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今回はこういうお題です。仏教の話になります。それと「隻手」は「せきしゅ」と読みます。これって禅宗の公案なんですよね。公案とは、Wikiでは「禅宗における問答、または問題をいう」となっています。禅宗には栄西が開いた臨済宗や、道元が広めた曹洞宗などがありますが、それぞれ中国から持ち帰ったものです。

 

公案があるのは臨済宗のほうで、1700題もあるとWikiに出ています。この答えを座禅中に考えることによって悟りを開くことが目的です。これに対し曹洞宗は日本で最も配下の寺院が多い宗派で、「只管打坐(しかんたざ)」といって、ただひたすら坐禅にうちこむことが最高の修行であるとしています。

 

ただし地方のお寺では問答のようなことがあったのかもしれません。落語の『こんにゃく問答』はたしか曹洞宗のお寺だったような気がします。臨済宗は、室町時代には武士から絶大な支持をえて、建築、庭園、水墨画、精進料理などの禅文化が発達しました。このあたりが基礎知識ですかね。

 

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さて、いよいよ「隻手の声」の話に入ります。これは江戸中期の臨済宗の僧、白隠が考え出した公案で「両手の鳴る音は知る、では片手ではいかに?」というものです。両手で拍手をすればパンという叩いた音がしますよね。では、片手の音とは?

 

これ、みなさんも考えてみてください。うーん、そうですね。自分だったらどう答えるか・・・音というのは空気の振動ですから、両手を打ち合わせてこそ振動が起きます。片手をただあげただけでは何の音もしないと思いますが、それが答えではないんでしょうね。

 

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ずるいですが、カンニングして答えを見てみましょう。この解答を求められて白隠禅師は「これはまったく耳で聞こえるのではない。思慮分別を交えることなく、あらゆる感覚を離れて、行住坐臥の上において手ぬかりなく参究して行けば、道理が尽き、言葉が究まる処において、忽然として生死の根源をたち切り、

 

無明の巣窟を斬り破り、大鳳が金網を離れ、鶴が籠を捨てるほどの大安心を得ることができるのである」と述べられています。なかなか言葉が難しいですね。この解釈もいろいろあるんだと思いますが、自分が注目したのは「思慮分別を交えることなく、あらゆる感覚を離れて」の部分についてです。

 

白隠禅師

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この公案に対して頭で考えてはダメということなんだと思います。また感覚的に答えるのもダメ。日々の生活においてこの公案をひたすら研究する姿勢を続けていけば、いつかは悟りを開いて安心を得ることができる。こんな意味だと思いました。

 

また前掲の引用の中には「言葉が究まる処において」とも出てきます。禅宗には「不立文字(ふりゅうもじ)」という言葉もありますよね。言葉ではなく、体験によって伝えるものこそ真髄であるという意味で使われます。

 

公案というのは正しい答えがあるわけではなく、ひたすら考えることが大切。そして師との問答の中で自分が考えたことを述べ、それを否定されてまた考える。その中でだんだんに悟りに近ずいていく。師のほうも、その弟子の進歩の状況に応じて臨機応変に答えを変えていく。そんな感じなんだろうと思います。

 

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うーん、自分だったら イライラして途中でやめてしまいそうな気がしますが、これこそが修行なんでしょうね。お釈迦様は座禅も含めて6年間 修行したということになっていますが、それで悟りを開くことができたのはさすがです。

 

それと、自分は学生時代ずっと柔道をやっていたんですが、高校のときの監督から「大会に勝つことが目的ではない。大会の一日も、ただ稽古するだけの一日も同じように大切にしなければならない」と教えられたのを思い出しました。どこかに共通する部分があるような気がしますね。つまりは禅にどっぷりとひたり、生涯を禅に捧げることが大切だと言ってるんだと思います。

 

さてさて、ということで「隻手の声」について見てきました。自分はもう柔道はやめてしまいましたが、歳をとったなりにできることを続けていればよかったのかもしれません。有名な公案にはこの他に「狗子仏性」、「祖師西来意」などがありますので、興味を持たれた方はお調べになってください。本も出ています。では、今回はこのへんで。

 

禅の考案者 達磨大師

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