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聖徳太子は6世末、飛鳥時代の皇族で、用明天皇の第2皇子であり、

推古天皇の摂政として、たくさんの政治改革を行ったとされています。

以前の1万円札にも聖徳太子の肖像が使われており、日本の歴史上で

最も有名な人物の一人ですね。

 

幼少時から聡明で、多くの人の訴えを同時に聞き分けたなどの超人的な

エピソードがあり、まあこれは伝説なんでしょうが、政治的改革として

「17条憲法」や「冠位12階」を制定したとされています。

 

ですが最近、聖徳太子は実在しなかったとする論が盛んになってきました。

たしかに「聖徳太子」というのは後世のおくり名であり、その時代に

聖徳太子という人物がいたわけではありません。

 

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「聖徳太子」という名称は、死去の129年後の天平勝宝3年(751年)に

編纂された『懐風藻』が初出と言われており、それはそのとおりなんですが、

最近の説では、聖徳太子の正式名は厩戸王であり、斑鳩宮に住んで法隆寺を

建てたことまでは史実だが、それ以外のエピソードは、後世につくられた

ものだとされるんです。

 

論拠の中心は聖徳太子の事績についての同時代の文字資料がないこと、「17

条憲法」に使われている漢文の言葉遣いが推古朝という時代に合っておらず、

後世、『日本書紀』編纂の頃のものではないかという疑惑などです。

 

ではなぜ聖徳太子がつくられたのかというと、天皇制を確固たるものとして

確立するためには、政治的・仏教的なスーパースターが必要だったのでは

ないかとするんです。中国で唐が最盛期を迎えていた8世紀、日本では

 

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対外的にも天皇の権威を定着させる必要があり、政治の中枢にいた長屋王と

藤原不比等が、遣唐使だった道慈という僧に依頼し、厩戸王をベースに

聖徳太子像を作ったのだとするんですね。

 

まあ確かに、「17条憲法」は怪しいところが多いです。しかし、それを

抜きにして、文字資料がないから聖徳太子は実在ではなかったと簡単に

言ってしまえるものでしょうか?

 

たとえ文獻はなくとも、考古学、建築美術、文学、民俗学などで、聖徳太子

実在を思わせる資料はたくさんあり、法隆寺にはおそらく聖徳太子を指して、

「聖王」「聖徳皇」と記されたものが残っており、聖徳太子がモデルであった

とする救世観音像も、その様式から7世紀前半のものと認められています。

 

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これらのことを総合的に考えると、自分としては、仏教の庇護に積極的だった

聖徳太子的な人物は実在したのではないかと考えます。みなさんは

これについて、どう思われますでしょうか。

 

あと、聖徳太子にはもう一つ大きな謎がありますよね。聖徳太子は、母や妻と

同時に疫病でなくなったとされますが、妻と同日という点は怪しまれても

しかたがない気がします。

 

平安時代中期とされる『聖徳太子伝暦』という資料では、太子は死ぬ直前に

沐浴をし、また妻にも沐浴をさせて並んで横たわって息を引き取ったと

出てきます。この描写から、聖徳太子の暗殺をいう人は多いんです。

 

推古天皇

 

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では、暗殺だとしたら実行したのは誰か? それはわかりませんが、

説としては、推古天皇、蘇我馬子・蝦夷父子、三韓などの国外勢力などの

説があります。理由は、太子一族が政治的、経済的、仏教的に力を

持ちすぎていたため。

 

さてさて、このあたりの真相はなんとも言えません。当時、疫病が流行して

いたのは事実ですし、ほとんどが遣唐使などを通じて大陸から伝わった

ものだったっでしょう。ですから疫病説は当然ありえるし、暗殺説もまた

成立する余地はあると思うんですよね。では、今回はこのへんで

 

国宝 救世観音

 

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