ここで話せばいいんですね。わかりました。では、よろしくお願いします。
私は坂本といって、今年で６７歳になります。以前は食品の輸入会社に
勤めていましたが、今は引退して年金暮らしですよ。子どもはありません。
妻もいないので、気楽な一人暮らしですよ。
ねむの木坂のことはご存知ですか？ええ、そうです。東京の港区某所にある
坂のことですが、坂といっても、そんなに傾斜がきついわけではありません。
それで、この名前がついてるのは、そこ、右側にずっと高いお寺の漆喰塀が
続いてるからで、塀が高いのは墓所が見えないようにするためでしょうね。
で、その中に巨大なねむの木が植えられているんです。そうですね、樹齢は
数百年にもなるでしょう。葉がうっそうと繁っていて、昼なを暗いという
感じです。なんでねむの木というかというと、この木、夜になるとそれまで

開いてた葉が、合掌するように閉じるんです。その様子が、まるで木が
眠っているように見えるので、ねむの木。
そこ、私の散歩のコースに入ってまして、さみしい道ですが、
これまでに、おかしなことは一度も経験したことがありません。なんでこの
話をするかというと、最近インターネットを見ていまして、ある掲示板に
この坂のことが出ていたからです。しかも、それもこの坂には幽霊が出る
という話題だったんです。そんな馬鹿なと思いました。私は毎日のように
通っているのに、幽霊どころかおかしな気配さえも感じたことはありません。
だいたいあそこは交差点もない一本道で、幽霊が出てくるような場所なんて
ないはずです。でね、その掲示板の投稿の内容を見ても、どこにどんな幽霊が
出たかという具体的なことは書かれてなかったんです。ですから、

面白半分の無責任な噂だと思って、そのことは忘れてしまっていたんです。
で、１週間ばかり前のことです。私はいつも、散歩は朝の時間帯にするように
しているんですが、その日はたまたま日中に幼児があり、やめようかとも
思ったんですが、せっかく習慣になっているのにと、夕方６時ころから
散歩を始めたんです。散歩といっても健康維持のためのウオーキングのような
もので、３ｋｍくらいの距離をゆっくり時間をかけて歩くんです。ねむの木坂は
そのコースの終わりのほうになってましたから、通ったときの時刻は、７時を
まわっていたかもしれません。もうだいぶ暗くなっていましたが、東京の夜は
明るいので物がまったく見えないというほどでもありません。それでも、朝
通るときとはずいぶん印象が違ってて、ああ、寂しい道だなと思いました。
お寺の隣の路地ですから、他に通る人もいません。

で、坂の中程を過ぎたとき、道になんだかわからないものが落ちてるのに気が
ついたんです。街灯はもちろんありますが、はっきり見えるほど明るくはない。
それで、近寄ってしゃがみ込み、顔を近づけて見てみたんです。そしたらそれ、
じつに意外なものだったんです。「コロッケ？」と思いました。スーパーで
売られているようなコロッケだったんです。誰かに踏んづけられたのか、中身が
はみ出していました。「な～んだ」と思いました。おそらく誰かがお惣菜を落とし
たんだろう。そう考えてすぐにその場を離れました。だから、そのときその
コロッケがどうなったかは見ていなかったんです。他には特におかしなこともなく、
その日の散歩は終わったんです。やれやれ、幽霊どころか、とんだ所帯臭いものに
出会ったな・・・そう思ってました。でね、翌日です。その日はいつもどおり
朝の散歩でしたが、今度はね、本当に驚くものを見つけたんです。

道端に落ちてたのは湯呑です。縁が欠けてました。でね、その湯呑、見覚えが
あったんです。３０年ほど前、私が使ってた湯呑で、欠けているのも私が
やったんです。じつはその湯呑、妻と離婚する前に買ったセットの夫婦茶碗
というやつだったんです。でも、なんでこんなものがこんなところにあるのか？
壊れて捨てたのはもうずっと前のことなのに。ここで、お恥ずかしい話を
しなくてはなりませんが、私、食品輸入の会社に勤める前は、兜町の証券会社に
いたんです。でね、妻とは　私が２７歳のときに結婚したんですが、３０歳を
過ぎた頃に、ローンでマンションを買ったんです。当時の金で５０００万という
ところでした。ところが、バブルが弾けてあの株式不況でしよ。会社をリストラ
されてしまったんです。まあすぐに、小規模の証券会社に再就職できましたが、
株価はどんどん下がり続けるばかりで買う客なんかいない。

それで、マンションのローンの支払いが苦しくなったんです。管理費を含めて
月１５万円くらいありましたから。それでね、妻もスーパーに働きに出たんですが、
かつかつの生活だったんです。それである晩のことです。その日の夕食が
コロッケだったので、私はふと何気なく「いつも、コロッケだな」って言って
しまったんです。ええ、私がみな悪かったんです。なんの考えもなしに
そんな言葉が口をついて出て・・・そしたら、妻がキッとなりまして、
「そんなことを言うんだったら自分で作ればいい。私だって疲れてるんだから」
そっからは売り言葉に買い言葉で大ゲンカになってしまいました。まあ妻も、
毎月のローンの支払いに頭を悩ませてイライラしていたんでしょう。そのとき、
私が投げて、壁にあたって割れた湯呑だと思ったんです。

だって、絵柄も同んなじだし、どこにでもあるもんじゃない。結局
妻とは和解することはできず離婚することになってしまいました。
その当時は、妻にとってはよかったと思ってました。というのは、再就職した　　　
会社もやっぱりリストラされてしまったからです。でね、当然ローンは
払えなくなり、マンションは手放すことになってしまったんです。
妻との間には子どもはいなかったので、養育費もなし、特に分配するような
財産もなしで、妻は実家に帰るということで、それからは連絡もとって
いません。まあその後何ヶ月かして、退職まで勤めることになった食品会社に
拾われたんですが、今までずっと賃貸暮らしですよ。そんなことをパーッと
思い出したんですが、なんであのときの湯呑が転がってるんだ。
不思議でしたよ。だから手にとって確かめようとしたんですが、私の目の前で

その湯呑、にじむようにぼやけて消えたんです。そのときすごく悪い予感が
したんです。これはきっと元妻になにかあったに違いない、と。そのときね、
朝になって開いていたねむの木の葉が、まるで夜がきたように全部、かすかな
音を立てて閉じていったんです。驚いて顔を上げると、そこに元妻が立って
いたんです。もう６０歳を過ぎているはずなのに、別れた頃と同じような
年頃でした。生きてる人と同じように見えましたが、顔色は青かったです。
妻はこちらに向かって頭を下げると、湯呑と同じくかき消すように消えたんです。
この間、２秒くらいだったと思います。これは元妻になにかあったに違いない。
そう考えて、ほうぼうをあたって連絡を取ったんです。
そしたら案の定、少し前から病気で寝ついていた妻は、昨日の深夜に
病院で息をひきとったということでした。

消えるときに頭を下げたのはなんでなのか、私に謝りたかったのか、
今となってはわかりません。ただ、妻が消えたとき、それまで合掌するように
閉じていたねむの木の葉が、いっせいに開いたんですよ。
こんな話なんです。やはりこの坂には幽霊が出るんだ、噂は本当だったんだ、
そう思いました。ええ、元妻の葬式には出席してきました。
それにしても、妻が出てくる前に、コロッケや湯呑が現れたのが不思議です。
もしかしたら、私の頭の中だけのことだったのかもしれません。
ええ、あの坂は今でも毎日通ってますよ。あれ以来、不思議なことは
ありませんが、たはり幽霊に出会うことのできる道なんでしょう。
もしかしたらあの世とこの世とは、そう遠い世界ではないのかもしれません。
これで終わります。聞いていただいて有難うございました。

ねむの木坂の話