☆☆ あなたのシニアライフは豊かになりますか? ☆☆


■2015/06/27 ラン

土曜 早朝のラン

今朝は以前のランニングで

見つける事の出来なかったところを

中心に攻めることにした。

まずは今宮を目指す

今が盛りの亀ヶ谷坂のアジサイだ

あざやかで 気持ちがいい!
01亀ヶ谷坂
亀ヶ谷坂のアジサイ

坂の崖を見上げると

鬼百合が二つ

鮮やかだけど Iphoneだときれいに撮れないや (≧≦)
02亀ヶ谷ゆり
亀ヶ谷ゆり


なんだっけ・・・

巨袋坂を行く途中

夏の花だよな  姫ひまわりか?
03亀ヶ谷道路姫ひまわり
亀ヶ谷道路姫ひまわり



建長寺

7月23日、24日は盛大に開山忌(法要)がある そうだ...

建長寺の開山は蘭渓道隆

その蘭渓道隆(大覚禅師)は、元々中国(宋)の禅僧で

北条時頼によって建長寺の開山に迎えられたそうです
04建長寺開山忌
建長寺開山忌案内


天下禅林とは建長寺の山号で

「人材を広く天下に育成する禅寺」らしいです

建長寺はけんちん汁でも名が知られてます(^―^)
05天下禅林
天下禅林


まずは最初の目的である今宮

やっと見つけられた

前はなぜか道筋も間違えて

一旦はここまで来たんだけど

今日はゆっくり 確認できた(^―^)

けど、ちょっとピンボケ(´_`。)

今宮
06今宮
今宮 (いまみや)
(石碑説明)
四条天皇延応(えんおう)元年(1239)年に、鎌倉の街中の方々で喧嘩(けんか)や争いごとがあり
特にその5月25日には大騒動が起りました。この日、隠岐の島に流されていた天皇の後鳥羽院が
亡くなったので、これはその恨みが原因だろうということで、宝治元年(1247)四月に
大臣山の西の麓に神社を建て、後鳥羽院の霊と、さらに順徳院と長賢の霊もあわせて祭りました。 
これを今宮といい、新宮とも書きます。

位置:雪ノ下2-16-25 八幡宮西後方の鶴岡文庫から北へ150メートルに建つ

07今宮石碑
今宮石碑


祭神は

土御門天皇(つちみかど)

後鳥羽天皇・・・つちみかどの父

順徳天皇 ・・・つちみかどの弟

真ん中は父親で左右に兄弟

承久の乱は教科書で大昔 習ったと思う

歴史に名を残した有名な皇室 鎌倉幕府と真っ向勝負して敗退か
08今宮 皇室
今宮 皇室

「今宮」という名称には

新しい宮という意味があることから

「新宮」とも書かれるそうです
09新宮
新宮


さて、今宮でお参りして

さらに、八幡様本殿にお参り

そうか、もうそろそろ 七夕だ
11本殿下望む
本殿下望む

本殿にも大きな飾りがあった

これは舞殿の七夕飾り

あざやかだ
12舞殿
舞殿


ここ八幡宮には 2つの石碑があるはず

まずは、柳原石碑

どこかな・・・

発見!

少々わかりずらいところだな・・・
14柳原
柳原 (やなぎはら)
(石碑説明)

この辺り昔は柳の名所で、柳原と言われていたようです。
「年経たる 鶴岡辺の 柳原 青みにけりな 春のしるしに」
という古い歌が伝えられています。作者は分かっておりませんが
一説には北条泰時(やすとき)の歌ともいわれています。
現在見られる柳は、昔の名残でしょうか。

位置:雪ノ下2-1-31八幡宮社務所の北方で白旗神社と若宮を結ぶ通路で
   池に架かる橋が在りその橋のたもとの東南側に建つ。


とあるけど、 いま柳があるのかな??

今度 来たときに

回りの木々をチェックしよう
柳原周辺
13柳原まわり
柳原まわり



こちらは 境内にある

神奈川県近代美術館の広告

ここ八幡様境内と八幡裏 それと葉山にもあります。
15境内美術館案内
境内美術館案内


なんと、こちらの美術館は今年限りになるそうです

来年からは鎌倉別館と葉山館にそれぞれわかれて運営されるとのこと

年内に見納めなのでぜひ、改めて今度行こうと思う

10月4日までに行けば、1000円で

本館と別館両方を当日限り、鑑賞できるようだ
16境内美術館案内2
境内美術館案内回り


さあて、次は源平池だ

ここは蓮がいっぱい咲き誇る

八幡様に向かって左が平家池 

右が源氏池 

両方で源平池と呼び 紅白の蓮が咲く

昔は、源氏池には白蓮

平家池には紅蓮がそれぞれ咲いていたようですが

今日では紅白区別はないようです

ちなみに白蓮は源氏の白旗

紅蓮は平家の赤旗にちなんで植えられたようです
源平池
17源平池
源平池(げんぺい・いけ)
(石碑説明)

吾妻鑑によると「寿永元年(1182)四月に、源頼朝が、専光坊(せんこうぼう)や
大庭景義(かげよし)らに八幡宮内に池を掘らせた」と書いてあります。
またある説には、頼朝の妻の政子が源家が栄えることを願ってこの池を造らさせ
東の池には白い蓮、西の池には赤い蓮を植えて、源平の旗の色を表わしたと
伝えられており、それで源平池という名前が付いているそうです。

位置:雪ノ下2-1-34 八幡宮三の鳥居左奥で北の池のほとりに建つ。

18源平池石碑
源平池石碑


池のほぼ真ん中にある太鼓橋

二十数年ほど前には

この橋を長男の手を繋いで 渡ったことがあり

いまでは貴重な体験でした(^―^)

残念ながら 現在までは渡れません・・・

もっとも、簡単には渡れなく 両サイドの欄干に

しがみつかなければ到底渡れませんでした

当時は子供の手を引いて随分 無茶なことしたものです (≧≦;)
19太鼓橋
太鼓橋


さあ、今度は小町通りへ

くろがねの井戸へ

こちらはちゃっかり

宣伝に使ってる
20鉄井看板
鉄井看板

鉄井
21鉄井
鉄井 (くろがねのい)
(石碑説明)
鎌倉十井(じゅっせい)のひとつです。水は清んで甘みがあり、夏でも枯れることはありません。
昔この井戸から高さ1.5メートルの鉄の観音像の首の部分が掘出されたために鉄井(くろがねのい)
と名付けられたといいます。正嘉(せいか)二年(1258)1月12日の午前2時ごろ、秋田城介康盛(やすもり)
の甘縄の自宅より火を出し、おりからの南風にあおられて、火は薬師堂の後ろの山を越えて寿福寺
にまでおよんで、寺の建物は、一堂も残らず全て焼けてしまいました。
火はさらに新清水寺(しんせいすいじ)、 窟堂(いわやどう)、若宮の宝物殿、宿坊(しゅくぼう)まで
及び焼き尽くしたことが、吾妻鑑に書かれています。
この観音像はその火事の時に、土の中に埋まったものを掘り出したものと思われます。
観音は新清水寺のものと伝えられるため、 後にこの井戸の西にある観音堂に安置されましたが
明治の初めに東京に移されたということです。

位置:雪ノ下1-8-20 茶房びぜんの角で T字路の東南角に建つ。



角の標識
22川喜多さん案内
川喜多さん案内


この標識を見て

観光客は それぞれに向かうようです


ここから駅方面へ下ります

緩やかな傾斜になっていて少し楽

ぶたさん すまし顔

小町通りは まだ 誰もいません
23小町望むぶた
小町望むぶた


ここは たまに出かける 

行きつけのクレープ屋さん

数年前から御成り通りにも出店

そういえば、最近

ポポ(愛犬)の散歩が多く

町通りに足を運ばなくなったからか・・・

でも とれも美味しいですよ!
24クレープ店
クレープ店


七夕飾りの小町通り

まだ 誰も見かけませんね
25小町通
小町通


こちらは

小町から若宮大路に抜ける参道です

ここから若宮大路も横切り

もう一本 東の通りに向かう

東勝寺跡をめざします
26小町脇
小町脇


こんなところに

おしゃれなお店

NIKEのアンテナショップかと思ったけど・・・
27宝石店か
宝石店か



東勝橋に到着

この石碑は前回 来ているけど

この先のお寺跡までは暗くなったので

行きそびれました
28東勝橋
東勝橋


東勝寺跡に向かう途中

ユリが鮮やかでした !!
29やまゆり2
やまゆり

あまり鮮やかなので 別々に写メ!
30黄色ゆり
黄色

31えんじユリ
えんじ


到着です

石碑はやぐらに向かうすぐ前に建ってますが

東勝寺跡は すこし手前の広場です

東勝寺旧蹟
33東勝寺石碑
東勝寺旧蹟 (とうしょうじ・きゅうせき)
(石碑説明)
元弘三年(1333)5月に、新田義貞が鎌倉に攻め入ると、北条高時(たかとき)は、小町の屋敷を出て
先祖代々北条家の墓がある東勝寺にこもりました。そこで150年間賑やかに栄えた鎌倉の町の屋敷
や商店が一面に炎と煙に包まれている様子を遠く眺めながら、一族の者870人以上が共に自害し
果てました。北条の政治権力の歴史が終わる、この悲惨な場面は実にこの場所で行われたのです。

位置:小町3-10-22 東勝寺橋を渡り 
   200メートル登った所の西方に腹切りやぐらが在りその前方に建つ。





この上にはハイキングコース

すぐ横には腹切りやぐら

石碑の回り
32東勝寺石碑
東勝寺石碑


ここから やぐらには 参拝以外 立ち入り禁止の立て札

・・・・

・・・

・・



合掌
34腹切りやくら前
腹切りやくら前


うっそうと生い茂る藪の中に

ひっそりとハイキングコースの案内 
35ハイキングコース
ハイキングコース標識




すぐ横に

詳しいコース案内です

一度だけ 廻ったことがありますね

もうすっかり忘れたな・・・

もう一度回ってみようとまでは思わなかったのかな?
36ハイキングコース2
ハイキングコース案内



さて、つぎに行こう!

ここがお寺の跡地

市が管理していて 柵がある
37東勝寺跡
東勝寺跡管理地



おんめさま 到着

今が盛りのアガパンサス

鮮やかに 参道脇を占めていました
38おんめさまアガパンサス
おんめさまアガパンサス


お参りした すぐ 横には

キキョウが

これも みごとでした!
39おんめさまキキョウ
桔梗




その向かいには

縁起のいい ハスが 蕾を付けて

準備万端
40おんめさま蓮



裏(どちらかと言うと表かな)の参道も

アガでいっぱいだ!
41おんめさま境内お花道
おんめさま境内お花道


山門前も

絵になりますね
42おんめさま参門前
おんめさま山門前


さてと 次は

下馬四つ角の

下馬

途中 農協の販売所

鎌倉野菜を販売してます 

もう 買っている人いるね

最近 来ないなぁ
43農協
農協



あった

石碑はここかぁ!
44下馬石碑
下 馬 (げば)
(石碑説明)
昔、鶴岡八幡宮に参る武士はこの辺で馬より降りて歩いたため、下馬の名前が付きました。
現在でもその名前が残っています。この地点は鎌倉の重要な位置にあり、しばしば戦場に
なったことが古い書物に書かれています。なお文永八年(1271) 9月12日、日蓮聖人が
名越の家より竜口の刑場に送られる途中鶴岡神社に向い
「八幡大 菩薩、神ならば仏法のため霊験を顕(あら)わし給え」と大声で願をかけたのは
この下馬橋付近と伝えられています。

位置:由比ガ浜2-2-20付近で下馬交差点東南に在るGS前に建つ


ガソリンスタンドのすぐ 手前

慌ただしいところにあるな
45下馬石碑まわり
下馬石碑まわり




さぁ つづいては 大町方面へ

今度は日蓮さんの石碑へ向かいます

ここは下馬のすぐよこを流れる

滑川にかかるはし
46えんめいじばし
えんめいじばし



JR踏切を渡って

すぐ パン屋さんの

お祭りのちらしだ

そうか ここでも お祭りがあるんだ

それも三日間もある

鎌倉には八幡様の他にもちいさな神社が

数多くあり、その神社ごとのお祭りがあるようだ

さあ、進もう
47パン屋さん
パン屋さん


安養院を過ぎて

小路を進むと 安国論寺 到着です

辻説法の石碑に続いて 二つ目ですね

安国論寺
48日蓮さん
安国論寺 手前

日蓮上人草庵跡
49日蓮石碑
日蓮上人草庵跡 (にちれんしょうにん・そうあんあと)
(石碑説明)
建長五年(1253)に日蓮上人が房州(千葉県南部)の小湊(こみなと)からやって来て、ここに住み
法華経(ほっけきょう)という首題(しゅだい:南無妙法蓮華経)を唱えはじめました。
そして正嘉元年(1257)より3年間あいだ、洞窟にこもって、立正安国論一巻を書き上げたと
いわれているのがこの場所です。

位置:大町4-4-18 安国論寺の山門前に建つ。



こんどは 佐竹の石碑のある 

お寺に向かう

大町方面の少し戻り

電通の研修所に向かう途中

大宝寺
50大宝寺前
大宝寺前


大宝寺案内です
52大宝寺案内
大宝寺横



お寺は佐竹氏の時代より

ずっと後に建立されたんですね

佐竹屋敷跡
51佐竹石碑
佐竹屋敷跡 (さたけ・やしき・あと)
(石碑説明)
この場所は佐竹秀義(ひでよし)が最初で、それ以降の佐竹家代々の屋敷跡と伝えられている。
昔ここに佐竹家の社がありましたが、後に村の天王社に移されてそこに祭られました。 
後の山を佐竹山と呼び、その形が扇の紙形に似ており、山の中央に三本の尾根があり
左右合せて五本骨の扇のように見えます。
参考:佐竹家の家紋は頼朝から授かった日の丸の入った扇です。

位置:大町3-6-22大宝寺の山門前に建つ



つづいては 大町四つ角

町屋石碑を目指した

わかりやすいところにありました

町屋石碑
53町屋石碑
町屋址 (まちやあと)
(石碑説明)
この辺りは、昔の鎌倉繁栄当時に商売屋が多く集まった所で、その中央の大通を大町大路と呼び
その他には、米町、辻町、魚町、名越などの区域がありました。
それぞれの町屋のあった所と思われ、しばしば吾妻鑑(あずまかがみ)に書かれています。
現在でもその名前が残っています。

位置:大町2-3-2付近の道路に面した南側で魚町橋の南20メートルに建つ。


石碑の回り
54大町四つ角望む
大町四つ角望む



次は再々のチャレンジ

元八幡宮

回りをかなり探しては見たが

発見できず・・・・(泣)

代わりと言っては 大変失礼ですが・・・

「旗立の松」

これは 現在の鶴岡八幡宮のルーツで

本殿は、八幡太郎義家が修復したものと言われ

これが義家が源氏の旗を立てた松、「旗立の松」の幹

頼朝は、社を現在の鶴岡八幡宮の地に移しましたので

元の八幡、元八幡と呼ばれるようになってます
55元八幡内
元八幡内


さあ、ここの石碑は あきらめ

次は材木座奥にあるところ

弁谷? に向かおう

いつも、ここは素通りしてたけど

じっくり 見てみると

かっこいい 看板と
57お店看板
LURES看板


愛嬌のある マスコットかな

水道路の角にあるLURES

中には一度も入ったことないんだ(泣)

カントリースタイルのレストラン&バーになるそう

古くから営業しているので 美味しいんだろうね
56大町水道道お店
マスコット


つづいては

材木座の辺りを うろうろして

ほとんど地の利がないからなぁ・・・

やっと 見つけた

弁谷 (べんがやつ)
58辨谷石碑
弁谷
(石碑説明)
元亨元年(1321)に、北条高時(たかとき)が建てた金剛山崇寿寺(すうじゅじ)は、この場所。
道興准后(どうこうじゅんこう)の「廻国(かいこく)雑記」に書かれている紅谷(べにがやつ)と
田代系図に書かれている千葉介(ちばのすけ)の敷地である別谷(べつがやつ)とは
共に弁谷に同じであるという説がありますが、詳しいことは分かっていません。

位置:材木座6-9-23付近 三菱重工鎌倉荘の東50メートル先の右側に建つ。


ここもなんとなく 

ひっそりと

回りにごみ取集場所って 

石碑のいくつかでみかけたけど

折角ならすこし離れていた方がいいな

残念だけど
59辨谷石碑まわり
辨谷石碑まわり


さあ、これで 材木座はすべて廻ったな

よし 次 行こう


花火大会のちらしだ

去年 久しぶりに出かけたけど

今年はどうしようか・・・

また、愛犬と出かけようかな
60花火大会案内
鎌倉花火大会案内


さてさて

お次は 再挑戦の 九品寺そば

確か私邸の中にあると・・・

どこだろう

散々 ぐるり この近辺を回って

やっと見つけた

あそこだ!

このお宅の駐車場の奥

よく見ると石碑だがひっそり


前に探したのは夕方 

ほとんど暗がりだったけど

今回ははっきり目視できた

新居閻魔堂址 (あらいえんまどう あと)
61えんまどう
新居閻魔堂址
(石碑説明)
滑川の下流を閻魔(えんま)川と言うのは、昔この辺りに閻魔堂が在ったために名付けられたと
いいます。
その堂は、後に鎌倉北部の山の内に移され、現在は新居(あらい)山円応(えんおう)寺といいます。
しかしその移動時期はよく分かりません。

位置:材木座5-11-8の個人の邸宅の中で九品寺交差点からバス道路を西北へ170メートル行き
   南側の邸宅奥に建つ。個人の庭にあるため、その旨断わること。


なるほど  

建長寺からすこし登ったこぶくろ洞の 

手前にそういえば 円応(えんおう)寺があるね

あそこへ 

ここから移されたんだ・・・。
62閻魔まわり
閻魔まわり



すぐお隣の庭に立派なユリ

あまりにも鮮やかで アップでパシャ!
63えんまどうゆり
ユリ!!

あとは帰りのコースへ

まずは 滑川

この橋の名は?

海岸橋から由比ヶ浜を望む

曇りだ・・・・
64なめりがわ
滑川から海


ここは海浜公園から

由比ヶ浜を望んだところ

駐車場には海の家 急ピッチで仕上げのため

作業自動車でいっぱいだ
65海浜公園から望む
海浜公園から望む


公園を見回すと

わんこ 遊ばせてる

この時間だとまだ ほとんど人いないからね
66海浜公園
海浜公園


ここからは

帰路に向かいます

しばらく 進むと

裁許橋の欄干に絡みつく

琉球あさがおが あざやか
67琉球あさがお
琉球あさがお


さらに北へ

反対側は御成小学校

石碑の後は数年前までは立派な古民家でしたが

マンションに建て替えてます(泣)

最近は 大きなお屋敷は ほとんど マンションや賃貸集合住宅へ

古いお屋敷がどんどん取り壊されて 世界遺産登録は程遠いでしょうね(´・_・`)!

問注所旧蹟 (もんちゅうしょ きゅうせき)
68門
問注所旧蹟
(石碑説明)
元暦元年(1184)源頼朝は大蔵幕府の東西の脇の建物を裁判所とし、これを問注所といいました。
そこは、いろいろな人が大勢集まり、時には喧嘩になることもありました。
源頼家(よりいえ)は、これを嫌って、 正治元年(1199)に問注所を屋敷の外に移しました。
この場所がその跡であります。

位置:御成町9-18付近 御成小学校前のT字路の東北端に建つ。



ここを北へ今小路通りをさらに 北へ

途中 ママさんのお気に入りのお店(洋服屋さん)

私は入ったことないんですが・・・・。
694cup
4CUPS


さあ、あとは近くの3つ

いつもはほんと 素通りだったので

帰って良く調べてみました・・・

まずは扇谷上杉管領

扇谷上杉管領屋敷遺迹 (おうぎがやつ・うえすぎかんれい・やしきあと)
70上杉
扇谷上杉管領屋敷遺迹
(石碑説明)
藤原高藤(たかとう)より数えて、十三代の子孫に藤原重房(しげふさ)という人がおり
鎌倉6代将軍となった宗尊親王(むねたかしんのう)に従って、鎌倉に行きました。
そして、京都の上杉に領地をもらったので、名前を上杉としました。
その3代後の上杉憲顕(のりあき)は、将軍基氏(もとうじ)の高官となり
一族の勢力は関東に広がりました。さらに重房から5代後の顕定(あきさだ)は
扇谷家を起こしました。文明(1469‐1487)頃、扇谷家の6代目の定正(さだまさ)は
太田道灌を用いて勢力を拡大しました。世間の人々は、山内(やまのうち)家と共に
両上杉または両管領(かんれい)と言いました。この場所がその屋敷の跡です。

位置:扇ヶ谷2-4-16 英勝寺の前の踏切りを渡り
   線路の東側を北に50メートル進んだ右側に建つ。


ここは松本清張の小説:黒い空で登場するようです

続いては  浄光明寺の門前の入口角
72藤谷石碑周り
浄光明寺の門前の入口角

こちらのお寺奥は広いです

未公開のお堂などあります


藤谷黄門遺跡 (ふじがやつこうもん いせき)
71藤谷石碑
藤谷黄門遺跡
(石碑説明)
冷泉為相(れいぜいためすけ)は、為家(ためいえ)の子供です。
播磨(はりま:兵庫県)の土地の所有の事で、兄の為氏(ためうじ)と紛争がおきました。
そのため、母の阿仏尼(あぶつに)と共に鎌倉に来て、幕府に訴えました。
そして、藤谷(ふじがやつ)に住んだので、藤谷殿と言われました。
藤谷百首(ふじがやつひゃくしゅ)と言う和歌集は、この場所で詠まれたものです。
網引(あみひき)地蔵を建てるのに、関係しているようです。またその墓は、
この後の山の頂にあり、五輪の塔で、月巌寺殿玄国昌久の八文字が刻まれていますが、
現在は、磨り減ってよく読めません。

位置:扇ヶ谷2-12-1 清光明寺の門前で道路からの入り口すぐ左側に建つ。



これは今日の最後の石碑になります

相馬次郎師常之墓
73相馬
相馬次郎師常之墓 (そうまじろうもろつねのはか)
(石碑説明)
相馬帥常は、千葉介常胤(ちばのすけつねたね)の次男であり、相馬家を相続し、
巽荒神(たつみこうじん)の辺に住んでいましたが、久二年(1205)年11月15日に67歳で、
正座し合掌したままで亡くなりました。その姿を拝もうと人々が集ったと言うことです。 
岩の中の石塔は帥常の墓であります。

位置:扇ヶ谷2-9-1付近 英勝寺の前の踏切りを渡り線路の東側を北に200メートル進むと
   東への小道が在り70メートル先の突当る所に建つ。


正面に見えるやぐらにあるのが 相馬次郎師常のお墓
74相馬石碑周り
相馬石碑周り


石碑に向かう途中のお宅

垣根からひょっこり 顔だしてるキキョウが可愛い
75キキョウ
桔梗



お疲れさん

今日はここで ランエンド

記録はどうかな?

2時間で15キロかぁ

まあ、石碑めぐりしてるからな・・・・
kiroku2
記録

kiroku1
きろく2


今日は 随分とたくさん回ったぞ

なんと 15か所(びっくり)

後いくつかな?


さあ、あすも天気なら 

気合い入れよう!


(石碑出典:鎌倉史跡碑



☆☆ あなたのシニアライフは豊かになりますか? ☆☆