☆☆ あなたのシニアライフは豊かになりますか? ☆☆
■2015/06/13 ラン
本格的に梅雨入りして 初めてのラン
運よく 曇り空 ランニングにはちょうどいい天気
今週も石碑 めぐり と
アジサイ 散策 ラン スタート!
その前に葛原神社のアジサイと石碑を少し・・・
前日の夕方、葛原ヶ岡神社へワン散歩に出かけた際
石碑を巡ったので ここにアップしてみました。
愛犬夕散歩
愛犬と夕方散歩に出かけた際
小路で見つけたアジサイ
小路アジサイ
これから本格的な季節
観光客もどんどん増えて
色とりどりアジサイ達 目を楽しませてくれます
葛原神社
葛原が岡神社前の池の端に 偶然見つけた草亀
こんなのを甲羅干しっていうんだね。
人にもなついている様子(にこ)
草亀
葛原神社の手前 右の石碑
藤原仲能之墓
藤原仲能之墓(ふじわらなかよし・のはか)
(石碑説明)
この場所は、道智(どうち)の塚または阿古耶尼(あこやに)の塚であると伝えられていますが
海蔵寺の伝えによりますと、藤原仲能(なかよし)の墓と考えられます。
仲能は、鎌倉幕府の重臣でしたが、その後、海蔵寺の発展に尽くしました。
1256年12月9日に亡くなり、道智禅師と言われその位牌がこの寺に現存している。
位置:梶原5-9-1 源氏山葛原神社の社務所の東方20メートルに建つ。
======== ここから ラン記です(汗) ========
まずは、いつもの準備体操
一通りのストレッチ済ませて さあ スタート (7:46)
今日も石碑めぐりするつもりで 走り出した
扇川の土手 ここにもホタルフクロが 勢いよく咲いてい
今年もホタルが夜光った。
扇川の土手 ほたるふくろ
亀が谷坂の下り 土手にきれいなアジサイ
亀が谷坂あじさい
しばし見とれてシャッター!
亀が谷坂 あじさい
これもきれいなアジサイだ
これも亀が谷坂 あじさい
さあ、進もう!
こぶくろ洞を過ぎた処
しばらくすると、足元におびただしい実が落ちていた
これは 桑の実かな?
食べたら美味しそう(笑)
でも、こちらのお宅は食べないのかな?
ジャムにすれば、いいのに
八幡裏 桑の実
まずはお参り
曇り空の八幡様 本殿前
きょうは梅雨入りして 最初に週末
なんとか 雨には合わないで 走れそうだ
本殿前
本殿を下る途中
右側に すくすく育つ 復活銀杏
復活銀杏
さてと どこまで行こうか
今日も東を攻めよう
どこまでいけるかな?
どの程度の石碑があるのか?
途中、Iphoneで調べよう
なるほど、いろいろありそうだ。
まずは 東御門 チェック
東御門 (ひがしみかど)
(石碑説明)
大倉(大蔵)御所は、大倉(大蔵)幕府ともいい、
頼朝が政治を行っていたところ。御所・幕府には、四つの門があり
名前はその方位で付けていた。
東にあるものを東御門といい、現在は地名になっている。
法華堂の東の方向一帯の地域をいいます。
位置:西御門2-8-14付近で,荏柄天神の西南120メートルに建つ。
★東西南北か? 東と西の 御門見つけたけど・・・?
少し調べてみたが・・・
南御門は畠山重忠邸石碑の在る辺りらしいが
北御門は当時は御所の北方角にあったようだが石碑などは残っていないようだ。
\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
鎌倉幕府(大倉幕府)の南門。
源頼朝墓の参道と六浦道が交わる辺りを南御門といっていた。
南御門には、畠山重忠邸があったといわれ、
源頼朝の二女三幡が病気にかかったときに、
京都から呼び寄せられた名医丹波時長が滞在していたといわれている。
\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
これは近くの小学校生徒が作った案内。
東御門説明
次は 学問の神様
荏柄天神
荏柄天神 (えがらてんじん)
(石碑説明)
古い辞書「和名鈔」に「柄草」という地名があります。
現在はないようだがこの神社付近の昔の名前らしい。
草の字はカヤと読め、エカヤがエガヤになり、
後に文字を今のように当てたものと推測される。
神社の前の松並木を昔は馬場といった。
この社には菅原道真が祭ってあるが、建てられた年代は不明。
源頼朝が初めて大蔵幕府を建設する時、この社を鬼門の鎮守にした。
それ以降の歴代将軍も この神社を大切に保護した。
1548年に北条氏康(うじやす)は社の前に関所を設け、
通行税を取り、神社修復の費用に当てた。
江戸時代には、鶴岡八幡宮の工事ある毎に余った木材等を使用して、
この社の修造を行うのが例になっていたようだ。
位置:二階堂74,荏柄天神の参道の鳥 居の左側に建つ
★受験シーズンになると入学祈願の絵札
が神社の境内に掲げられているのを見かけます。
この標識 なにやらたくさんの史跡案内があります
さて、つぎはどこに向かおうか
荏柄神社標識
しばらく また 東へ向かい
204号線に出た・・・
そうだ、どうせなら一番東は 朝比奈だ
金沢鎌倉線 朝比奈へ抜ける道まで行こう
途中の川沿いにきれいなユリ
梅雨時 ユリの咲く時期なんだ
川沿い黄色ユリ
これは滑川の支流かな
こんな川があちこちにあるね
良く似た風景を見かける
川沿い
ここでも きれいな 額アジサイを見つけたので パシャ!
あじさいのオンパレードで すみません・・・(汗)
あじさい
204号線沿の脇にちょこんと鎮座している石碑 発見
道路は車が通って少し危なそうな場所にある
歌之橋とは おしゃれな橋名だが・・・
歌之橋 (うたのはし)
(石碑説明)
こちらは鎌倉十橋のひとつ
1213年2月に渋川刑部六郎兼守(かねもり)が
謀反の疑いで処刑されそうになったとき
無実の思いを十首の和歌にこめて荏柄天神に納めた。
翌朝、将軍の実朝は、その歌を聞いて感動して罪をゆるした。
兼守は神に感謝して、そのお礼としてここに橋を造り納めた。
これがこの橋の名の由来です。
位置:二階堂935、邸宅の南西端で,金沢街道に架かる歌の橋の東北端に建つ
★源と北条の争い、生き死にを分けた和歌かぁ・・・。
これ 歌之橋のかかる二階堂川 趣のある橋だ
歌之橋
川の向こうを眺めると鬱蒼とした竹林
下には小さな川の流れが静かだ
二階堂川
続いて 先へ行くと
文覚上人屋敷迹 石碑
文覚上人屋敷迹 (もんがくしょうにんやしきあと)
(石碑説明)
文覚上人の出家前の名は遠藤盛遠(もりとお)といい
以前は院の警備をしていましたが、18歳の時に
源渡(みなもとのわたる)の妻袈裟御前(けさのごぜん)に想いをよせ
源渡を殺そうとして、間違って袈裟御前を殺してしまいました。
これを深く後悔して僧となりました。
その修行の仕方は大変なもので、凍える日も、真夏の暑い日も草原で寝
日々滝に打たれて何度も死にそうになったといいます。
1182年4月、源頼朝の本願として江ノ島に弁財天を建て
ここで三十七日の間、飲まず食わずで祈りつづけたといわれています。
この場所がその文覚が住んでいた屋敷の跡です。
位置:雪ノ下4-4-32 金沢街道から大御堂橋を渡るとすぐT字路に当る,
その交差点の右側に建つ。
★平安後期から鎌倉時代初期に登場する僧侶
僧侶になった経緯がなんとも・・・。そこまでするか?
石碑の脇には品の良い趣のアジサイが咲いていた
文覚上人屋敷迹
浄明寺の近く
先へ進むと
杉朝宗及氏憲邸址
上杉朝宗及氏憲邸址 (うえすぎともむね・および・うじのりていあと)
(石碑説明)
上杉朝宗は、足利氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)に仕え
出家してからは禅助(ぜんすけ)と言いました。
当時の人は、犬懸(いぬかけ)の管領(かんれい:将軍代理職)と言いました。
その子の氏憲(うじのり)が跡を継いで持氏(もちうじ)の許で事務を取り仕切り
出家してからは名前を禅秀(ぜんしゅう)と言いました。
しかし、持氏と仲たがいになり
1416年に、氏憲は持氏の叔父の満隆(みつたか)と共に計画して
満仲に奉じて兵を起そうとしたが失敗した。
翌年1月に、一味と共に雪ノ下の鶴岡別当坊にて自殺した。
ここはその屋敷があった場所です。
位置:犬懸橋を渡り150メートル南下すると十字路に出る。その西南部に建つ。
★ここでも血の繋がりのある親戚同士の争い事の名残だ
ここからは 朝比奈切通しまで 頑張れそうだ
この標識?
どちらかなぁ
ちょっぴり薄汚れた標識
残念だ
標識
これ知らなかった!
田楽辻子(でんがくずし)のみち由来
田楽師が住んでいた小路(十字路)を辻といったそうで
吾妻鏡などの田楽にまつわる記事に基づいて現在の道筋をたどると
筋替橋を起点として宝戒寺裏から滑川を渉り、大御堂ケ谷・釈迦堂ケ谷
の入口をへて宅間ケ谷に出て六浦と合流する小路と考えられる。
と記されてる(汗)
田楽辻子
つづいて青砥・・・
報国寺の前からさらに金沢街道を行くと青砥橋という滑川に架かる橋があり
渡って少し入ると住宅街の中に青砥藤綱邸旧蹟の石碑が建ってた
青砥藤綱邸旧蹟 (あおとふじつなていきゅうせき)
(石碑説明)
鎌倉の将軍の善い行いを言う時、
概ね先ず、北条時頼(ときより)、北条時宗(ときむね)の名前がでる。
しかしその間にあって、両将軍に仕えた青砥藤綱の業績が
大きく貢献していることが少なからずある。
その藤綱には、多くに逸話があり、ある夜のこと
滑川(なめりがわ)を渡るとき
誤ってお金十文(じゅうもん)を川に落としてしまいました。
そこで、五十文でたいまつを買って、
水を照らしてお金を探したと言う話は、特に多くの人が話題にした。
この場所は、その藤綱の屋敷の跡であると伝えられています。
位置:浄明寺5-2-451の邸宅の南東端で,青砥橋を渡って20メートル進んで右側に建つ。
★川に落とした十文を探すため五十文を費やした・・・で、見つかったんだろうか?
つづいて また反対側の道側を走り始めると
梅の実が落っこちていた。
梅酒作りののシーズンがやってきた。
もちろん、この実は使われないでしょう(汗)
梅の実
今度は足利だ
足利公方邸旧蹟
足利公方邸旧蹟 (あしかがくぼうていあと)
(石碑説明)
足利義兼(よしかね)が源頼朝が幕府を開いた時、この場所に家を定めました。
その後二百数十年間、この地に子孫が代々住み、足利尊氏(たかうじ)が権力を握り
京都に移った後に、その子の義詮(よしあきら)が二代将軍となって
京都の家を継ぎました。そして義詮の弟の基氏(もとうじ)が関東管領となって、
軍の指揮をこの家からとりました。こうして、足利家は子孫に引き継がれました。
子孫は京都にならって、公方(こぼう)と名乗っておりました。
1455年に公方成氏(なりうじ)は、執事上杉憲忠(のりただ)と仲たがいし
下総(茨城)の古河(こが)に移ったために、遂に永く廃虚となる。
位置:浄明寺4-2-25の邸宅の東北端で
虹の橋の東北側の路地を10メートル入った左側に建つ。
つづいて 浄明寺付近・・・・
途中のお宅玄関先になんと可愛らしい 傘立て?かな
おもわずパシャ! 失礼(汗)
玄関先のバラとマッチしていたo(^◇^)o
かわいい傘立て
先を進み 橋を渡ると
ここも滑川にかかる橋なんだ
泉水ばし
橋の向こう側には重厚な感じで滑川と記されてる
滑川
十二所(じゅうにそう)を進む
つづいては大慈寺跡
大慈寺址 (だいじじあと)
(石碑説明)
大慈寺は、1212年に、源実朝(さねとも)が創建し別前を新御堂(しんみどう)と言う。
1214年7月27日に、大供養が行われ、頼朝の妻の政子と将軍実朝が格式高く参列した。
その後1257年に将軍宗尊(むねたか)親王の時本堂、丈六(じょうろく)堂
新阿弥陀(しんあみだ)堂、釈迦(しゃか)堂、三重の塔、鐘楼(しょうろう)など
ことごとく修理を加えられ、その美しさは、ほとんど前の建物以上であると
吾妻鑑に記してある。当時の素晴らしさが目に浮かぶであろう。その後740年過ぎた現在
一片の礎石(そせき)をも見ることがない。本当に時代の変化の大きさには驚かされる。
位置:十二所66付近で、同地の邸宅の西南に在り
明石橋から東方へ30へメートル進み、左折40メートルの交差点の右側に建つ。
十二所界隈のあじさい
きれいだ
白アジサイ
次はサンフレッチェの元祖?!
大江広元邸址
大江広元邸址 (おおえひろもとていあと)
(石碑説明)
大江氏は、代々学門の家柄です。
大江匡房(まさふさ)はそのむかし源義家に、兵法を教えたといわれており
大江広元は匡房のひまごにあたる。広元は頼朝に招かれて鎌倉に来てからは
常に政治の中央におり 幕府を創るに当たり功績は広元による所が大きいと
いわれている。そして相模の毛利に領地をもらって、毛利を名乗った。
しかし皮肉にもこの鎌倉幕府を創った功績者の子孫は、700年後の明治維新の時
天皇制の復活運動に活躍した。この場所がその毛利の先祖の家の跡です。
位置:十二所921の邸宅の西北端
明石橋の傍にあるGS北側を70メートル行った右側に建つ。
★広島の毛利、長州のルールはここにあったんだ!!
驚きの発見でした(^0^)
またまた、きれいなアジサイ
十二所あじさい
山百合も見事!
山百合
やまゆり
きれいいだ
ここにもアジサイ
十二所あじさい
いろとりどいの色彩
さらにあじさい
十二所あじさいだ
ついに朝比奈入口だ
朝比奈切通をここから登っていきます
沢の水が道中を流れている
朝比奈溝
沢の水が溜まっている
朝比奈 川だまり
朝夷奈切通 朝比奈表札発見
ここからさらに先かぁ すこし薄暗いな
でも進もう
案内がしっかりでてるけど
石碑はどこかな?
表札
在りました 見つけた
朝比奈切通 石碑
朝夷奈切通 (あさひなきりどうし)
(石碑説明)
この坂は、鎌倉七口(ななくち)のひとつです。
鎌倉より六浦を結ぶ重要な道で、大切通(おおきりどうし)
小切通(こきりどうし)の二つがあります。
民話では、朝夷奈義秀(あさひなよしひで)が、一夜の内に切り抜いたので
その名前が付いたと伝えられている。吾妻鑑によると、1240年11月に
鎌倉六浦間の道路を切開くことが決まり1241年4月に、工事が開始され
執権北条泰時(やすとき)もそこに出かけて監督しており、多くの人が集められ
土や石を運ぶのを見たと記されてる。
従ってこの切通は、その時に開通したものと思われる。
位置:十二所バス停の少し北から,金沢街道の東側に沿って
北に向かう道が在り,その道を約600メートル進むとY字路に出る
其の交差点の崖上に建つ.なお切通は川に沿って登る方向になる。
★かなりの距離をのぼると峠らしい頂上に着くが
途中、川のせせらぎが徐々に小さくなり、水かさも少なくなり
そのかわり、小鳥の鳴き声がだんだんと大きくなったのを覚えている。
何が一瞬歴史の谷間にタイムスリップしたような雰囲気を感じた坂であった。
詩人だぁ(あはは・・・)
石碑と脇の滝
この滝がなかなか風情があり いい感じ
朝比奈 石碑 滝
ここを先に登って行けば切通 峠
雨上がりでぬかるんでる(泣)
朝比奈 階段
徐々に階段がゆるくなってるかな
朝比奈 ゆるいかいだん
ここが頂上!
朝比奈切通 ゴール
こちらもゴール
朝比奈 切通 ゴール2
熊野神社?
こんなところに神社あったんだね
朝比奈 標識
なるほど
表札
朝比奈 熊野神社 表札
さあ、朝比奈を制覇したぞ
戻ろう
.
.
.
何とか無事
朝比奈 戻りました(汗)
朝比奈 戻り アジサイ
標識
朝比奈 標識
栗の花も満開
たくさん咲いてた
十二所 栗の花
ここからは しばし川底を覗いて
いたいた
滑川の鯉 見つけた
滑川 鯉
たくさんの鯉
これも 鯉
滑川 こい
人懐こい 鯉?
こっちもかわいらしい
滑川 こいです
滑川を後にして
街?中方面
八幡様脇まで 戻り
筋替橋
筋替橋 (すじかえばし)
(石碑説明)
鎌倉十橋のひとつです。
1247年6月に三浦康村(やすむら)一族が反乱した際
北条時頼の外祖(母方の祖父)たる安達景盛(あだちかげもり)は
その一族と共に兵を率(ひき)いて、この橋の北の辺りに集まり
康村の屋敷を攻めたことが吾妻鑑(あずまかがみ)に記してます。
また鎌倉に於ける商家の営業地域を数か所に限定するという告知書が
1265年3月に出され、そこに「須地賀江(すじかえ)橋」と書いてあり
この付近のことです。
位置:雪ノ下2-4-2付近で,コンビニampmとのT字路交差点の西北部に建つ
★ここは川が無いんだけど・・・・橋って当時は川が流れてたのかな?
こんどは
宝戒寺方面へ
土佐坊昌俊邸址
土佐坊昌俊邸址 (とさぼうまさとしていあと)
(石碑説明)
土佐坊昌利は、
堀川の館にいる源義経(よしつね)を夜襲したが、逆に討死した。
吾妻鑑によると、この事が次のように書かれています。
義経を討つ者を募っているとき、みんな辞退したい気持ちであったところに
この土佐昌俊が進んで引き受ける旨申し上げると、頼朝は、大層喜びました。
そして、出発の間際に頼朝の前に参り、自分には年老いた母や幼い子供たちがおり
下野(しもつけ:群馬)の国に残して行くので、 もしもの事があれば情けを掛けて
やって欲しい旨申しあげた、などと書かれています。
一度行けば、帰ってこれないと言う、悲壮な覚悟で門出した武士の屋敷が在ったのは
この場所です。
位置:雪ノ下1-14-24付近の邸宅入り口の右側で,宝戒寺の南西30メートルに建つ。
★なんと、義経を討とうとして亡くなったのかぁ。
それも頼朝に募られたほとんどが辞退している中、暗殺者として手を挙げ
そして、討死したんだ・・・。 歴史の一瞬がここに殘っている。
今日はここまでかな?
さてと おんめさま
お参りして 戻ろう
あじさい 今が盛り
おんめさま あじさい
これも白いあじさい
おんめさま あじあい
これは綺麗な花を楽しませてくれた
しちまひょうたんぼくの赤い実
かわいい
しちまひょうたんぼく実
おんめさまの
自慢のアジサイ ショット?
おんめさま あじさい
このアジサイには
名前がつていた
隅田の花
隅田のはな
まわりはアジサイ畑の様
しばし
あじさいをめでました
おんめさま あじさい
おんめさま あじさいいっぱい
最後は海岸まで ラン!
暫く海岸方面に行くと
東京ガスショップ前
お花の販売してる
日日草 あとで買いにこよう
お花売り場
さあ、由比ヶ浜まで到着
滑川 終着点
滑川 海
道路から海 望む
海岸 134号
さあ、戻ろう
途中 和田塚
和田塚
ここは石碑はありません
ここから 一気に加速して(汗)
戻りました
寿福寺
寿福寺
さてさて
タイムはなんぼかな(汗)
タイム
石碑巡り 13か所して・・・
距離はそこそこか
でも
だんだん タイム悪くなってるなぁ
まあ、継続は力なりだ
来週もフルマラソン完走 めざすぞぞぉ
(石碑出典:鎌倉史跡碑)
☆☆ あなたのシニアライフは豊かになりますか? ☆☆
■2015/06/13 ラン
本格的に梅雨入りして 初めてのラン
運よく 曇り空 ランニングにはちょうどいい天気
今週も石碑 めぐり と
アジサイ 散策 ラン スタート!
その前に葛原神社のアジサイと石碑を少し・・・
前日の夕方、葛原ヶ岡神社へワン散歩に出かけた際
石碑を巡ったので ここにアップしてみました。
愛犬夕散歩
愛犬と夕方散歩に出かけた際
小路で見つけたアジサイ
小路アジサイ
これから本格的な季節
観光客もどんどん増えて
色とりどりアジサイ達 目を楽しませてくれます
葛原神社
葛原が岡神社前の池の端に 偶然見つけた草亀
こんなのを甲羅干しっていうんだね。
人にもなついている様子(にこ)
草亀
葛原神社の手前 右の石碑
藤原仲能之墓
藤原仲能之墓(ふじわらなかよし・のはか)
(石碑説明)
この場所は、道智(どうち)の塚または阿古耶尼(あこやに)の塚であると伝えられていますが
海蔵寺の伝えによりますと、藤原仲能(なかよし)の墓と考えられます。
仲能は、鎌倉幕府の重臣でしたが、その後、海蔵寺の発展に尽くしました。
1256年12月9日に亡くなり、道智禅師と言われその位牌がこの寺に現存している。
位置:梶原5-9-1 源氏山葛原神社の社務所の東方20メートルに建つ。
======== ここから ラン記です(汗) ========
まずは、いつもの準備体操
一通りのストレッチ済ませて さあ スタート (7:46)
今日も石碑めぐりするつもりで 走り出した
扇川の土手 ここにもホタルフクロが 勢いよく咲いてい
今年もホタルが夜光った。
扇川の土手 ほたるふくろ
亀が谷坂の下り 土手にきれいなアジサイ
亀が谷坂あじさい
しばし見とれてシャッター!
亀が谷坂 あじさい
これもきれいなアジサイだ
これも亀が谷坂 あじさい
さあ、進もう!
こぶくろ洞を過ぎた処
しばらくすると、足元におびただしい実が落ちていた
これは 桑の実かな?
食べたら美味しそう(笑)
でも、こちらのお宅は食べないのかな?
ジャムにすれば、いいのに
八幡裏 桑の実
まずはお参り
曇り空の八幡様 本殿前
きょうは梅雨入りして 最初に週末
なんとか 雨には合わないで 走れそうだ
本殿前
本殿を下る途中
右側に すくすく育つ 復活銀杏
復活銀杏
さてと どこまで行こうか
今日も東を攻めよう
どこまでいけるかな?
どの程度の石碑があるのか?
途中、Iphoneで調べよう
なるほど、いろいろありそうだ。
まずは 東御門 チェック
東御門 (ひがしみかど)
(石碑説明)
大倉(大蔵)御所は、大倉(大蔵)幕府ともいい、
頼朝が政治を行っていたところ。御所・幕府には、四つの門があり
名前はその方位で付けていた。
東にあるものを東御門といい、現在は地名になっている。
法華堂の東の方向一帯の地域をいいます。
位置:西御門2-8-14付近で,荏柄天神の西南120メートルに建つ。
★東西南北か? 東と西の 御門見つけたけど・・・?
少し調べてみたが・・・
南御門は畠山重忠邸石碑の在る辺りらしいが
北御門は当時は御所の北方角にあったようだが石碑などは残っていないようだ。
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鎌倉幕府(大倉幕府)の南門。
源頼朝墓の参道と六浦道が交わる辺りを南御門といっていた。
南御門には、畠山重忠邸があったといわれ、
源頼朝の二女三幡が病気にかかったときに、
京都から呼び寄せられた名医丹波時長が滞在していたといわれている。
\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
これは近くの小学校生徒が作った案内。
東御門説明
次は 学問の神様
荏柄天神
荏柄天神 (えがらてんじん)
(石碑説明)
古い辞書「和名鈔」に「柄草」という地名があります。
現在はないようだがこの神社付近の昔の名前らしい。
草の字はカヤと読め、エカヤがエガヤになり、
後に文字を今のように当てたものと推測される。
神社の前の松並木を昔は馬場といった。
この社には菅原道真が祭ってあるが、建てられた年代は不明。
源頼朝が初めて大蔵幕府を建設する時、この社を鬼門の鎮守にした。
それ以降の歴代将軍も この神社を大切に保護した。
1548年に北条氏康(うじやす)は社の前に関所を設け、
通行税を取り、神社修復の費用に当てた。
江戸時代には、鶴岡八幡宮の工事ある毎に余った木材等を使用して、
この社の修造を行うのが例になっていたようだ。
位置:二階堂74,荏柄天神の参道の鳥 居の左側に建つ
★受験シーズンになると入学祈願の絵札
が神社の境内に掲げられているのを見かけます。
この標識 なにやらたくさんの史跡案内があります
さて、つぎはどこに向かおうか
荏柄神社標識
しばらく また 東へ向かい
204号線に出た・・・
そうだ、どうせなら一番東は 朝比奈だ
金沢鎌倉線 朝比奈へ抜ける道まで行こう
途中の川沿いにきれいなユリ
梅雨時 ユリの咲く時期なんだ
川沿い黄色ユリ
これは滑川の支流かな
こんな川があちこちにあるね
良く似た風景を見かける
川沿い
ここでも きれいな 額アジサイを見つけたので パシャ!
あじさいのオンパレードで すみません・・・(汗)
あじさい
204号線沿の脇にちょこんと鎮座している石碑 発見
道路は車が通って少し危なそうな場所にある
歌之橋とは おしゃれな橋名だが・・・
歌之橋 (うたのはし)
(石碑説明)
こちらは鎌倉十橋のひとつ
1213年2月に渋川刑部六郎兼守(かねもり)が
謀反の疑いで処刑されそうになったとき
無実の思いを十首の和歌にこめて荏柄天神に納めた。
翌朝、将軍の実朝は、その歌を聞いて感動して罪をゆるした。
兼守は神に感謝して、そのお礼としてここに橋を造り納めた。
これがこの橋の名の由来です。
位置:二階堂935、邸宅の南西端で,金沢街道に架かる歌の橋の東北端に建つ
★源と北条の争い、生き死にを分けた和歌かぁ・・・。
これ 歌之橋のかかる二階堂川 趣のある橋だ
歌之橋
川の向こうを眺めると鬱蒼とした竹林
下には小さな川の流れが静かだ
二階堂川
続いて 先へ行くと
文覚上人屋敷迹 石碑
文覚上人屋敷迹 (もんがくしょうにんやしきあと)
(石碑説明)
文覚上人の出家前の名は遠藤盛遠(もりとお)といい
以前は院の警備をしていましたが、18歳の時に
源渡(みなもとのわたる)の妻袈裟御前(けさのごぜん)に想いをよせ
源渡を殺そうとして、間違って袈裟御前を殺してしまいました。
これを深く後悔して僧となりました。
その修行の仕方は大変なもので、凍える日も、真夏の暑い日も草原で寝
日々滝に打たれて何度も死にそうになったといいます。
1182年4月、源頼朝の本願として江ノ島に弁財天を建て
ここで三十七日の間、飲まず食わずで祈りつづけたといわれています。
この場所がその文覚が住んでいた屋敷の跡です。
位置:雪ノ下4-4-32 金沢街道から大御堂橋を渡るとすぐT字路に当る,
その交差点の右側に建つ。
★平安後期から鎌倉時代初期に登場する僧侶
僧侶になった経緯がなんとも・・・。そこまでするか?
石碑の脇には品の良い趣のアジサイが咲いていた
文覚上人屋敷迹
浄明寺の近く
先へ進むと
杉朝宗及氏憲邸址
上杉朝宗及氏憲邸址 (うえすぎともむね・および・うじのりていあと)
(石碑説明)
上杉朝宗は、足利氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)に仕え
出家してからは禅助(ぜんすけ)と言いました。
当時の人は、犬懸(いぬかけ)の管領(かんれい:将軍代理職)と言いました。
その子の氏憲(うじのり)が跡を継いで持氏(もちうじ)の許で事務を取り仕切り
出家してからは名前を禅秀(ぜんしゅう)と言いました。
しかし、持氏と仲たがいになり
1416年に、氏憲は持氏の叔父の満隆(みつたか)と共に計画して
満仲に奉じて兵を起そうとしたが失敗した。
翌年1月に、一味と共に雪ノ下の鶴岡別当坊にて自殺した。
ここはその屋敷があった場所です。
位置:犬懸橋を渡り150メートル南下すると十字路に出る。その西南部に建つ。
★ここでも血の繋がりのある親戚同士の争い事の名残だ
ここからは 朝比奈切通しまで 頑張れそうだ
この標識?
どちらかなぁ
ちょっぴり薄汚れた標識
残念だ
標識
これ知らなかった!
田楽辻子(でんがくずし)のみち由来
田楽師が住んでいた小路(十字路)を辻といったそうで
吾妻鏡などの田楽にまつわる記事に基づいて現在の道筋をたどると
筋替橋を起点として宝戒寺裏から滑川を渉り、大御堂ケ谷・釈迦堂ケ谷
の入口をへて宅間ケ谷に出て六浦と合流する小路と考えられる。
と記されてる(汗)
田楽辻子
つづいて青砥・・・
報国寺の前からさらに金沢街道を行くと青砥橋という滑川に架かる橋があり
渡って少し入ると住宅街の中に青砥藤綱邸旧蹟の石碑が建ってた
青砥藤綱邸旧蹟 (あおとふじつなていきゅうせき)
(石碑説明)
鎌倉の将軍の善い行いを言う時、
概ね先ず、北条時頼(ときより)、北条時宗(ときむね)の名前がでる。
しかしその間にあって、両将軍に仕えた青砥藤綱の業績が
大きく貢献していることが少なからずある。
その藤綱には、多くに逸話があり、ある夜のこと
滑川(なめりがわ)を渡るとき
誤ってお金十文(じゅうもん)を川に落としてしまいました。
そこで、五十文でたいまつを買って、
水を照らしてお金を探したと言う話は、特に多くの人が話題にした。
この場所は、その藤綱の屋敷の跡であると伝えられています。
位置:浄明寺5-2-451の邸宅の南東端で,青砥橋を渡って20メートル進んで右側に建つ。
★川に落とした十文を探すため五十文を費やした・・・で、見つかったんだろうか?
つづいて また反対側の道側を走り始めると
梅の実が落っこちていた。
梅酒作りののシーズンがやってきた。
もちろん、この実は使われないでしょう(汗)
梅の実
今度は足利だ
足利公方邸旧蹟
足利公方邸旧蹟 (あしかがくぼうていあと)
(石碑説明)
足利義兼(よしかね)が源頼朝が幕府を開いた時、この場所に家を定めました。
その後二百数十年間、この地に子孫が代々住み、足利尊氏(たかうじ)が権力を握り
京都に移った後に、その子の義詮(よしあきら)が二代将軍となって
京都の家を継ぎました。そして義詮の弟の基氏(もとうじ)が関東管領となって、
軍の指揮をこの家からとりました。こうして、足利家は子孫に引き継がれました。
子孫は京都にならって、公方(こぼう)と名乗っておりました。
1455年に公方成氏(なりうじ)は、執事上杉憲忠(のりただ)と仲たがいし
下総(茨城)の古河(こが)に移ったために、遂に永く廃虚となる。
位置:浄明寺4-2-25の邸宅の東北端で
虹の橋の東北側の路地を10メートル入った左側に建つ。
つづいて 浄明寺付近・・・・
途中のお宅玄関先になんと可愛らしい 傘立て?かな
おもわずパシャ! 失礼(汗)
玄関先のバラとマッチしていたo(^◇^)o
かわいい傘立て
先を進み 橋を渡ると
ここも滑川にかかる橋なんだ
泉水ばし
橋の向こう側には重厚な感じで滑川と記されてる
滑川
十二所(じゅうにそう)を進む
つづいては大慈寺跡
大慈寺址 (だいじじあと)
(石碑説明)
大慈寺は、1212年に、源実朝(さねとも)が創建し別前を新御堂(しんみどう)と言う。
1214年7月27日に、大供養が行われ、頼朝の妻の政子と将軍実朝が格式高く参列した。
その後1257年に将軍宗尊(むねたか)親王の時本堂、丈六(じょうろく)堂
新阿弥陀(しんあみだ)堂、釈迦(しゃか)堂、三重の塔、鐘楼(しょうろう)など
ことごとく修理を加えられ、その美しさは、ほとんど前の建物以上であると
吾妻鑑に記してある。当時の素晴らしさが目に浮かぶであろう。その後740年過ぎた現在
一片の礎石(そせき)をも見ることがない。本当に時代の変化の大きさには驚かされる。
位置:十二所66付近で、同地の邸宅の西南に在り
明石橋から東方へ30へメートル進み、左折40メートルの交差点の右側に建つ。
十二所界隈のあじさい
きれいだ
白アジサイ
次はサンフレッチェの元祖?!
大江広元邸址
大江広元邸址 (おおえひろもとていあと)
(石碑説明)
大江氏は、代々学門の家柄です。
大江匡房(まさふさ)はそのむかし源義家に、兵法を教えたといわれており
大江広元は匡房のひまごにあたる。広元は頼朝に招かれて鎌倉に来てからは
常に政治の中央におり 幕府を創るに当たり功績は広元による所が大きいと
いわれている。そして相模の毛利に領地をもらって、毛利を名乗った。
しかし皮肉にもこの鎌倉幕府を創った功績者の子孫は、700年後の明治維新の時
天皇制の復活運動に活躍した。この場所がその毛利の先祖の家の跡です。
位置:十二所921の邸宅の西北端
明石橋の傍にあるGS北側を70メートル行った右側に建つ。
★広島の毛利、長州のルールはここにあったんだ!!
驚きの発見でした(^0^)
またまた、きれいなアジサイ
十二所あじさい
山百合も見事!
山百合
やまゆり
きれいいだ
ここにもアジサイ
十二所あじさい
いろとりどいの色彩
さらにあじさい
十二所あじさいだ
ついに朝比奈入口だ
朝比奈切通をここから登っていきます
沢の水が道中を流れている
朝比奈溝
沢の水が溜まっている
朝比奈 川だまり
朝夷奈切通 朝比奈表札発見
ここからさらに先かぁ すこし薄暗いな
でも進もう
案内がしっかりでてるけど
石碑はどこかな?
表札
在りました 見つけた
朝比奈切通 石碑
朝夷奈切通 (あさひなきりどうし)
(石碑説明)
この坂は、鎌倉七口(ななくち)のひとつです。
鎌倉より六浦を結ぶ重要な道で、大切通(おおきりどうし)
小切通(こきりどうし)の二つがあります。
民話では、朝夷奈義秀(あさひなよしひで)が、一夜の内に切り抜いたので
その名前が付いたと伝えられている。吾妻鑑によると、1240年11月に
鎌倉六浦間の道路を切開くことが決まり1241年4月に、工事が開始され
執権北条泰時(やすとき)もそこに出かけて監督しており、多くの人が集められ
土や石を運ぶのを見たと記されてる。
従ってこの切通は、その時に開通したものと思われる。
位置:十二所バス停の少し北から,金沢街道の東側に沿って
北に向かう道が在り,その道を約600メートル進むとY字路に出る
其の交差点の崖上に建つ.なお切通は川に沿って登る方向になる。
★かなりの距離をのぼると峠らしい頂上に着くが
途中、川のせせらぎが徐々に小さくなり、水かさも少なくなり
そのかわり、小鳥の鳴き声がだんだんと大きくなったのを覚えている。
何が一瞬歴史の谷間にタイムスリップしたような雰囲気を感じた坂であった。
詩人だぁ(あはは・・・)
石碑と脇の滝
この滝がなかなか風情があり いい感じ
朝比奈 石碑 滝
ここを先に登って行けば切通 峠
雨上がりでぬかるんでる(泣)
朝比奈 階段
徐々に階段がゆるくなってるかな
朝比奈 ゆるいかいだん
ここが頂上!
朝比奈切通 ゴール
こちらもゴール
朝比奈 切通 ゴール2
熊野神社?
こんなところに神社あったんだね
朝比奈 標識
なるほど
表札
朝比奈 熊野神社 表札
さあ、朝比奈を制覇したぞ
戻ろう
.
.
.
何とか無事
朝比奈 戻りました(汗)
朝比奈 戻り アジサイ
標識
朝比奈 標識
栗の花も満開
たくさん咲いてた
十二所 栗の花
ここからは しばし川底を覗いて
いたいた
滑川の鯉 見つけた
滑川 鯉
たくさんの鯉
これも 鯉
滑川 こい
人懐こい 鯉?
こっちもかわいらしい
滑川 こいです
滑川を後にして
街?中方面
八幡様脇まで 戻り
筋替橋
筋替橋 (すじかえばし)
(石碑説明)
鎌倉十橋のひとつです。
1247年6月に三浦康村(やすむら)一族が反乱した際
北条時頼の外祖(母方の祖父)たる安達景盛(あだちかげもり)は
その一族と共に兵を率(ひき)いて、この橋の北の辺りに集まり
康村の屋敷を攻めたことが吾妻鑑(あずまかがみ)に記してます。
また鎌倉に於ける商家の営業地域を数か所に限定するという告知書が
1265年3月に出され、そこに「須地賀江(すじかえ)橋」と書いてあり
この付近のことです。
位置:雪ノ下2-4-2付近で,コンビニampmとのT字路交差点の西北部に建つ
★ここは川が無いんだけど・・・・橋って当時は川が流れてたのかな?
こんどは
宝戒寺方面へ
土佐坊昌俊邸址
土佐坊昌俊邸址 (とさぼうまさとしていあと)
(石碑説明)
土佐坊昌利は、
堀川の館にいる源義経(よしつね)を夜襲したが、逆に討死した。
吾妻鑑によると、この事が次のように書かれています。
義経を討つ者を募っているとき、みんな辞退したい気持ちであったところに
この土佐昌俊が進んで引き受ける旨申し上げると、頼朝は、大層喜びました。
そして、出発の間際に頼朝の前に参り、自分には年老いた母や幼い子供たちがおり
下野(しもつけ:群馬)の国に残して行くので、 もしもの事があれば情けを掛けて
やって欲しい旨申しあげた、などと書かれています。
一度行けば、帰ってこれないと言う、悲壮な覚悟で門出した武士の屋敷が在ったのは
この場所です。
位置:雪ノ下1-14-24付近の邸宅入り口の右側で,宝戒寺の南西30メートルに建つ。
★なんと、義経を討とうとして亡くなったのかぁ。
それも頼朝に募られたほとんどが辞退している中、暗殺者として手を挙げ
そして、討死したんだ・・・。 歴史の一瞬がここに殘っている。
今日はここまでかな?
さてと おんめさま
お参りして 戻ろう
あじさい 今が盛り
おんめさま あじさい
これも白いあじさい
おんめさま あじあい
これは綺麗な花を楽しませてくれた
しちまひょうたんぼくの赤い実
かわいい
しちまひょうたんぼく実
おんめさまの
自慢のアジサイ ショット?
おんめさま あじさい
このアジサイには
名前がつていた
隅田の花
隅田のはな
まわりはアジサイ畑の様
しばし
あじさいをめでました
おんめさま あじさい
おんめさま あじさいいっぱい
最後は海岸まで ラン!
暫く海岸方面に行くと
東京ガスショップ前
お花の販売してる
日日草 あとで買いにこよう
お花売り場
さあ、由比ヶ浜まで到着
滑川 終着点
滑川 海
道路から海 望む
海岸 134号
さあ、戻ろう
途中 和田塚
和田塚
ここは石碑はありません
ここから 一気に加速して(汗)
戻りました
寿福寺
寿福寺
さてさて
タイムはなんぼかな(汗)
タイム
石碑巡り 13か所して・・・
距離はそこそこか
でも
だんだん タイム悪くなってるなぁ
まあ、継続は力なりだ
来週もフルマラソン完走 めざすぞぞぉ
(石碑出典:鎌倉史跡碑)
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