ブラー、BLUR、難しいことの終わり | 新時代思考記

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令和の時代も考え続けます!

ブラー「BLUR」(1997年)という作品。

ブラーについて最近、近々解散するというニュースがあった。何でも、次のライヴが最後になるとか。

ブラーが善いのか悪いのかどうだかよくは知らないが、今まで社会で勝ち誇っていた強い勢力が終わってゆく、という感じがした。

音楽の世界だけではなく、政治の世界でもきっと同じだろう。いや、政界の方がよっぽど顕著だろう。

 

このアルバムはブラーの5枚目のスタジオ・アルバムで、全英1位を獲得。アメリカでもヒットした。

当時のブリットポップ人気の流れに乗って、ブラーは、同じ英国のバンドのオアシスと対立しながら、お互いにビッグバンドへとのし上がってゆく。

1曲目「BEETLEBUM」は良い曲で、私はとても好きだ。

全14曲収録。

 

 

東浩紀という人の現代思想・哲学系の本を今読んでいるが、余り理解出来ない。

先日、この方のYouTubeでの独り語りをじっくりと聞いていたら、それがとても面白かったので、今度は本で読んでみたいと思ったのだ。

語りと執筆は性質がまるきり違うとしても、ここまで違うものかと驚いた。

 

確かに、最初から最後まで全てが全然分からない訳ではなく、部分的には分かるところもある。

例えば、岩波文庫にあるような歴史上の著名な思想・哲学の本よりかは、幾分分かり易いとも言える。しかし、全体的にこの本を俯瞰してみて、よく分かる本だとは決して言えない。

思想・哲学を大得意とする人や、それだけで飯を食っているような人の頭の中の構造は、一体どうなっているのだろう?

以前から不思議でならないことの一つである。

 

こういった複雑で難しい文章を書く人というのは、意外なことに、世界的な社会風潮の流れを読むとか、政治の本質というか真実を見抜く力とか、僅かな世の兆候を敏感に感じるという、そういう人間としての眼力というものを、得意としていない場合が多い気がする。

論理思考は得意だが、直観力がほぼ無いからだ。

 

或る東浩紀氏のYouTubeでの語りの一部において、今、問題になっている憲法改正について話していたが、彼は、海外の国々のように、憲法はいつでも改正出来るという前例を作る為にも、日本でも憲法改正した方がいいと思う、などと発言していた。

前例、という言葉を使っていたかどうか定かでないが、言っていることはそういった意味であった。

 

少しでも世の中が分かる人にとっては、この発言はなかなか頂けないはずである。

 

憲法改正と簡単に仰るが、一度でも、現在のような悪い自民党政権が憲法改正と称し嘘を吐いて、実は憲法を大幅に改悪したとしたら、日本はそこで終了してしまうという、まさに瀬戸際の状況に今があることを恐らく分からないのだ。

前例を作るとか、そんな生温いことをやっている暇など、今の日本に有る訳がない。

 

これからは難しいことを、いちいちこねくりながら考えるという、それがまるで哲学としての当たり前のスタイル、決まった型であるかのような偽哲学は終了することだろう。

代わって、万人にも分かり易い本物の哲学が起こり、広く流行り、人々を助けるだろうと考えた。

時代的に、既にそう移っている気がするからだ。

 

デジタルとかデータベースとか機械的で非人間的な事柄は、次第に縮小する。義理と人情とか、明るく温かいアナログで人間本来に基づく事柄が、重要度を拡大する。

そういうイメージ、直観が容易に浮かぶ。