梁起鐸事件(一)


昨日のエントリーで、尹雄烈を初めとする「国債報償総合所」に、義捐金の流用が知られてしまったベセル。
当然、折角集めた金を使い込まれた韓国人は、激怒した。

1908年8月12日付け『機密号外 (機密受第2142号)』によれば、8月10日に開会された国債報償会韓人委員会において、李康鎬という者がベセルの暗殺を宣言したと報告されている。


また、1908年8月30日付けの『国民新聞』には、次のような記事が掲載されている。

1908年8月28日、国債報償委員会が開かれ、そこにベセルを強制的に出席させた。
委員がベセルに募集金の所在を詰問すると、ベセルは消費したことを認める。
しかしながら、彼は飽くまで不遜な態度であったため委員一同は激昂し、「謝罪と賠償」を求め、ベセルは一言も反論できずに、面目を失った。


この記事を見て、日本はその内容の調査をしている。
何故なら、韓国人の行為ではあるが、その為に事件が起きれば日本の責任となる事が、明らかだったのである。


実は英国から、昨日書いた「往電116号(1908年7月13日)」を初めとして、抗議が続いていた。

7月22日付「来電第4号」では、東京英国大使から寺内外務大臣に対する、「梁起鐸の保釈を許し、なるべく速やかに裁判する事を希望し、且つ、もし梁起鐸を裁判すること無く、いつまでも獄中に留置するような事があれば、将来、英国の法廷に韓国人を証人として召喚することができず、裁判できない状態になってしまう」という抗議が報告されている。

これに対して、8月1日付「来電第11号」で、英国大使と石井外務次官の対談の様子として、次のように報告されている。

1.韓国には法律上まだ保釈制度が無いので、梁起鐸の保釈は出来ない。
2.梁起鐸は、官吏の立ち会いの上、親戚及び内外の朋友に面会できる。
但し韓国人弁護士以外とは、事件に関する話は許可されない。
3.裁判は公開する。
4.公判はなるべく速やかに行う。

そして、これを受けて各官憲に上記を厳訓するよう、韓国統監府に求めているというような状況だったのである。


これに関係して、英国総領事コックバーン(Cockburn)の態度は、ベセル及び梁起鐸を擁護する形で一貫しており、その為に色々と問題を起こし、英国本国から勧告されたりもするのだが、それはまた別の話。


さて、紆余曲折を経ながら、梁起鐸の裁判は1908年8月31日開廷した。
罪状は横領である。

1908年9月25日第四回の公判。
ベセル及びマルタンが証人として呼ばれた。

この公判においてベセルは、報償金の3参万円を コールブラン銀行部から引き出し、之をホームリンガー商会に預け、さらにこれを引き出して、2万5,000円で金鉱会社の株券を買入。
残金5,000円をマルタンに貸し付けたが、担保は何も取らず、且つ500円の月賦返金は、2回程払われたが、利子は受け取っていないと陳述。

マルタンも概ねそれを認めたが、利子は1907年末に数度支払い、その額は3~400円になる筈であると陳述した。

また、ベセルは単に銀行預金高を新聞に広告し、これらの事実を隠蔽したのは何故かと聞かれ、自分の不注意であったと供述。
そして、梁起鐸は単に受け入れた募集金をベセルに交付したに過ぎず、その処分には何も関係していないことを声明した。

このベセルの自白により、横領の共同謀議、あるいは従犯と目されていた梁起鐸は、証拠不十分となったため、検事は公訴の主張を放棄したのであった。


1908年9月29日京城地方裁判所刑事部は、被告梁起鐸に対し、無罪を宣告した。


これにより、梁起鐸事件は一応の解決を見る。

報償金の使途が明らかとなったため、韓人が返還請求の民事訴訟を起こすなら兎も角、刑事被告人としては手続きをしない方針であったようだ。


さて、おなじみの独立記念館を見てみよう。
1907年1月、大邱で国債報償運動が始まった時、梁起鐸は、国債報償運動を積極的に支持しながら全国的な運動に拡大するめに『大韓毎日申報』社内に国債報償支援金総合所を開設し、総務を引き受けた。日本は『大韓毎日申報』が国権回復運動を支持している事実を注目していたが、国債報償運動まで支援すると、梁起鐸に弾圧を加え始めた。日本は根拠もない国債報償年金横領の罪名で梁起鐸を拘束した。その後、『大韓毎日申報』のベッセル社長が法廷で、梁起鐸の無罪を証明することで釈放された。

ベセルが単独犯だと自白したのだから、当たり前だろう。
ちなみに、取調べを請願したのは、李東輝等だから。
残念!



(了)