シンガポーリアンの8割近くは中華系だ。しかし、人口520万人の4割が外国人でもある。人種の多様性では世界一の国の一つだろう。それが故に共通の行動様式というものは無い。例えば日本人のほとんどがラジオ体操を知っていて出来ると思うが、そういった同質性はシンガポールには無い。

隣の人が何をしているか?それが「同質性」からはみ出していないか?を反射的に確認してしまう日本社会とは対称的で、隣の人が英語のみならず中国語、マレー語、ヒンドゥー語、又はシングリッシュを喋っていたりする訳で、何を喋っていてもそもそも分からないしそのうち気にもならなくなる。

バスの中で携帯電話で喋る事も別にマナー違反でも何でもなく、「あ、気にしなければ何でも無い事だったのか!」と気がついた。自分もYou Tubeで音を出して見てみたが誰も気にしない。喫茶店でも誰も隣が何しているか気にかけたりしないので、一人の時は集中できる。

相互監視の村社会をそのまま発展させてお互いが気を使い合う事で「マナーのいい国」だと信じている日本であるが、それが「常識」として強制される社会になってしまっている気がしてならない。そしてその「常識」がサービスに転化されブラック労働、過剰サービスに繋がっている。海外に出たときの開放感というのはこういったものから解放されるからなのかもしれないと思うのである。

もっとこう、開放的になれないものだろうか?