☆☆ あなたのシニアライフは豊かになりますか? ☆☆
■2015/06/27 ラン
土曜 早朝のラン
今朝は以前のランニングで
見つける事の出来なかったところを
中心に攻めることにした。
まずは今宮を目指す
今が盛りの亀ヶ谷坂のアジサイだ
あざやかで 気持ちがいい!
亀ヶ谷坂のアジサイ
坂の崖を見上げると
鬼百合が二つ
鮮やかだけど Iphoneだときれいに撮れないや (≧≦)
亀ヶ谷ゆり
なんだっけ・・・
巨袋坂を行く途中
夏の花だよな 姫ひまわりか?
亀ヶ谷道路姫ひまわり
建長寺
7月23日、24日は盛大に開山忌(法要)がある そうだ...
建長寺の開山は蘭渓道隆
その蘭渓道隆(大覚禅師)は、元々中国(宋)の禅僧で
北条時頼によって建長寺の開山に迎えられたそうです
建長寺開山忌案内
天下禅林とは建長寺の山号で
「人材を広く天下に育成する禅寺」らしいです
建長寺はけんちん汁でも名が知られてます(^―^)
天下禅林
まずは最初の目的である今宮
やっと見つけられた
前はなぜか道筋も間違えて
一旦はここまで来たんだけど
今日はゆっくり 確認できた(^―^)
けど、ちょっとピンボケ(´_`。)
今宮
今宮 (いまみや)
(石碑説明)
四条天皇延応(えんおう)元年(1239)年に、鎌倉の街中の方々で喧嘩(けんか)や争いごとがあり
特にその5月25日には大騒動が起りました。この日、隠岐の島に流されていた天皇の後鳥羽院が
亡くなったので、これはその恨みが原因だろうということで、宝治元年(1247)四月に
大臣山の西の麓に神社を建て、後鳥羽院の霊と、さらに順徳院と長賢の霊もあわせて祭りました。
これを今宮といい、新宮とも書きます。
位置:雪ノ下2-16-25 八幡宮西後方の鶴岡文庫から北へ150メートルに建つ
今宮石碑
祭神は
土御門天皇(つちみかど)
後鳥羽天皇・・・つちみかどの父
順徳天皇 ・・・つちみかどの弟
真ん中は父親で左右に兄弟
承久の乱は教科書で大昔 習ったと思う
歴史に名を残した有名な皇室 鎌倉幕府と真っ向勝負して敗退か
今宮 皇室
「今宮」という名称には
新しい宮という意味があることから
「新宮」とも書かれるそうです
新宮
さて、今宮でお参りして
さらに、八幡様本殿にお参り
そうか、もうそろそろ 七夕だ
本殿下望む
本殿にも大きな飾りがあった
これは舞殿の七夕飾り
あざやかだ
舞殿
ここ八幡宮には 2つの石碑があるはず
まずは、柳原石碑
どこかな・・・
発見!
少々わかりずらいところだな・・・
柳原 (やなぎはら)
(石碑説明)
この辺り昔は柳の名所で、柳原と言われていたようです。
「年経たる 鶴岡辺の 柳原 青みにけりな 春のしるしに」
という古い歌が伝えられています。作者は分かっておりませんが
一説には北条泰時(やすとき)の歌ともいわれています。
現在見られる柳は、昔の名残でしょうか。
位置:雪ノ下2-1-31八幡宮社務所の北方で白旗神社と若宮を結ぶ通路で
池に架かる橋が在りその橋のたもとの東南側に建つ。
とあるけど、 いま柳があるのかな??
今度 来たときに
回りの木々をチェックしよう
柳原周辺
柳原まわり
こちらは 境内にある
神奈川県近代美術館の広告
ここ八幡様境内と八幡裏 それと葉山にもあります。
境内美術館案内
なんと、こちらの美術館は今年限りになるそうです
来年からは鎌倉別館と葉山館にそれぞれわかれて運営されるとのこと
年内に見納めなのでぜひ、改めて今度行こうと思う
10月4日までに行けば、1000円で
本館と別館両方を当日限り、鑑賞できるようだ
境内美術館案内回り
さあて、次は源平池だ
ここは蓮がいっぱい咲き誇る
八幡様に向かって左が平家池
右が源氏池
両方で源平池と呼び 紅白の蓮が咲く
昔は、源氏池には白蓮
平家池には紅蓮がそれぞれ咲いていたようですが
今日では紅白区別はないようです
ちなみに白蓮は源氏の白旗
紅蓮は平家の赤旗にちなんで植えられたようです
源平池
源平池(げんぺい・いけ)
(石碑説明)
吾妻鑑によると「寿永元年(1182)四月に、源頼朝が、専光坊(せんこうぼう)や
大庭景義(かげよし)らに八幡宮内に池を掘らせた」と書いてあります。
またある説には、頼朝の妻の政子が源家が栄えることを願ってこの池を造らさせ
東の池には白い蓮、西の池には赤い蓮を植えて、源平の旗の色を表わしたと
伝えられており、それで源平池という名前が付いているそうです。
位置:雪ノ下2-1-34 八幡宮三の鳥居左奥で北の池のほとりに建つ。
源平池石碑
池のほぼ真ん中にある太鼓橋
二十数年ほど前には
この橋を長男の手を繋いで 渡ったことがあり
いまでは貴重な体験でした(^―^)
残念ながら 現在までは渡れません・・・
もっとも、簡単には渡れなく 両サイドの欄干に
しがみつかなければ到底渡れませんでした
当時は子供の手を引いて随分 無茶なことしたものです (≧≦;)
太鼓橋
さあ、今度は小町通りへ
くろがねの井戸へ
こちらはちゃっかり
宣伝に使ってる
鉄井看板
鉄井
鉄井 (くろがねのい)
(石碑説明)
鎌倉十井(じゅっせい)のひとつです。水は清んで甘みがあり、夏でも枯れることはありません。
昔この井戸から高さ1.5メートルの鉄の観音像の首の部分が掘出されたために鉄井(くろがねのい)
と名付けられたといいます。正嘉(せいか)二年(1258)1月12日の午前2時ごろ、秋田城介康盛(やすもり)
の甘縄の自宅より火を出し、おりからの南風にあおられて、火は薬師堂の後ろの山を越えて寿福寺
にまでおよんで、寺の建物は、一堂も残らず全て焼けてしまいました。
火はさらに新清水寺(しんせいすいじ)、 窟堂(いわやどう)、若宮の宝物殿、宿坊(しゅくぼう)まで
及び焼き尽くしたことが、吾妻鑑に書かれています。
この観音像はその火事の時に、土の中に埋まったものを掘り出したものと思われます。
観音は新清水寺のものと伝えられるため、 後にこの井戸の西にある観音堂に安置されましたが
明治の初めに東京に移されたということです。
位置:雪ノ下1-8-20 茶房びぜんの角で T字路の東南角に建つ。
角の標識
川喜多さん案内
この標識を見て
観光客は それぞれに向かうようです
ここから駅方面へ下ります
緩やかな傾斜になっていて少し楽
ぶたさん すまし顔
小町通りは まだ 誰もいません
小町望むぶた
ここは たまに出かける
行きつけのクレープ屋さん
数年前から御成り通りにも出店
そういえば、最近
ポポ(愛犬)の散歩が多く
町通りに足を運ばなくなったからか・・・
でも とれも美味しいですよ!
クレープ店
七夕飾りの小町通り
まだ 誰も見かけませんね
小町通
こちらは
小町から若宮大路に抜ける参道です
ここから若宮大路も横切り
もう一本 東の通りに向かう
東勝寺跡をめざします
小町脇
こんなところに
おしゃれなお店
NIKEのアンテナショップかと思ったけど・・・
宝石店か
東勝橋に到着
この石碑は前回 来ているけど
この先のお寺跡までは暗くなったので
行きそびれました
東勝橋
東勝寺跡に向かう途中
ユリが鮮やかでした !!
やまゆり
あまり鮮やかなので 別々に写メ!
黄色
えんじ
到着です
石碑はやぐらに向かうすぐ前に建ってますが
東勝寺跡は すこし手前の広場です
東勝寺旧蹟
東勝寺旧蹟 (とうしょうじ・きゅうせき)
(石碑説明)
元弘三年(1333)5月に、新田義貞が鎌倉に攻め入ると、北条高時(たかとき)は、小町の屋敷を出て
先祖代々北条家の墓がある東勝寺にこもりました。そこで150年間賑やかに栄えた鎌倉の町の屋敷
や商店が一面に炎と煙に包まれている様子を遠く眺めながら、一族の者870人以上が共に自害し
果てました。北条の政治権力の歴史が終わる、この悲惨な場面は実にこの場所で行われたのです。
位置:小町3-10-22 東勝寺橋を渡り
200メートル登った所の西方に腹切りやぐらが在りその前方に建つ。
この上にはハイキングコース
すぐ横には腹切りやぐら
石碑の回り
東勝寺石碑
ここから やぐらには 参拝以外 立ち入り禁止の立て札
・・・・
・・・
・・
・
合掌
腹切りやくら前
うっそうと生い茂る藪の中に
ひっそりとハイキングコースの案内
ハイキングコース標識
すぐ横に
詳しいコース案内です
一度だけ 廻ったことがありますね
もうすっかり忘れたな・・・
もう一度回ってみようとまでは思わなかったのかな?
ハイキングコース案内
さて、つぎに行こう!
ここがお寺の跡地
市が管理していて 柵がある
東勝寺跡管理地
おんめさま 到着
今が盛りのアガパンサス
鮮やかに 参道脇を占めていました
おんめさまアガパンサス
お参りした すぐ 横には
キキョウが
これも みごとでした!
桔梗
その向かいには
縁起のいい ハスが 蕾を付けて
準備万端
蓮
裏(どちらかと言うと表かな)の参道も
アガでいっぱいだ!
おんめさま境内お花道
山門前も
絵になりますね
おんめさま山門前
さてと 次は
下馬四つ角の
下馬
途中 農協の販売所
鎌倉野菜を販売してます
もう 買っている人いるね
最近 来ないなぁ
農協
あった
石碑はここかぁ!
下 馬 (げば)
(石碑説明)
昔、鶴岡八幡宮に参る武士はこの辺で馬より降りて歩いたため、下馬の名前が付きました。
現在でもその名前が残っています。この地点は鎌倉の重要な位置にあり、しばしば戦場に
なったことが古い書物に書かれています。なお文永八年(1271) 9月12日、日蓮聖人が
名越の家より竜口の刑場に送られる途中鶴岡神社に向い
「八幡大 菩薩、神ならば仏法のため霊験を顕(あら)わし給え」と大声で願をかけたのは
この下馬橋付近と伝えられています。
位置:由比ガ浜2-2-20付近で下馬交差点東南に在るGS前に建つ
ガソリンスタンドのすぐ 手前
慌ただしいところにあるな
下馬石碑まわり
さぁ つづいては 大町方面へ
今度は日蓮さんの石碑へ向かいます
ここは下馬のすぐよこを流れる
滑川にかかるはし
えんめいじばし
JR踏切を渡って
すぐ パン屋さんの
お祭りのちらしだ
そうか ここでも お祭りがあるんだ
それも三日間もある
鎌倉には八幡様の他にもちいさな神社が
数多くあり、その神社ごとのお祭りがあるようだ
さあ、進もう
パン屋さん
安養院を過ぎて
小路を進むと 安国論寺 到着です
辻説法の石碑に続いて 二つ目ですね
安国論寺
安国論寺 手前
日蓮上人草庵跡
日蓮上人草庵跡 (にちれんしょうにん・そうあんあと)
(石碑説明)
建長五年(1253)に日蓮上人が房州(千葉県南部)の小湊(こみなと)からやって来て、ここに住み
法華経(ほっけきょう)という首題(しゅだい:南無妙法蓮華経)を唱えはじめました。
そして正嘉元年(1257)より3年間あいだ、洞窟にこもって、立正安国論一巻を書き上げたと
いわれているのがこの場所です。
位置:大町4-4-18 安国論寺の山門前に建つ。
こんどは 佐竹の石碑のある
お寺に向かう
大町方面の少し戻り
電通の研修所に向かう途中
大宝寺
大宝寺前
大宝寺案内です
大宝寺横
お寺は佐竹氏の時代より
ずっと後に建立されたんですね
佐竹屋敷跡
佐竹屋敷跡 (さたけ・やしき・あと)
(石碑説明)
この場所は佐竹秀義(ひでよし)が最初で、それ以降の佐竹家代々の屋敷跡と伝えられている。
昔ここに佐竹家の社がありましたが、後に村の天王社に移されてそこに祭られました。
後の山を佐竹山と呼び、その形が扇の紙形に似ており、山の中央に三本の尾根があり
左右合せて五本骨の扇のように見えます。
参考:佐竹家の家紋は頼朝から授かった日の丸の入った扇です。
位置:大町3-6-22大宝寺の山門前に建つ
つづいては 大町四つ角
町屋石碑を目指した
わかりやすいところにありました
町屋石碑
町屋址 (まちやあと)
(石碑説明)
この辺りは、昔の鎌倉繁栄当時に商売屋が多く集まった所で、その中央の大通を大町大路と呼び
その他には、米町、辻町、魚町、名越などの区域がありました。
それぞれの町屋のあった所と思われ、しばしば吾妻鑑(あずまかがみ)に書かれています。
現在でもその名前が残っています。
位置:大町2-3-2付近の道路に面した南側で魚町橋の南20メートルに建つ。
石碑の回り
大町四つ角望む
次は再々のチャレンジ
元八幡宮
回りをかなり探しては見たが
発見できず・・・・(泣)
代わりと言っては 大変失礼ですが・・・
「旗立の松」
これは 現在の鶴岡八幡宮のルーツで
本殿は、八幡太郎義家が修復したものと言われ
これが義家が源氏の旗を立てた松、「旗立の松」の幹
頼朝は、社を現在の鶴岡八幡宮の地に移しましたので
元の八幡、元八幡と呼ばれるようになってます
元八幡内
さあ、ここの石碑は あきらめ
次は材木座奥にあるところ
弁谷? に向かおう
いつも、ここは素通りしてたけど
じっくり 見てみると
かっこいい 看板と
LURES看板
愛嬌のある マスコットかな
水道路の角にあるLURES
中には一度も入ったことないんだ(泣)
カントリースタイルのレストラン&バーになるそう
古くから営業しているので 美味しいんだろうね
マスコット
つづいては
材木座の辺りを うろうろして
ほとんど地の利がないからなぁ・・・
やっと 見つけた
弁谷 (べんがやつ)
弁谷
(石碑説明)
元亨元年(1321)に、北条高時(たかとき)が建てた金剛山崇寿寺(すうじゅじ)は、この場所。
道興准后(どうこうじゅんこう)の「廻国(かいこく)雑記」に書かれている紅谷(べにがやつ)と
田代系図に書かれている千葉介(ちばのすけ)の敷地である別谷(べつがやつ)とは
共に弁谷に同じであるという説がありますが、詳しいことは分かっていません。
位置:材木座6-9-23付近 三菱重工鎌倉荘の東50メートル先の右側に建つ。
ここもなんとなく
ひっそりと
回りにごみ取集場所って
石碑のいくつかでみかけたけど
折角ならすこし離れていた方がいいな
残念だけど
辨谷石碑まわり
さあ、これで 材木座はすべて廻ったな
よし 次 行こう
花火大会のちらしだ
去年 久しぶりに出かけたけど
今年はどうしようか・・・
また、愛犬と出かけようかな
鎌倉花火大会案内
さてさて
お次は 再挑戦の 九品寺そば
確か私邸の中にあると・・・
どこだろう
散々 ぐるり この近辺を回って
やっと見つけた
あそこだ!
このお宅の駐車場の奥
よく見ると石碑だがひっそり
前に探したのは夕方
ほとんど暗がりだったけど
今回ははっきり目視できた
新居閻魔堂址 (あらいえんまどう あと)
新居閻魔堂址
(石碑説明)
滑川の下流を閻魔(えんま)川と言うのは、昔この辺りに閻魔堂が在ったために名付けられたと
いいます。
その堂は、後に鎌倉北部の山の内に移され、現在は新居(あらい)山円応(えんおう)寺といいます。
しかしその移動時期はよく分かりません。
位置:材木座5-11-8の個人の邸宅の中で九品寺交差点からバス道路を西北へ170メートル行き
南側の邸宅奥に建つ。個人の庭にあるため、その旨断わること。
なるほど
建長寺からすこし登ったこぶくろ洞の
手前にそういえば 円応(えんおう)寺があるね
あそこへ
ここから移されたんだ・・・。
閻魔まわり
すぐお隣の庭に立派なユリ
あまりにも鮮やかで アップでパシャ!
ユリ!!
あとは帰りのコースへ
まずは 滑川
この橋の名は?
海岸橋から由比ヶ浜を望む
曇りだ・・・・
滑川から海
ここは海浜公園から
由比ヶ浜を望んだところ
駐車場には海の家 急ピッチで仕上げのため
作業自動車でいっぱいだ
海浜公園から望む
公園を見回すと
わんこ 遊ばせてる
この時間だとまだ ほとんど人いないからね
海浜公園
ここからは
帰路に向かいます
しばらく 進むと
裁許橋の欄干に絡みつく
琉球あさがおが あざやか
琉球あさがお
さらに北へ
反対側は御成小学校
石碑の後は数年前までは立派な古民家でしたが
マンションに建て替えてます(泣)
最近は 大きなお屋敷は ほとんど マンションや賃貸集合住宅へ
古いお屋敷がどんどん取り壊されて 世界遺産登録は程遠いでしょうね(´・_・`)!
問注所旧蹟 (もんちゅうしょ きゅうせき)
問注所旧蹟
(石碑説明)
元暦元年(1184)源頼朝は大蔵幕府の東西の脇の建物を裁判所とし、これを問注所といいました。
そこは、いろいろな人が大勢集まり、時には喧嘩になることもありました。
源頼家(よりいえ)は、これを嫌って、 正治元年(1199)に問注所を屋敷の外に移しました。
この場所がその跡であります。
位置:御成町9-18付近 御成小学校前のT字路の東北端に建つ。
ここを北へ今小路通りをさらに 北へ
途中 ママさんのお気に入りのお店(洋服屋さん)
私は入ったことないんですが・・・・。
4CUPS
さあ、あとは近くの3つ
いつもはほんと 素通りだったので
帰って良く調べてみました・・・
まずは扇谷上杉管領
扇谷上杉管領屋敷遺迹 (おうぎがやつ・うえすぎかんれい・やしきあと)
扇谷上杉管領屋敷遺迹
(石碑説明)
藤原高藤(たかとう)より数えて、十三代の子孫に藤原重房(しげふさ)という人がおり
鎌倉6代将軍となった宗尊親王(むねたかしんのう)に従って、鎌倉に行きました。
そして、京都の上杉に領地をもらったので、名前を上杉としました。
その3代後の上杉憲顕(のりあき)は、将軍基氏(もとうじ)の高官となり
一族の勢力は関東に広がりました。さらに重房から5代後の顕定(あきさだ)は
扇谷家を起こしました。文明(1469‐1487)頃、扇谷家の6代目の定正(さだまさ)は
太田道灌を用いて勢力を拡大しました。世間の人々は、山内(やまのうち)家と共に
両上杉または両管領(かんれい)と言いました。この場所がその屋敷の跡です。
位置:扇ヶ谷2-4-16 英勝寺の前の踏切りを渡り
線路の東側を北に50メートル進んだ右側に建つ。
ここは松本清張の小説:黒い空で登場するようです
続いては 浄光明寺の門前の入口角
浄光明寺の門前の入口角
こちらのお寺奥は広いです
未公開のお堂などあります
藤谷黄門遺跡 (ふじがやつこうもん いせき)
藤谷黄門遺跡
(石碑説明)
冷泉為相(れいぜいためすけ)は、為家(ためいえ)の子供です。
播磨(はりま:兵庫県)の土地の所有の事で、兄の為氏(ためうじ)と紛争がおきました。
そのため、母の阿仏尼(あぶつに)と共に鎌倉に来て、幕府に訴えました。
そして、藤谷(ふじがやつ)に住んだので、藤谷殿と言われました。
藤谷百首(ふじがやつひゃくしゅ)と言う和歌集は、この場所で詠まれたものです。
網引(あみひき)地蔵を建てるのに、関係しているようです。またその墓は、
この後の山の頂にあり、五輪の塔で、月巌寺殿玄国昌久の八文字が刻まれていますが、
現在は、磨り減ってよく読めません。
位置:扇ヶ谷2-12-1 清光明寺の門前で道路からの入り口すぐ左側に建つ。
これは今日の最後の石碑になります
相馬次郎師常之墓
相馬次郎師常之墓 (そうまじろうもろつねのはか)
(石碑説明)
相馬帥常は、千葉介常胤(ちばのすけつねたね)の次男であり、相馬家を相続し、
巽荒神(たつみこうじん)の辺に住んでいましたが、久二年(1205)年11月15日に67歳で、
正座し合掌したままで亡くなりました。その姿を拝もうと人々が集ったと言うことです。
岩の中の石塔は帥常の墓であります。
位置:扇ヶ谷2-9-1付近 英勝寺の前の踏切りを渡り線路の東側を北に200メートル進むと
東への小道が在り70メートル先の突当る所に建つ。
正面に見えるやぐらにあるのが 相馬次郎師常のお墓
相馬石碑周り
石碑に向かう途中のお宅
垣根からひょっこり 顔だしてるキキョウが可愛い
桔梗
お疲れさん
今日はここで ランエンド
記録はどうかな?
2時間で15キロかぁ
まあ、石碑めぐりしてるからな・・・・
記録
きろく2
今日は 随分とたくさん回ったぞ
なんと 15か所(びっくり)
後いくつかな?
さあ、あすも天気なら
気合い入れよう!
(石碑出典:鎌倉史跡碑)
☆☆ あなたのシニアライフは豊かになりますか? ☆☆
■2015/06/27 ラン
土曜 早朝のラン
今朝は以前のランニングで
見つける事の出来なかったところを
中心に攻めることにした。
まずは今宮を目指す
今が盛りの亀ヶ谷坂のアジサイだ
あざやかで 気持ちがいい!
亀ヶ谷坂のアジサイ
坂の崖を見上げると
鬼百合が二つ
鮮やかだけど Iphoneだときれいに撮れないや (≧≦)
亀ヶ谷ゆり
なんだっけ・・・
巨袋坂を行く途中
夏の花だよな 姫ひまわりか?
亀ヶ谷道路姫ひまわり
建長寺
7月23日、24日は盛大に開山忌(法要)がある そうだ...
建長寺の開山は蘭渓道隆
その蘭渓道隆(大覚禅師)は、元々中国(宋)の禅僧で
北条時頼によって建長寺の開山に迎えられたそうです
建長寺開山忌案内
天下禅林とは建長寺の山号で
「人材を広く天下に育成する禅寺」らしいです
建長寺はけんちん汁でも名が知られてます(^―^)
天下禅林
まずは最初の目的である今宮
やっと見つけられた
前はなぜか道筋も間違えて
一旦はここまで来たんだけど
今日はゆっくり 確認できた(^―^)
けど、ちょっとピンボケ(´_`。)
今宮
今宮 (いまみや)
(石碑説明)
四条天皇延応(えんおう)元年(1239)年に、鎌倉の街中の方々で喧嘩(けんか)や争いごとがあり
特にその5月25日には大騒動が起りました。この日、隠岐の島に流されていた天皇の後鳥羽院が
亡くなったので、これはその恨みが原因だろうということで、宝治元年(1247)四月に
大臣山の西の麓に神社を建て、後鳥羽院の霊と、さらに順徳院と長賢の霊もあわせて祭りました。
これを今宮といい、新宮とも書きます。
位置:雪ノ下2-16-25 八幡宮西後方の鶴岡文庫から北へ150メートルに建つ
今宮石碑
祭神は
土御門天皇(つちみかど)
後鳥羽天皇・・・つちみかどの父
順徳天皇 ・・・つちみかどの弟
真ん中は父親で左右に兄弟
承久の乱は教科書で大昔 習ったと思う
歴史に名を残した有名な皇室 鎌倉幕府と真っ向勝負して敗退か
今宮 皇室
「今宮」という名称には
新しい宮という意味があることから
「新宮」とも書かれるそうです
新宮
さて、今宮でお参りして
さらに、八幡様本殿にお参り
そうか、もうそろそろ 七夕だ
本殿下望む
本殿にも大きな飾りがあった
これは舞殿の七夕飾り
あざやかだ
舞殿
ここ八幡宮には 2つの石碑があるはず
まずは、柳原石碑
どこかな・・・
発見!
少々わかりずらいところだな・・・
柳原 (やなぎはら)
(石碑説明)
この辺り昔は柳の名所で、柳原と言われていたようです。
「年経たる 鶴岡辺の 柳原 青みにけりな 春のしるしに」
という古い歌が伝えられています。作者は分かっておりませんが
一説には北条泰時(やすとき)の歌ともいわれています。
現在見られる柳は、昔の名残でしょうか。
位置:雪ノ下2-1-31八幡宮社務所の北方で白旗神社と若宮を結ぶ通路で
池に架かる橋が在りその橋のたもとの東南側に建つ。
とあるけど、 いま柳があるのかな??
今度 来たときに
回りの木々をチェックしよう
柳原周辺
柳原まわり
こちらは 境内にある
神奈川県近代美術館の広告
ここ八幡様境内と八幡裏 それと葉山にもあります。
境内美術館案内
なんと、こちらの美術館は今年限りになるそうです
来年からは鎌倉別館と葉山館にそれぞれわかれて運営されるとのこと
年内に見納めなのでぜひ、改めて今度行こうと思う
10月4日までに行けば、1000円で
本館と別館両方を当日限り、鑑賞できるようだ
境内美術館案内回り
さあて、次は源平池だ
ここは蓮がいっぱい咲き誇る
八幡様に向かって左が平家池
右が源氏池
両方で源平池と呼び 紅白の蓮が咲く
昔は、源氏池には白蓮
平家池には紅蓮がそれぞれ咲いていたようですが
今日では紅白区別はないようです
ちなみに白蓮は源氏の白旗
紅蓮は平家の赤旗にちなんで植えられたようです
源平池
源平池(げんぺい・いけ)
(石碑説明)
吾妻鑑によると「寿永元年(1182)四月に、源頼朝が、専光坊(せんこうぼう)や
大庭景義(かげよし)らに八幡宮内に池を掘らせた」と書いてあります。
またある説には、頼朝の妻の政子が源家が栄えることを願ってこの池を造らさせ
東の池には白い蓮、西の池には赤い蓮を植えて、源平の旗の色を表わしたと
伝えられており、それで源平池という名前が付いているそうです。
位置:雪ノ下2-1-34 八幡宮三の鳥居左奥で北の池のほとりに建つ。
源平池石碑
池のほぼ真ん中にある太鼓橋
二十数年ほど前には
この橋を長男の手を繋いで 渡ったことがあり
いまでは貴重な体験でした(^―^)
残念ながら 現在までは渡れません・・・
もっとも、簡単には渡れなく 両サイドの欄干に
しがみつかなければ到底渡れませんでした
当時は子供の手を引いて随分 無茶なことしたものです (≧≦;)
太鼓橋
さあ、今度は小町通りへ
くろがねの井戸へ
こちらはちゃっかり
宣伝に使ってる
鉄井看板
鉄井
鉄井 (くろがねのい)
(石碑説明)
鎌倉十井(じゅっせい)のひとつです。水は清んで甘みがあり、夏でも枯れることはありません。
昔この井戸から高さ1.5メートルの鉄の観音像の首の部分が掘出されたために鉄井(くろがねのい)
と名付けられたといいます。正嘉(せいか)二年(1258)1月12日の午前2時ごろ、秋田城介康盛(やすもり)
の甘縄の自宅より火を出し、おりからの南風にあおられて、火は薬師堂の後ろの山を越えて寿福寺
にまでおよんで、寺の建物は、一堂も残らず全て焼けてしまいました。
火はさらに新清水寺(しんせいすいじ)、 窟堂(いわやどう)、若宮の宝物殿、宿坊(しゅくぼう)まで
及び焼き尽くしたことが、吾妻鑑に書かれています。
この観音像はその火事の時に、土の中に埋まったものを掘り出したものと思われます。
観音は新清水寺のものと伝えられるため、 後にこの井戸の西にある観音堂に安置されましたが
明治の初めに東京に移されたということです。
位置:雪ノ下1-8-20 茶房びぜんの角で T字路の東南角に建つ。
角の標識
川喜多さん案内
この標識を見て
観光客は それぞれに向かうようです
ここから駅方面へ下ります
緩やかな傾斜になっていて少し楽
ぶたさん すまし顔
小町通りは まだ 誰もいません
小町望むぶた
ここは たまに出かける
行きつけのクレープ屋さん
数年前から御成り通りにも出店
そういえば、最近
ポポ(愛犬)の散歩が多く
町通りに足を運ばなくなったからか・・・
でも とれも美味しいですよ!
クレープ店
七夕飾りの小町通り
まだ 誰も見かけませんね
小町通
こちらは
小町から若宮大路に抜ける参道です
ここから若宮大路も横切り
もう一本 東の通りに向かう
東勝寺跡をめざします
小町脇
こんなところに
おしゃれなお店
NIKEのアンテナショップかと思ったけど・・・
宝石店か
東勝橋に到着
この石碑は前回 来ているけど
この先のお寺跡までは暗くなったので
行きそびれました
東勝橋
東勝寺跡に向かう途中
ユリが鮮やかでした !!
やまゆり
あまり鮮やかなので 別々に写メ!
黄色
えんじ
到着です
石碑はやぐらに向かうすぐ前に建ってますが
東勝寺跡は すこし手前の広場です
東勝寺旧蹟
東勝寺旧蹟 (とうしょうじ・きゅうせき)
(石碑説明)
元弘三年(1333)5月に、新田義貞が鎌倉に攻め入ると、北条高時(たかとき)は、小町の屋敷を出て
先祖代々北条家の墓がある東勝寺にこもりました。そこで150年間賑やかに栄えた鎌倉の町の屋敷
や商店が一面に炎と煙に包まれている様子を遠く眺めながら、一族の者870人以上が共に自害し
果てました。北条の政治権力の歴史が終わる、この悲惨な場面は実にこの場所で行われたのです。
位置:小町3-10-22 東勝寺橋を渡り
200メートル登った所の西方に腹切りやぐらが在りその前方に建つ。
この上にはハイキングコース
すぐ横には腹切りやぐら
石碑の回り
東勝寺石碑
ここから やぐらには 参拝以外 立ち入り禁止の立て札
・・・・
・・・
・・
・
合掌
腹切りやくら前
うっそうと生い茂る藪の中に
ひっそりとハイキングコースの案内
ハイキングコース標識
すぐ横に
詳しいコース案内です
一度だけ 廻ったことがありますね
もうすっかり忘れたな・・・
もう一度回ってみようとまでは思わなかったのかな?
ハイキングコース案内
さて、つぎに行こう!
ここがお寺の跡地
市が管理していて 柵がある
東勝寺跡管理地
おんめさま 到着
今が盛りのアガパンサス
鮮やかに 参道脇を占めていました
おんめさまアガパンサス
お参りした すぐ 横には
キキョウが
これも みごとでした!
桔梗
その向かいには
縁起のいい ハスが 蕾を付けて
準備万端
蓮
裏(どちらかと言うと表かな)の参道も
アガでいっぱいだ!
おんめさま境内お花道
山門前も
絵になりますね
おんめさま山門前
さてと 次は
下馬四つ角の
下馬
途中 農協の販売所
鎌倉野菜を販売してます
もう 買っている人いるね
最近 来ないなぁ
農協
あった
石碑はここかぁ!
下 馬 (げば)
(石碑説明)
昔、鶴岡八幡宮に参る武士はこの辺で馬より降りて歩いたため、下馬の名前が付きました。
現在でもその名前が残っています。この地点は鎌倉の重要な位置にあり、しばしば戦場に
なったことが古い書物に書かれています。なお文永八年(1271) 9月12日、日蓮聖人が
名越の家より竜口の刑場に送られる途中鶴岡神社に向い
「八幡大 菩薩、神ならば仏法のため霊験を顕(あら)わし給え」と大声で願をかけたのは
この下馬橋付近と伝えられています。
位置:由比ガ浜2-2-20付近で下馬交差点東南に在るGS前に建つ
ガソリンスタンドのすぐ 手前
慌ただしいところにあるな
下馬石碑まわり
さぁ つづいては 大町方面へ
今度は日蓮さんの石碑へ向かいます
ここは下馬のすぐよこを流れる
滑川にかかるはし
えんめいじばし
JR踏切を渡って
すぐ パン屋さんの
お祭りのちらしだ
そうか ここでも お祭りがあるんだ
それも三日間もある
鎌倉には八幡様の他にもちいさな神社が
数多くあり、その神社ごとのお祭りがあるようだ
さあ、進もう
パン屋さん
安養院を過ぎて
小路を進むと 安国論寺 到着です
辻説法の石碑に続いて 二つ目ですね
安国論寺
安国論寺 手前
日蓮上人草庵跡
日蓮上人草庵跡 (にちれんしょうにん・そうあんあと)
(石碑説明)
建長五年(1253)に日蓮上人が房州(千葉県南部)の小湊(こみなと)からやって来て、ここに住み
法華経(ほっけきょう)という首題(しゅだい:南無妙法蓮華経)を唱えはじめました。
そして正嘉元年(1257)より3年間あいだ、洞窟にこもって、立正安国論一巻を書き上げたと
いわれているのがこの場所です。
位置:大町4-4-18 安国論寺の山門前に建つ。
こんどは 佐竹の石碑のある
お寺に向かう
大町方面の少し戻り
電通の研修所に向かう途中
大宝寺
大宝寺前
大宝寺案内です
大宝寺横
お寺は佐竹氏の時代より
ずっと後に建立されたんですね
佐竹屋敷跡
佐竹屋敷跡 (さたけ・やしき・あと)
(石碑説明)
この場所は佐竹秀義(ひでよし)が最初で、それ以降の佐竹家代々の屋敷跡と伝えられている。
昔ここに佐竹家の社がありましたが、後に村の天王社に移されてそこに祭られました。
後の山を佐竹山と呼び、その形が扇の紙形に似ており、山の中央に三本の尾根があり
左右合せて五本骨の扇のように見えます。
参考:佐竹家の家紋は頼朝から授かった日の丸の入った扇です。
位置:大町3-6-22大宝寺の山門前に建つ
つづいては 大町四つ角
町屋石碑を目指した
わかりやすいところにありました
町屋石碑
町屋址 (まちやあと)
(石碑説明)
この辺りは、昔の鎌倉繁栄当時に商売屋が多く集まった所で、その中央の大通を大町大路と呼び
その他には、米町、辻町、魚町、名越などの区域がありました。
それぞれの町屋のあった所と思われ、しばしば吾妻鑑(あずまかがみ)に書かれています。
現在でもその名前が残っています。
位置:大町2-3-2付近の道路に面した南側で魚町橋の南20メートルに建つ。
石碑の回り
大町四つ角望む
次は再々のチャレンジ
元八幡宮
回りをかなり探しては見たが
発見できず・・・・(泣)
代わりと言っては 大変失礼ですが・・・
「旗立の松」
これは 現在の鶴岡八幡宮のルーツで
本殿は、八幡太郎義家が修復したものと言われ
これが義家が源氏の旗を立てた松、「旗立の松」の幹
頼朝は、社を現在の鶴岡八幡宮の地に移しましたので
元の八幡、元八幡と呼ばれるようになってます
元八幡内
さあ、ここの石碑は あきらめ
次は材木座奥にあるところ
弁谷? に向かおう
いつも、ここは素通りしてたけど
じっくり 見てみると
かっこいい 看板と
LURES看板
愛嬌のある マスコットかな
水道路の角にあるLURES
中には一度も入ったことないんだ(泣)
カントリースタイルのレストラン&バーになるそう
古くから営業しているので 美味しいんだろうね
マスコット
つづいては
材木座の辺りを うろうろして
ほとんど地の利がないからなぁ・・・
やっと 見つけた
弁谷 (べんがやつ)
弁谷
(石碑説明)
元亨元年(1321)に、北条高時(たかとき)が建てた金剛山崇寿寺(すうじゅじ)は、この場所。
道興准后(どうこうじゅんこう)の「廻国(かいこく)雑記」に書かれている紅谷(べにがやつ)と
田代系図に書かれている千葉介(ちばのすけ)の敷地である別谷(べつがやつ)とは
共に弁谷に同じであるという説がありますが、詳しいことは分かっていません。
位置:材木座6-9-23付近 三菱重工鎌倉荘の東50メートル先の右側に建つ。
ここもなんとなく
ひっそりと
回りにごみ取集場所って
石碑のいくつかでみかけたけど
折角ならすこし離れていた方がいいな
残念だけど
辨谷石碑まわり
さあ、これで 材木座はすべて廻ったな
よし 次 行こう
花火大会のちらしだ
去年 久しぶりに出かけたけど
今年はどうしようか・・・
また、愛犬と出かけようかな
鎌倉花火大会案内
さてさて
お次は 再挑戦の 九品寺そば
確か私邸の中にあると・・・
どこだろう
散々 ぐるり この近辺を回って
やっと見つけた
あそこだ!
このお宅の駐車場の奥
よく見ると石碑だがひっそり
前に探したのは夕方
ほとんど暗がりだったけど
今回ははっきり目視できた
新居閻魔堂址 (あらいえんまどう あと)
新居閻魔堂址
(石碑説明)
滑川の下流を閻魔(えんま)川と言うのは、昔この辺りに閻魔堂が在ったために名付けられたと
いいます。
その堂は、後に鎌倉北部の山の内に移され、現在は新居(あらい)山円応(えんおう)寺といいます。
しかしその移動時期はよく分かりません。
位置:材木座5-11-8の個人の邸宅の中で九品寺交差点からバス道路を西北へ170メートル行き
南側の邸宅奥に建つ。個人の庭にあるため、その旨断わること。
なるほど
建長寺からすこし登ったこぶくろ洞の
手前にそういえば 円応(えんおう)寺があるね
あそこへ
ここから移されたんだ・・・。
閻魔まわり
すぐお隣の庭に立派なユリ
あまりにも鮮やかで アップでパシャ!
ユリ!!
あとは帰りのコースへ
まずは 滑川
この橋の名は?
海岸橋から由比ヶ浜を望む
曇りだ・・・・
滑川から海
ここは海浜公園から
由比ヶ浜を望んだところ
駐車場には海の家 急ピッチで仕上げのため
作業自動車でいっぱいだ
海浜公園から望む
公園を見回すと
わんこ 遊ばせてる
この時間だとまだ ほとんど人いないからね
海浜公園
ここからは
帰路に向かいます
しばらく 進むと
裁許橋の欄干に絡みつく
琉球あさがおが あざやか
琉球あさがお
さらに北へ
反対側は御成小学校
石碑の後は数年前までは立派な古民家でしたが
マンションに建て替えてます(泣)
最近は 大きなお屋敷は ほとんど マンションや賃貸集合住宅へ
古いお屋敷がどんどん取り壊されて 世界遺産登録は程遠いでしょうね(´・_・`)!
問注所旧蹟 (もんちゅうしょ きゅうせき)
問注所旧蹟
(石碑説明)
元暦元年(1184)源頼朝は大蔵幕府の東西の脇の建物を裁判所とし、これを問注所といいました。
そこは、いろいろな人が大勢集まり、時には喧嘩になることもありました。
源頼家(よりいえ)は、これを嫌って、 正治元年(1199)に問注所を屋敷の外に移しました。
この場所がその跡であります。
位置:御成町9-18付近 御成小学校前のT字路の東北端に建つ。
ここを北へ今小路通りをさらに 北へ
途中 ママさんのお気に入りのお店(洋服屋さん)
私は入ったことないんですが・・・・。
4CUPS
さあ、あとは近くの3つ
いつもはほんと 素通りだったので
帰って良く調べてみました・・・
まずは扇谷上杉管領
扇谷上杉管領屋敷遺迹 (おうぎがやつ・うえすぎかんれい・やしきあと)
扇谷上杉管領屋敷遺迹
(石碑説明)
藤原高藤(たかとう)より数えて、十三代の子孫に藤原重房(しげふさ)という人がおり
鎌倉6代将軍となった宗尊親王(むねたかしんのう)に従って、鎌倉に行きました。
そして、京都の上杉に領地をもらったので、名前を上杉としました。
その3代後の上杉憲顕(のりあき)は、将軍基氏(もとうじ)の高官となり
一族の勢力は関東に広がりました。さらに重房から5代後の顕定(あきさだ)は
扇谷家を起こしました。文明(1469‐1487)頃、扇谷家の6代目の定正(さだまさ)は
太田道灌を用いて勢力を拡大しました。世間の人々は、山内(やまのうち)家と共に
両上杉または両管領(かんれい)と言いました。この場所がその屋敷の跡です。
位置:扇ヶ谷2-4-16 英勝寺の前の踏切りを渡り
線路の東側を北に50メートル進んだ右側に建つ。
ここは松本清張の小説:黒い空で登場するようです
続いては 浄光明寺の門前の入口角
浄光明寺の門前の入口角
こちらのお寺奥は広いです
未公開のお堂などあります
藤谷黄門遺跡 (ふじがやつこうもん いせき)
藤谷黄門遺跡
(石碑説明)
冷泉為相(れいぜいためすけ)は、為家(ためいえ)の子供です。
播磨(はりま:兵庫県)の土地の所有の事で、兄の為氏(ためうじ)と紛争がおきました。
そのため、母の阿仏尼(あぶつに)と共に鎌倉に来て、幕府に訴えました。
そして、藤谷(ふじがやつ)に住んだので、藤谷殿と言われました。
藤谷百首(ふじがやつひゃくしゅ)と言う和歌集は、この場所で詠まれたものです。
網引(あみひき)地蔵を建てるのに、関係しているようです。またその墓は、
この後の山の頂にあり、五輪の塔で、月巌寺殿玄国昌久の八文字が刻まれていますが、
現在は、磨り減ってよく読めません。
位置:扇ヶ谷2-12-1 清光明寺の門前で道路からの入り口すぐ左側に建つ。
これは今日の最後の石碑になります
相馬次郎師常之墓
相馬次郎師常之墓 (そうまじろうもろつねのはか)
(石碑説明)
相馬帥常は、千葉介常胤(ちばのすけつねたね)の次男であり、相馬家を相続し、
巽荒神(たつみこうじん)の辺に住んでいましたが、久二年(1205)年11月15日に67歳で、
正座し合掌したままで亡くなりました。その姿を拝もうと人々が集ったと言うことです。
岩の中の石塔は帥常の墓であります。
位置:扇ヶ谷2-9-1付近 英勝寺の前の踏切りを渡り線路の東側を北に200メートル進むと
東への小道が在り70メートル先の突当る所に建つ。
正面に見えるやぐらにあるのが 相馬次郎師常のお墓
相馬石碑周り
石碑に向かう途中のお宅
垣根からひょっこり 顔だしてるキキョウが可愛い
桔梗
お疲れさん
今日はここで ランエンド
記録はどうかな?
2時間で15キロかぁ
まあ、石碑めぐりしてるからな・・・・
記録
きろく2
今日は 随分とたくさん回ったぞ
なんと 15か所(びっくり)
後いくつかな?
さあ、あすも天気なら
気合い入れよう!
(石碑出典:鎌倉史跡碑)
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