ないだから、ものすごく奇妙な出来事に巻き込まれてて。
あ、スンマセン。俺、仕事はギター弾き、いや、バンドじゃなく
スタジオミュージシャンってやつです。仕事はそこそこ・・・
食っていけるくらいにはあります。はい、いちおう事務所には
所属してるんですけど、口コミで仕事が来るほうが多いですね。
でね、その事務所のほうから話があったんです。
副代表の人から、転居しないかって言われて。
それまで俺が住んでたのは安アパートなんですけど、破格の
値段で部屋を借りることができるって話があったらしいんです。
これ、誰でも話は聞きますよね。そしたら、都内で、敷金礼金
なしで、家賃が3万4000円。これ、ありえない

金額だと思いませんか。俺がそれまで住んでたとこは、
6畳ひと間のボロアパートで6万、だからその半額近いん
ですよ。ただ、入居にあたってはいくつか条件があるって。
「えー、そんなとこありませんよ。もしかして、今流行ってる
事故物件ってやつじゃないんですか」 「いやそれが、
新築なんだ。ついこないだできたばっか」 「広さは?」
「お前のとこと同じ6畳で、バストイレつき。あとエアコンも
ついてる」 「信じられないなあ、場所はどこです」
こんな話になったんですが、住所は多摩市。郊外ではあるけど、
都心には電車一本でこれます。ね、信じがたい話でしょ。
「どうしてそんなに安いんです?正直に言ってくださいよ」

「ああ、それは今、話すつもりだった。これは不動産屋の
話だけど、そのアパートのオーナーな、息子さんが前衛
芸術家なんだよ。それで、4階建てアパートの2部屋に、
勝手に装飾を入れてしまった」 「装飾?」 「うん、
よくわからんけど、壁に絵を描いたみたいだ」 「へええ」
「それでな、壁紙を貼りかえることもできるんだが、
息子さんが承知しない。だから、その装飾を見て、気に入った
人に住んでもらいたいって」 「変な話ですねえ」
こんなことだったんです。「で、条件ってのは、その装飾の
ことですか」 「いや、他にもいくつかあるが、そう大変な
ことじゃない。入居前には終わるってことだった」 「ふうん」

で、その物件を任されてる不動産屋に会ったんです。部屋を
案内してもらいましたが、4階建てのアパートの2室が空いてて、
中を見せてもらって拍子抜けしました。ほら、前衛芸術って
言われたでしょ。だから壁いっぱいグチャグチャになってるかと
思ったら、そうじゃなかったんです。部屋は床がフローリング。
天井と3面が白い壁、窓は1つで、その天井と左右の壁に、
記号のようなのが描かれてるだけでした。記号は30cm四方
くらいで、丸と直線を組み合わせて、字のようにも見えました。
色は焦げ茶色。でね、さっき2部屋空いてるって言ったでしょ。
この下見のときに、もう一人、部屋を見に来てたやつが
いたんです。齢は俺と同じくらいで、宝飾加工をやってるって

言ってました。銀のペンダントとか作ってる。それでね、
そんとき条件というのを言われたんです。まず、最低3ヶ月は
住んでもらう。次は、入居の際に健康診断を受けてほしい。
費用は全部オーナー側でもつ。最後は、壁の記号ですね。
その上に絵や洋服、ポスターなんかをかけないこと。要するに
記号を見えないようにしないでくれ、ってことです。
ずいぶん奇妙だとは思いましたが、簡単なことですよね。
健康診断なんか、俺はずっと受けたことがないんで、
ありがたいと思いました。これね、有名病院での人間ドックに
近いものだったんです。まる1日かかりましたが異常なし。
このとき、宝飾加工の人といっしょに受けたんです。

この人、名前はDってことにしておきます。はい、部屋を
見たときから入居は決めてました。新しいし、防音もかなり
しっかりしてる。その上、破格の安値。誰だって決めちゃうでしょ。
でね、4階は4部屋あって、空いてるのはその中央の2部屋。
どっちでもよかったんですが、いちおう話し合って、俺が
向かって右側、Dが左って決めたんです・・・これねえ、
今から考えれば、運命の分かれ目だったんですよね。
それで、Dと同じ日に引っ越しして、数日して荷物の整理が
ついたあたりで、酒を持って夜にDの部屋に行ったんです。で、
お互いの仕事のこととかしゃべりました。そんとき、気がついた
ことがあったんです。部屋のつくりは俺のとことまったく一緒。

ただ、左右の壁と天井に描かれてる記号の形が違ってました。
もちろんそのことも話しましたよ。「何だろうな、文字なんだろうか」
「わからん、けど、この大きさなら気にはならんな。それにしても
この上に物をかけるなとか、変な条件だよな」 「少し調べてみるか、
古代文字とかかもしれん」そう言ったのは俺で、部屋でパソコンで
あれこれ見たんですが、該当するのは見つけられなかったんです。
でね、新しい生活が始まり、俺はすごく気に入りました。
部屋で少しくらいギターを弾いても、隣には響かないようでした。
Dも同じで、器具を使って細かい細工をしても、俺のとこには
音は聞こえてこなかったんです。けど、一ヶ月くらいすると、
だんだんDの元気がなくなってきたんです。

なんか生気がない感じで、歩きかたもよろよろしてね。「大丈夫か、
病院行ったほうがいいんじゃないか」と言いましたが、
「ああ、大丈夫だよ。こないだあんな詳しい検査したばかりだし」
それで、またDの部屋に行ったとき、右側の壁の記号の上に
紙が貼ってあったんです・「え、これ、隠しちゃだあめなんだよな」
「ああ、そういう条件だったけど、あれ、目に入ると背中がぞっと
するんだ。だから隠しちゃった。どうせ監視カメラがあるわけじゃなし、
オーナーにはばれないようにするよ。3つの記号、どれも気味悪いが
特にあれが一番嫌だ」って。でね、さらに1ヶ月たつと、
Dはますます調子が悪くなって、歩くのもやっとのありさまで。
それでね、これはダメだと思い、病院に連れてくことにしたんです。

アパートからの最寄り駅は、西武鉄道の多摩駅でした。タクシーで
駅までいき、肩を貸してホームに立ってると、ふっと黒いスーツ着た
人が近寄ってきて、Dに何やら紙を渡したんです。で、一言も
話しをせず、スタスタ去っていったんです。うーん、とっさのことで
よく見なかったんですが、背が高く、顔の下半分がヒゲで覆われてた
んで、人相はそれしか印象に残ってません。たぶん俺よりは年上、
30代くらいかと。でね、Dがその二つ折りの紙を開くと、中には
でっかく記号が描かれてて、俺らの部屋にあるやつと同じ種類の
もんだと思いました。それで、その記号を見た途端、ガタガタ
震えだして、紙をホームに落とし、つかんでた俺の手をふり払い、
入ってきた電車の前に飛び込んだんです。俺は知り合いってことで、

その後ずっと事情聴取され、部屋に戻ったのは夜に近い時間でした。
それで、他の証言からも、Dは自殺ってことになり、紙は部屋に
持ってきてたんで、スマホで記号を撮影し画像検索かけてみたんです。
そしたら、チベット語の文字だったんです。でね、Dの部屋の記号、
だいたい覚えてたんで調べると、ホームで渡された紙も合わせて、
「死の祝福」みたいな意味になって・・・もちろん俺の部屋のも
調べましたよ。こっちは「生の祝福」なんだろうとわかったんです。
まあ、こんな話なんです。これね、どうすればいいんでしょう。
もう少しで条件にあった3ヶ月になるんですが、解約すればいいんで
しょうか。じつは俺、この部屋に入ってから、すごく仕事が増えた
んです。だから迷ってるんですよ。どう思いますか?