40年以上前に読んだ本を再読。作者は詩人だけに、文章が良い。たとえば、愛猫ジジについてのこの部分。


きわめて感受性が強く、そして気の強さがキラキラとまるでアルミ箔のように身体いっぱいに反射しているジジは、日一日と、じぶんが無知であることをゆるせない、それゆえにまた見知らぬ出来事に直面してもそこから退くことをけっして肯じえない昂然たる無分別ざかりのただなかへ、とびこんでゆきました。


この小説で作者が言いたかったことは、次の部分だと,私は思います。


実際、ねこがいなくなるたびに、ぼくたちをいちばんさきに生なましい力で襲ったのは、ねこがいなくなったということにたいする悲しさや怒りというよりは、むしろ「やっぱりいなくなってしまった」ともいうべき、いわば実現した不安の淋しい確認だったといったほうが、より正確なような気がするのです。

つまり、ねこをながく飼ってきたひとはこころのどこかでいつもねこがいなくなる日のことを覚悟しているのであり、そして、そうした覚悟をあらかじめじぶんで先どりして、いま・ここにいるねこをかわいがることのうちにいっそう混ぜあわせることに熱中するのだ、そんな気がたまらなくするのです。

それは、裏かえしていえば、あるいはこういえたのかもしれません。飼っていたねこの死や失踪に耐えられないくらいなら、はじめからそのひとはねこを飼うことなんかできないんだ、と。

そうです、そうしたことは、ぼくたちもまた、とうに、じゅうぶんすぎるほどじゅうぶんに承知していたはずのことでした。


これは、人が誰かとともに生きること、愛し合うことを言っているのでしょう。ハイデッカーの、死を先駆した「現存在」という概念が思い出されます。また、Amazonレビューに悪い評価が多いことに時代を感じました。