今日は前置き無しで。

前回は、在京城二等領事内田定槌から大鳥への1894年(明治27年)7月11日付『公信第405号』の別紙復命書で、荻原等が全州を訪れて色々と聞き込んだ後、泰仁に向かおうとして馬が雇えなかったってとこまででした。
今日はその続き。
んでは早速。

何にせよ致方なきに付轎夫を雇ひ、27日全州を発し同日泰仁に着し、直に府使に面し目下暴徒の状況等を尋ねたるに、当地にありては現時何等の異状あることなし。
長城及古阜には、数百群をなし強盗を働くものありと云ふことなり。
確実と認むべき説なかりし。
此地は一旦東徒の占領せし地なれば、其被害も如何あらんと考へ居りしが、民家及官庁等一も破損するものなく、且又東徒通過の際に当り彼等は何等の暴行をなしたることなし。
故に之とて損害を被らずと云ふ。
まぁ、何にしても馬が居ないんじゃ仕方ないんで、駕籠屋を雇って6月27日に全州を出発。
同27日に泰仁に到着し、すぐに府使に面会して現在の暴徒の状況を尋ねると、泰仁では現在なんの異状もない。
長城や古阜では、数百人の集団で強盗を働く者がいるっつうことだけど、確実と認められるような説は無い、と。

で、泰仁は一回東学党に占領された場所なので、その被害もどれほどになるんだろうって考えてたけど、民家や官庁など破損しているものは無く、東学党の通過の際にも彼らは何の暴行もはたらかなかった。
ってことで、これといった被害は無かったよ、と。

泰仁とかって、結構東学党の乱の連載の時に出てきたんですが、被害ほとんど無かったんですねぇ。

んじゃ、続き。

其次日は、此地より長城に赴かんとせしが、先にも全州にて泰仁地方は彼是危険ありとの話なりしに、一切其事実を認めざるが故に、又々長城に赴くも此の類ならんと察し、転じて古阜に赴きたる。
28日なりし。
此地は、今般民擾に最も関係ある地なれば、多少面白き事実を発見し得らるべしと、予て楽み居りたり。
泰仁より古阜に到るの途中は、山中にて6、7名の訝しき者に出会たると、民家の放火せられたるもの6、7軒とを見受けたるのみ。
之れは、村民が官府の脚夫共に飮食物を供したるを憤り、東徒の放火せしものなりと云ふ。
古阜に着するや民乱の原因を尋たるに、矢張前任府使が収税の酷なりしに原因し、或は府使に歎願し或は監司にも哀訴したるも一々其望を達せず、反て譴責せられたり。
然れども、此儘に打過ぎんが到底生活に途なく、互に謀議を凝せし中、茂長に於て東徒の一揆起り、東学党と称し各地を橫行し、不平の徒、若くは東学の名に惑ひ入党したるもの、又は各地に盜賊を業とするの輩附従し、遂に相互力を合すこととなり、全州迄も践入る勢に至りたりしも、目下已に其の苦情も消へ、各其業に就き何たる異状あるなしとの事なりし。
同地にて昼飯を喫し、夫より扶安に赴く途中に於て、只今東徒の残党鉄砲を持し扶安に向て行きたりとの話を聞き、轎夫馬夫等の躊躇するを叱して急ぎ追跡し、彼等に出会ひ詳細の話を聞取らんとせしに、遂に其踪跡を得ず空しく扶安に着したり。
同地にも一時は彼徒の入込たることあり、村民は多少其の害を被り或は入党したる事あるも、之迚て重々しき事にもあらずと云ふ。
全州にて敗北したる輩も、当時帰村各其の業に就き居るものあれども、総て遠隔地に在りとの事にて直接面談する事を得ざりし。
同地にて聞けば、全州陥るや扶安の橫道を通過し、何れにか逃げ行きたるもの数百名。
之れは多分淳昌に行き、当時其地に屯集すと云ふ説なりと。
同地に1泊。
翌6月28日には、泰仁から長城に行こうとしたけど、この前も全州で泰仁地方は色々危険だって聞いてたのに、一切その事実が無いので、長城に行くのも似たような結果になりそうだと察して、古阜に行く事に決定。

勿論、古阜ってのは今回の東学党の乱の起点地であり、多少面白い事実を発見できるんじゃないかと、予め楽しみにしてた、と。
んー、どういう「事実」だと「面白い」とか「楽しい」なんだろう?
つうか、お前は俺かよ。(笑)

泰仁から古阜に向かう途中、山中で6~7人の怪しい者に出会ったのと、放火された民家6~7軒を見ただけ。
この民家は、村民が官庁の運搬人等に飲食物を供した事を憤り、東学党が放火したものだという、と。

で、古阜に着いて直ぐ民乱の原因を尋ねると、やっぱり前任の府使の収税が酷い事に起因し、府使に歎願したり監司にも哀訴しても、その望みを達せられないばかりか、返って譴責された、と。
つうか、府使じゃなくて郡守の趙秉甲じゃないの???

兎も角、譴責されたっつっても、このまんま過ぎてけば到底生きていく方法も無く、お互いに謀議を凝らしている中で、茂長で東学党の一揆が起こり、東学党と名乗って各地を横行し、不平の徒や、東学の名前に惑わされて入った者や、各地の盗賊なんかが付従して、遂にお互いに力を合わせることになって、全州まで攻め入るような勢力となったけど、現在は既にその苦情も消え、各自がそれぞれの仕事に戻って異状なしって事だった、と。

古阜で昼飯喰った後、扶安に向かう途中で、東学党の残党が鉄砲を持って扶安に向かったという話を聞き、駕籠屋や馬夫がビビリ入ってんのを叱咤して、急いで追跡し、彼らと会って詳しい話を聞きたいと思ってたんだけど、最後までその痕跡を見つけられず、空しく扶安に着いた。

扶安にも一時は東学党の者が入り込んだ事があり、村民は多少その被害を受けたり、逆に東学党に入っちゃったりしたヤツもいるけど、そんな主たる動きじゃないという。

全州で敗北した連中も、当時村に帰ってきて仕事してる者もいるけど、総て遠隔地にいるって事で直接面談は出来なかった。
全州が陥落するや、扶安の横道を通過してどこかに逃げていった者が数百名おり、これらは多分淳昌に行き、当時そこに集結するという話だった、と。

ってことで、扶安に一泊。

29日、扶安より金堤に至りたりしが、同地にては格別東徒に入りたるものなく、最も静穏に打過ぎたりとのことにて、東徒全州より敗走の際は此地を経過せしと云ふ。
民家に至り飮食物を供給せしめ、扶安地方に向て出発したり。
其数凡そ6、700名ならんとの事なりし。
他に必要の事実を得ざる故、直ちに金溝に赴きたり。
金溝府使は不在中。
但、吏員一人も居らざりしに付き、村民に就き被害の状況を問ふに、初め各府縣に於ては東徒に対する厳ならず、或は優待の向もありし様子なりしが、金溝府使は部民中より壮丁を集め抗拒するの準備をなしたり。
然るに、東徒の勢遂に防ぎ難く、乱入せらるるに至り。
官庁も破られ、或は焼かれ、村中悉く逃避するに至りたり。
為に、農事等も一切手に付かず困難一方ならずとて、何れも菜色あらざるはなし。
夫より■■■■に宿泊す。
6月29日に扶安から金堤に到着したけど、金堤では特に東学党が入り込んだ様子もなく、最も静穏に通り過ぎた場所、と。
全州から敗走した際には、約6~700名が金堤を通過し、民家に来て飲食物を出させ、扶安地方に向て出発したらしい。

ってことで、特に他に必要な事も無いって事で、荻原一行はそのまま金溝へ。

金溝の府使は不在。
官吏も一人もいない。
で、村民に被害状況を尋ねると、最初は各府県では東学党に対して厳しくなかったり、あるいは優待する気配もあったんだけど、金溝府使は抗戦を決意。
部民の中から成年男子を集めた、と。

ところが、東学党の勢いが強すぎて乱入され、官庁も壊されたり焼かれたりで、村中が非難する有様に。
そのため、農業も手につかず非常に困ってるってことで、みんな顔色が青い状態、と。

訓練されてたり、武器が揃ってればまた違ったかも知れないけどねぇ。
単なる民兵じゃ・・・。(笑)


ってことで、まだ続くんですが今日はここまで。



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