。

雰囲気を和らげるならば、来るべき未来へ備え、育毛がバレても構わないわ。

先ほど亜子と俺が「ヴィアンキのスパイになったつもり」で、ネクタルの利用方法を考えた。これについて、話したいからな。
 
ヘルメスも行き詰まった空気を、吹き消すように、皆に投げキッスしているし。

クールなナルキッソスもフロアに横たわり、今回限りだと「水に映る己に惚れたポーズ」を取り、笑わせてくれた。
 
さて和んだところで、亜子は、誰がどのようにネクタルを手に入れて、加工したのか、いったん隅に置くと、前置きした。
 
「もしもですよ。ネクタルを通して五感などを、鏡や水などへ映し出す…再生できたらどうでしょうか?」
 
亜子と俺は、ヘラの飲んだネクタルは「新・再生ネクタル」の様な物でははないかと考えた。

「今回のように女神ヘラの視線、視覚を通したものが、スクリーンに映し出される。まさに新・再生ネクタルに期待する効果の一つです」

俺はイメージした「新・再発ネクタル」を、伝えた。

「倫太郎さんと私は、ヴィアンキ家の生まれ変わりのようです。スパイの立場で考えたら、完成した新・再生ネクタルを試してみたいと、行動するでしょう」
 
残念ながら事実であれば、相手に先を越されたことになる。
 
「ワタクシの視線を通した景色が、エステ荘のどこか…それこそ噴水の水に映し出されていたかもしれないわ。ワタクシで試したので、効果は上々だったでしょうね」
 
ヘラは一瞬、眉根を寄せて空を見据えた。
既往歴を利用されたわけだが、動揺しない勝気な態度が、芯の強いヘラらしさだな。
 
「だから涼君と早苗さんは、ヘラの視線を通して、神々がハドリアヌス帝の別荘で再生ネクタル造りをしていると、分かったのかもしれません」
 
以上、俺はヴィアンキ家のスパイになりきって、考えたけど。
現実だったら、マズイよ。


 
お時間を割いてお読み下さり
どうもありがとうございました。
 
写真 文 Akito 

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