長々とというか、ダラダラとというか、長期に渡ってきた東学党の乱の連載も、今回と次回で史料は終わりにしようかと。
つうか、終わるって言っても日清戦争に繋がっていったり、所謂第二次蜂起の東学党の乱もあるんだよね。(笑)
まぁ、あまり深く考えずに先に進みます。

今日最初の史料は、大鳥から陸奥への1894年(明治27年)6月17日付『機密第96号』から。
長いよ。(笑)

陸兵を撤回せしむ可き最後の処置に付伺

本日八重山艦に附托し発送取計候電稟の趣意は、既に同文面に於て御承知相成候通り、当地の形勢は本官東京発の際想像したるとは大に事情を異にし、全羅道に於ける乱民も、最初全州を陥れたる侭10余日間同城に拠守したる処、其後前後の京軍之を攻撃して去11日遂に之を恢復し、而して乱民は金堤・古阜等地に退走し、其勢復た前日の如く猖獗ならざる由及伝聞、且又清兵は前後凡そ2,000人程は既に牙山に到着したりと雖も、適々全州の恢復と乱民の勢力頓減したるが為め、朝鮮政府の請求も有之旁々其兵を南方に進めず、後命を待て進退せんとする姿に有之候。
之が為め事情我兵を貸して乱民を鎮定す可き形勢に無之、且又京城近傍は目下全く静穏の姿なれば、事実多数の護衛兵を要せざる義に付、旁以て先般後発兵の出帆差止め方を電稟及び候次第に有之候。

然るに此間中より清使袁世凱氏は、我両国兵の衝突を避け東洋の大局を保全せんとの口実にて、退兵の相談有之。
現に再昨日も来館し、目下牙山に在る支那兵を撤回せしむべきに付、我国の兵隊をも同時に撤回せしめ候事を希望する旨協議有之候。
依て彼の意中を推察するに、一は在牙山兵は長日の滞陣に困難を感じ、他の一は在天津李鴻章氏より頻りに日清両兵の衝突を恐れ、撤回の訓令を下したるに因るものの如しと(天津来報に詳かなり)雖も、猶ほ探偵に拠れば、彼が朝鮮政府に対する威信及び義務として我兵の撤回を周旋することは、重なる原因にあらざるかと被推察候。
探偵者の屡々報ずる所に拠れば、袁氏は韓廷に向ひ、我計略を以て日兵を撤回せしむ可しと常に大言を吐き居るやに及伝聞候。
依て本官は、「我両兵の衝突を避けんが為め之を撤回し、以て東洋の大局を保全する事は至極御同意に有之候得共、本使は撤兵の事に付未だ本国政府より何たる訓令を奉有せざれば、電信の接続を待て先づ政府の指令を請ひ、然後ち何分の御協議に及ぶ可し」と返答致置候。
隨て愚考するに、今回の事件は本と袁世凱が朝鮮政府に勧めて援兵を出したるは其起因にて、我政府は事実之に促されて出兵したることなれば、若し撤兵の際に日時約束致雙方相均き引揚方を為すときは、局外者より之を観るも甚だ不公平にして、之が為めに袁氏に日兵を撤回せしめたりとの名誉を与ふるは勿論、其結果は我大兵を入韓せしめながら却て清韓両国の軽侮を受け、他の外国人の嗤笑を招くに至るも難計と只管憂慮する所に有之候。
殊に我兵は最初到着の一大隊のみなれば、我政府の所置は単に公使館保護の一点に止ることならんとは、内外人共に之を認む可しと雖も、既に4,000人に垂んとする大兵を派遣したる上は、輒ち清使の相談に応じ同時に之を引揚ぐる如きは甚だ政策の得たるものに有之間敷と■確信候。
故に此際我国の威厳を保ち、将来の利益を考ふるときは、徹頭徹尾4分6分の権衡を執り、清国をして先づ其援兵を撤回せしめ以て民乱鎮定の実証を挙げしめ、然後我兵を撤回する事は当然の順序と存候。
就ては、本官始終此主意を確執し、朝鮮政府に向ては飽迄清兵を撤退せしめん事を督促し、清使に向ても同様民乱既に鎮定に帰したる後は、一日も猶予せず其援兵を撤回して来援の本義を全ふせんことを請求し、可及丈平和手段に依り其目的を達する様百方盡力可致と存候得共、萬一不幸にも清使我意を募り当方の請求に応ぜず、依然其兵を牙山若くは其他の地方に駐紮せしむるか、或は之を京城に繰入れて我兵と対峙せんと企つる如きこと有之候はば、我国は如何なる方針を執るべきや。
此際急に帝国政府は、斯る場合に処する廟議を確定せられんことを希望する所に有之候。
鄙案には、日清両国の兵永く朝鮮に対峙する場合には早晩必ず衝突を免れざる可く、加之我に於ては、4,000に近き大兵を永く滞陣せしむることは不得策なる可きに付、仮令兵力を借りても我より彼兵を退去せしめ、以て我が威厳と利益とを保全するは、今更解す可からざる政策と■確信候。
右に付、我が執が以て各国に宣言する名義は、我国は従来朝鮮の独立を認定し、且つ其独立権を保護せんことを企画するものなるに、清国は故なく其兵を朝鮮国内に駐在せしむることは、彼が常に主張する如く、事実上朝鮮を属邦とし其主権を施行するものなれば、取も直さず我認定を抹殺し、其企画を妨碍するものなり。
加之朝鮮国内に外兵の駐在するは、我国に取りては甚だ危険を感ずるに付、我企画を遂行し、我利益を保護せんが為め、外兵を朝鮮より逐出す可しと云はば、我方に於て強て其道理なきに苦む事なかる可しと思考致候間、何卒此一点に付廟議御決定相成り候様致度と存候。
右は、大略既に電信にて陳述致候得共、猶ほ其意義の充分ならざる所あるを致掛念候に付、茲に致詳陳候。
至急何分の御訓示相成候様致度候。

敬具
冒頭の、6月17日に八重山に預けて発送するように取り計らった電報が、既にどれだか分からねぇ。(笑)
この書簡自体は、日本に6月25日に接受されたようですが、八重山に預けた電信はこれから出てくるかなぁ・・・。

で、その文面にも記したとおり、朝鮮の形勢は大鳥が東京を発った時に想像していたのとは全く事情が違い、全羅道の乱民も、全州を陥落させて10日ほど立てこもっていたが、その後官軍が攻撃して6月11日に全州を取り返した。
乱民は金堤や古阜等に敗走し、その勢いは以前のような勢いは無くなったと伝え聞いている。

また、清国兵2,000人ほどは既に牙山に到着してはいるが、たまたま全州奪還と乱民の勢力が急減したため、朝鮮政府の請求もあって兵力を南方には移動させず、後の命令を待って進退する模様。
このため、事情は兵を貸して乱民を鎮定するような形勢には無く、かつ京城近辺は現在全く静穏であり、実際に多数の護衛兵は不要な状況のため、先般、後発兵の出帆を差し止める電報を送った次第だ、と。

確かに、内乱を鎮圧できずに他国に援兵依頼って、普通はただごとじゃない話。
ところが、実際は閔泳駿がビビって袁世凱の口車に乗っただけで、行ってみたら全く平穏という、あり得ねぇ展開。(笑)
ってことで面食らうわけですが、事態がそうである以上、多数の護衛兵は不要と電報したわけです。

しかし、その間中にも袁世凱は、日清両国兵の衝突を避けて東洋の大局を保全しようという口実で、撤兵の相談があり、現に一昨日も来館して、現在牙山にいる清国兵を撤兵させるので、日本兵も同時に撤兵することを希望するという協議を求めてきた、と。

従って、袁世凱の意中を察するに、一つは牙山にいる清国兵は長期間の滞陣に困難を感じ、もう一つは天津からの来報に詳細があるように、天津の李鴻章が頻りに日清両国兵の衝突を恐れ、撤兵の訓令を出した事によるようだとはいえ、更に探偵してみれば、袁世凱が朝鮮政府に対する威信の誇示と義務によって日本の撤兵を斡旋するというのが主な原因ではないかと推察する。
で、探偵者の報告を見れば、袁世凱は朝鮮政府に向かって、儂の計画で日本を撤回させるべしと常に大言を吐いていると聞いている、と。

威信のために出兵するように仕向け、日本が出張ってくるとそれを撤退させる事で威信を示そうとする。
イヤらしいヤツですなぁ。

大鳥はそれに対して、日清の衝突を避けるために両国の兵を撤兵させ、それによって東洋の大局を保全するという事には非常に同意するところだが、大鳥は撤兵の事について本国政府から未だ何の訓令も受けていないため、電信が繋がるのを待って政府の指示を受け、その後何等かの協議を行おうと返答しておいた。
こんな大事な時に壊して不通にしてるから、朝鮮に電信任せられないって話になるんだよ。(笑)

ってことで考えるに、今回の事件は元々袁世凱が朝鮮政府に勧めて援兵させたのが原因であり、日本政府は清国の出兵にせき立てられて出兵したわけで、もし撤兵の時に日時を約束してお互いに同様の引き揚げ方をすれば、局外者からみても非常に不公平であり、このために袁世凱に日本軍を撤兵させたという名誉を与えるのは勿論、その結果は、日本の大軍を渡韓させておきながらかえって清・韓両国に見下され、他の外国人にも嘲笑されるかも知れないと、憂慮している、と。

この場合の「不公平」ってのはどういう意味かな?
まぁ、清国が援兵しなければ日本も出兵しなかったわけで。
しかも、のこのこ大軍率いていったら何とも無くて、おまけに出兵の大元になった袁世凱から同時に引き揚げましょうってのは、ハッキリ言って「ふざけんな!」という状況ではありますが。(笑)
おまけに朝鮮人は、「おお、やっぱり倭奴より袁世凱の方が偉いですね!」となるに決まってるわけで。
ま、そうゆことかな?(笑)

特に日本兵は最初に到着した一大隊だけであれば、日本政府の出兵は単なる公使館護衛のためだけだと内外人も認めるだろうけど、既に4,000人にもなろうとする大軍を派遣した以上は、袁世凱の相談に応じて同時に撤兵するような事は、非常に政策上マズイと確信する、と。

従って、この際日本の威厳を保って将来の利益を考えれば、あくまで四分六で釣り合いをとり、清国にまず撤兵させ、それを以て民乱が鎮定した実証とし、その後日本兵を撤兵させる事は当然の順序だと思う。
ついては、大鳥は終始この主意を強く主張して譲らず、朝鮮政府に対しては飽くまで清国の撤兵を要求し、袁世凱に向かっても同様に、民乱が既に鎮定した後は一日も援兵を撤兵させ、来援の本義を全うする事を請求し、可及的平和な手段によってその目的を達するように力を尽くしたいと思うが、万が一不幸にも袁世凱がその意を押し通そうとして日本の請求に応じず、依然として清兵を牙山やその他の地方に駐屯させるか、或いは清兵を京城に入れて日本兵と対峙しようと企てるような事があれば、日本はどのような方針を取るべきか。
至急日本政府は、このような場合の対処について廟議するように希望する、と。

いや、確かに大鳥の言ってる、清国にまず撤兵させ、それを以て民乱が鎮定した実証とし、その後日本兵を撤兵させるって手順は当然なんだけどさ、4月5日のエントリーでもうとっくに撤兵に関する閣議決定が行われて、4月15日のエントリーで電信も送られてんだけどね。
勿論不通によって、この時まで届いて無いんでしょう。
つくづく使え無ぇ電信だなぁ。(笑)

で、日清両国が長期間朝鮮で対峙すれば、早晩必ず衝突するだろう、と。
これに加えて、日本に於ては4,000人近い大軍を長く滞陣させる事は不得策だろうから、例え兵力を使っても日本が清国を退去させ、それによって日本の威厳と利益を保全することは、今更言うまでもない政策と確信している。

これについて日本が各国に宣言するための大義は、日本は元々朝鮮の独立を認定し、且つその独立権を保護しようとしているのに、清国が理由もなくその兵を朝鮮国内に駐在させるのは、清国が常に主張しているように、事実上朝鮮を属国としてその主権を施行しようとするものであり、これは日本の独立国認定を抹殺して、独立権を保護しようという企図を妨害するものだ。
これに加えて、朝鮮国内に外国兵が駐在する事は、日本にとっては非常に危険に感じるため、日本の企図を遂行し利益を保護するため外国兵を朝鮮から追い出すのは当然であると言えば、日本においては理由が無いと苦しむ事もないだろうと思うので、何卒この一点について閣議決定して欲しい、と。

悪くない案ではあると思いますがね。
一週間も届かないんですよね。(笑)


今日はここまで。
次回、最終回。



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