これ、うちのじいちゃんの話なんだ。じいちゃんは大正時代の生まれで、
太平洋戦争にも行っている。で、戦時中は中国大陸で戦ったらしい。
満州北部にいたんだな。終戦直前になって、ソ連軍の参戦があり、
そこで捕虜になってシベリアに連れていかれた。そして過酷な捕虜生活を
送り、昭和28年になってやっと復員してきた。よほど嫌なことが
あったのか、じいちゃんはロシアとロシア人をとても嫌っていて、
酒に酔ったときでもシベリアの思い出話はけっしてしなかった。
で、復員後は地元の営林署に勤め、年に3か月ほどの出張が数回あった。
じいちゃんは山好きで、それ以外でも個人でよく山に入っていた。
連休などの前に、ある山に入って、1,2泊して戻ってくる。どうやら
その山の中に拠点になる小屋を持っていて、そこにはストーブなどもあるらしい。
でな、俺が高校のとき、1度だけじいちゃんの山行につき合ったことが
あるんだよ。場所は、車で2時間ほどの山で、山地の一部であり、とくに
名前はないようだった。標高は1200mほどで、登るのはそれほど
難儀でもなかった。ただし、その山にいたるまでのアクセスはかなり
大変だった。じいちゃんがものも言わずに黙々と登るので、俺も
なんとかついていったが、じいちゃんは当時、営林署を退職し、
70歳に近かったのに、高校でバスケ部だった俺よりもずっと健脚だった。
2時間ほど登って、頂上までいかない林の中にじいちゃんの拠点小屋があった。
丸木づくりの粗末な小屋で、中は10畳ほどの広さ、手製の寝台と
薪ストーブがあり、小屋の外には薪を積み上げておく場所もあった。
でな、あったのはそれだけじゃなく、金属製の檻もあったんだよ。
じいちゃんに「あれは何?」と聞くと、じいちゃんはニヤリと笑って
「ああ、じいちゃんな、10年ほど前に一念発起して、罠猟の免許を
取ったんだよ。あれは野生動物を捕まえるためのもんだ。猪とかな。
たまにだが熊もかかる」へえ、と思った。しかし、その獲った動物は
どうするんだろう。これまでじいちゃんが野生動物の肉を家に持ってきた
ことはなかった。俺はその疑問をじいちゃんに訪ねた。そしたら「動物は
尋問をして逃がしてやるんだよ」と言った。「ええ、 尋問? どういうことだい」
するとじいちゃんはいたずらっぽい目つきをして、「計画があるんだ。
今にわかる」と言ったんだ。それから俺を山のあちこちに案内してくれた。
俺はじいちゃんに言われたとおり、寝袋を持ってきていたんだが、
夕方になるとじいちゃんは「お前はあの寝台で寝ろ。わしは用事があるんで、
山に入ってくる。今夜は帰らんが、明日の朝、お前が目を覚ます頃には
戻ってくるよ」そう言って、もう暗くなりかけているのに、山刀を
一本だけ持って頂上のほうへ登っていったんだよ。そして翌朝、言ったとおり
戻ってきて、2人で下山して家に戻ったんだよ。こんなことがあったが、
じいちゃんが夜、山の中で何をしていたかは教えてくれなかった。
で、俺は高校を卒業して、あまり頭がよくなかったから大学には行かず、
地元の市場に就職して、家からは出なかっった。じいちゃんも家にいたが、
年に数回山に行くことはやめなかった。むしろその頻度が増した。
でな、ここからは信じられないような話になるんだが、じいちゃんが
満で70歳の誕生日を迎える数日前。突然「俺は、もう十分生きた。
70歳になったら山に入って天狗になる」と宣言したんだよ。
俺の家族はみな仰天したが、じいちゃんの顔は真剣だった。そして
「じつはな、わしの父親も、その父親も天狗になってるんだ。その天狗に
なる方法を記した本もあったんだが、戦争のどさくさで焼けてしまった。
だからほら、お前に一度、山の小屋を見せたことがあっただろう。
そのときに罠の檻も見せた。あれで山の動物を捕まえて、天狗になる
方法を聞き出してたんだ。それがやっと形になった。だから誕生日を過ぎたら
天狗になって生きるんだ。もうこの家には戻らん。天狗には寿命もないはず
だから、わしの父親もじいさんもきっとあの山でまだ生きているに違いない」
これ、どう考えても正気の話じゃないだろ。俺の父親も母親も、
じいちゃんがボケてしまって、適当な空想を口走ってるんだと思った。
でな、それからじいさんの70歳までの数日。じいさんは「禊をする」
と言って、うちのせまい庭にたらいを持ち出し、そこで毎日、ふんどし一つ
になって、水浴びを始めたんだよ。じいちゃんの誕生日は11月の末で、
もうすっかり寒くなっている頃だったから、母親が風邪をひきますよと
止めたが、じいちゃんはきかなかったらしい。で、いよいよ明日が誕生日
という日、じいちゃんはスーパーに行って大吟醸の日本酒と、湯呑を
2つ買った。それで、じんちゃんには自分の隠居部屋があったんだが、「明日まで
何があってもこの部屋には入るな」と言ったんだよ。「お客さんが来る」とも。
どういうことかわからなかったが、もしも来客があるのなら、玄関を
通るはずだからわからないことはないとも思った。そして自分の部屋に
引っ込む前に、じいちゃんは俺に「お前ももう一人前だな。これから
じいちゃんと会うことはないだろうが、達者で暮らせよ」そう言ったんだよ。
これを聞いて、俺はなんだか、ほんとうにじいちゃんがいなくなってしまうんじゃ
ないかと思った。さすがに天狗になるとは信じられなかったけどな。
で、その日の晩だ。誰も来客があったわけじゃないのに、じいちゃんの
部屋で話し声がしたんだ。ぼそぼそしたじいちゃんの声と、高笑いするような
声。それはじいちゃんとは別人のように聞こえた。でも、誰も玄関を
通ったりはしなかったんだよ。俺の両親は、じいちゃんが一人で芝居を
してるんじゃないかと言ってた。で、明け方のことだよ。じいちゃんの部屋で
バリンという大きな音がした。行ってみると、窓が窓枠ごと外れていて、
外の風が吹き込んでた。じいちゃんはおらず、畳の上には酒が半分ほど入った
湯呑が2つ。それと、壊れた窓の下には長い羽が数枚落ちてたんだよ。その日から
じいちゃんは行方不明になり、警察に捜索願を出して、あの山の小屋にも
創作に行ったようだけど、そこにも何の手がかりもなかったんだよ。
