☆☆ あなたのシニアライフは豊かになりますか? ☆☆
■2015/06/7 ラン
6月最初のランニング
今日も石碑巡りスタート
まずはいつもの準備運動をしてから開始
亀ヶ谷坂手前で
白のホタル袋が自然に咲いていた!
ホタル袋白
亀ヶ谷の下り坂 右の土手に咲くアジサイも ちょうど見頃
亀ヶ谷アジサイ
この額あじさい きれいだ
亀ヶ谷あじさい
巨福呂坂を下った処
欧林洞(ケーキ屋)さん
ここのあじさいもいいね
欧林洞あじさい
八幡様の裏手 休憩所の下
ガクアジサイが鮮やかだ
今はどこへ回っても 紫陽花だ
八幡裏休憩所 あじさい
まずはいつものお参り
今日は天気がいい!
八幡本殿前
今日も東に向かおう
八幡様のすぐ横手
大蔵幕府旧蹟 (おおくらばくふきゅうせき)
大蔵幕府旧蹟 (おおくらばくふきゅうせき)
(石碑説明)
今から820年前の1180年に、源頼朝がこの場所に屋敷を建て
権力を得てから後には政治を屋敷内で行った。
いわゆるこれが大蔵幕府。
それ以後、頼家(よりいえ)、実朝(さねとも)と続き、
この場所が幕府の中心であり、46年間の大蔵幕府。
位置:雪ノ下3-11-45清泉小学校の南西端で、頼朝の墓所から南方200メートルに建つ
★当時の屋敷は政治をつかさどるほどの広さがあったのだろうか?
さらに東に向かう
法華堂跡 (ほっけどうあと)
法華堂跡 (ほっけどうあと)
(石碑説明)
法華堂は、もと頼朝の守り本尊を祭っていたが頼朝の死後その墓になった。
1217年5月に、和田義盛(よしもり)が、反乱を起こし幕府に火を放った時
将軍実朝(さねとも)が避難したのがこの場所。
また1247年6月5日に、 三浦康村(やすむら)がここにこもり、北条軍を迎え撃ったが
刀折れ矢尽きて一族そろって500人ばかり自殺し、庭一面を赤黒色に染めた場所でもある。
位置:西御門2-5-1付近で,頼朝の墓所階段上がり口の左側に建つ。
★鎌倉時代から後期は武士の世の中
血なまぐさく、混沌とした世の中だったろう(泣)
少し進むと
頼朝さんのお墓だ
頼朝墓
こんな案内も出てます
頼朝墓案内
続いて
西御門 (にしみかど)
西御門 (にしみかど)
(石碑説明)
西御門は、法華堂(ほっけどう)の西の方の土地を言い
大蔵幕府の西門の前面に当たるため、この名前が付いている。
この地域には、報恩寺(ほうおんじ)、保寿院(ほじゅいん)、
高松寺(こうしょうじ)、来迎寺(らいごうじ)等がありました。
現在は来迎寺のみが存在している。
位置:西御門2-1-11付近で、頼朝の墓所より西南120メートルのところに位置
T字路交差点の西南部に建つ。
★次に訪れる大平寺の隣が来迎寺だよ・・・・。
ここにもきれいなあじさい
西御門のあじさい
これも西御門あじさい
ここから 来迎寺横の石碑まで行きます
西御門あじさいです
途中に
作家 里見弴さんの旧屋敷 案内 発見
里見 弴
西御門サローネっていうそうです
里見さんが自ら設計して昭和11年まで住んでいて
特別に公開することもある
現在は石川さん宅
里見弴旧屋敷
たしか扇ガ谷にも里見さんのそれ以前の旧宅がありましたが
もう、面影はありません(残念)
先を進もう この右に来迎寺
来迎寺横
到着 来迎寺
案内の後ろに石碑を発見
来迎寺前
太平寺跡 (たいへいじあと)
太平寺跡 (たいへいじあと)
(石碑説明)
太平寺は代々比企一族の尼寺でした。
源頼朝が池禅尼(いけのぜんに)の昔の恩義に報いるため
その姪ために建てさせたといわれてます。
足利の時代、官領(かんれい)基氏(もとうじ)の子孫である
清渓尼(せいけいに)が、さらに発展させた。
しかし天文(1532‐1555年)の時、千葉の里見氏が鎌倉を攻め
青岳尼を房州(ぼうしゅう:千葉南部)に連れ去ってからは
とうとう廃止になりました。
その後1644年に、紀州徳川家の家老水野氏が
太平寺跡に高松寺を建てたものです。
現在はそれもありません。
位置:西御門1-11-1来迎寺の門前の左の空き地に建つ。
★尼寺と言えば現存する唯一は英勝寺さんですね。
さて、これからは材木座方面に行こう
こちらのお宅
玄関先のアジサイがいい雰囲気だ
玄関先あじさい
まずは有名な辻説法跡
日蓮聖人辻説法之址 (にちれんしょうにんつじせっぽうのあと)
日蓮聖人辻説法之址 (にちれんしょうにんつじせっぽうのあと)
(石碑説明)
この辺りは屋敷町と商家町との間にあって幕府に近いことから大変にぎわっていた場所
1253年5月、日蓮聖人が房州(千葉県南部)から鎌倉に来て松葉が谷(まつばがやつ)に住み
民衆への布教のため、 毎日のようにこの辺りの道端に立って大声を張り上げていた場所
であるといわれてます。一般に辻説法の跡。
位置:小町2-22-11付近で小町大路に建つ。
★当時は飢饉などで生活が荒んでいたようで説法に縋る群衆もいたのかな?
辻説法案内もすぐ横に
辻説法案内
さてと 少し進んでおんめさままで来た
いつものようにお参りしていこう
ザクロの花が鮮やかだった
おんめさま ざくろ花
つぎは本覚寺前
すぐ前の滑川に係る橋
夷堂橋(えびすどうばし)
夷堂橋(えびすどうばし)
(石碑説明)
この橋は鎌倉十橋のひとつ。 ここには昔夷堂があったとのこと。
この川は現在は滑(なめり)川といいますが
昔は場所によって多くの呼び名があり
上流では胡桃(くるみ)川、浄明寺門前では滑川、
文覚 (もんがく)屋敷跡の辺りでは坐禅(ざぜん)川と
この辺りでは夷堂川と呼び、延命寺の辺りはスミウリ川
閻魔(えんま)堂跡の辺は閻魔堂川といったようだ。
位置:小町1-12-12の本覚寺山門前と 夷堂橋(えびすどうばし)の間 に建つ
へーーーーっ面白いね
なぜだろう
当時は川の名前などは統一して管理してなかったんだろうね
手前の欄干にはえびすばし
えびすばし
このずっと奥に妙本寺
山門の中にはひきがやつ幼稚園がある
八幡様の境内にも幼稚園があるんですね
この辺りはお寺や神社にお子さんの施設が併設している
妙本寺山門前
山門手前に右に石碑を見つけました
比企能員邸址 (ひきよしかずていあと)
比企能員邸址 (ひきよしかずていあと)
(石碑説明)
比企能員(よしかず)は
源頼朝の乳母(うば)であった比企禅尼(ぜんに)の養子であり
禅尼と共にこの場所に住んでいた。
この土地の名前が、比企ヶ谷(ひきがやつ)というのもこのため。
能員の娘は頼家の妻になり、 若狭局(わかさのつぼね)とよばれて
一幡(いちまん)という子供を生みました。
1203年頼家が病で倒れると、母親でもあり、頼朝の妻でもある政子が
頼家の権力を2分して、頼家の弟千幡(せんまん)に渡そうとしました。
このことに能員が怒り、 ひそかに北条氏を滅ぼそうと計画した。
しかし、逆に北条方に覚られ、比企一族はこの地で滅ぼされた。
位置:大町1-15-1妙本寺山門の前の右側に建つ。
★親兄弟の争う歴史は繰り返されるんだろうか?
今の世はつくずく太平な時代だ(合掌)
山門にはりっぱな 妙本寺 山号
妙本寺 山号
アジサイがいい感じで咲いてた
振り向くと遠くに妙本寺山門が見える
妙本寺手前 あじさい
ここからは大町方面へ
途中の大町踏切を渡って すこし行くと
WATO(お店)のウインドウがセンスいいな
WATO
WATO2
WATO3
踏切渡り材木座に入り
さらにすこし進むと在りました
道路脇に ひっそりと乱橋の石碑
乱橋 (みだればし)
(石碑説明)
この橋は鎌倉十橋のひとつ。
その名を乱橋または濫橋と書く石橋です。
この橋の南の方に連理(れんり)木があって有名でした。
吾妻鑑によると、1248年6月の記録に18日の午前4時頃
濫橋の辺に雪が降りまわりは霜のように白くなった、と書いてます。
辻町と材木座との間の細流に架かる逆川橋も十橋のひとつ。
位置:材木座3-15-6付近で水道橋交差点から南130メートルの西側に建つ。
★雪、霜 縁起のよい連理木など情緒あるところかな・・・
乱とか濫などはかなり勢いのありそうな文字だが・・・
ちなみに、次の鎌倉十橋(こんど、制覇しよう!!)
歌ノ橋
夷堂橋○
筋違橋
琵琶橋
逆川橋→今さっき通過したようだ・・・見逃した(泣)
乱橋(濫橋)○
針磨橋 ●→これは後程
裁許橋
勝ノ橋
十王堂橋
今日は3つ制覇!
あと、7つだ
続いて進んでいくと・・・
そうか、夏祭りシーズンだ
子供神輿のお知らせ
最近、子供が増えているような気がするけど
どうなんだろう
老人(自分も含め)の町だけど・・・・(笑)
神輿案内
材木座 本物 夏だ!
五所神社例大祭(13,14)
ここの祭りは大変な賑わいになります。
御神輿
ここから 先に進むと 蕎麦処 土手が見えた
こちらの提灯もいいね
祭りまじかの雰囲気を出して 準備万端
土手 提灯
材木座海岸
こちら方面の目的地 到着だ
和賀江島 石碑
和賀江島 (わがえじま)
(石碑説明)
和賀とは、現在の材木座の昔の名前。
この場所は昔、木材の集散する港であったために
まもなく現在の名前が付くようになった。
和賀江島は、その和賀の港の崩れるのを防ぐために築いた堤を言う。
今から約780年前の1232年の昔に、僧侶の往阿弥陀仏(おうあみだぶつ)が
構築を申し出たのを平盛綱(もりつな)がこの工事を援助し
7月15日に起工し、8月9日に完成させる事ができたそうです。
位置:材木座6-14-7付近で小坪トンネルに入る手前で海岸へ降りると浜の岩礁に建つ。
★今回、石碑のある海の中まで入れなかったので遠くからの写真
先日のブラタモリでも紹介してましたが、ここの港は1カ月で創られたそうです!
こちらは 遠くに見える 港
和賀の港
港には漁船が静かに停泊している
ほとんどは陸に船は挙げているけど
ここはさすがに港!
港拡大 漁船
遠くから見ると
石碑が海に鎮座してます!
和賀江島
これ以前 ブラタモリで紹介していた
いつ浜辺に繰り出しても こんなのいつも見かけるよ
ここも歴史を感じる瞬間かな
鎌倉時代の素焼き「かわらけ」など陶器破片
ビーチコーミング
いよいよ 夏到来
海の家作りはじまった
海の家
さあてと ここからは
極楽寺経由で稲村ケ崎まで進もう
一気に稲村まで
いつもランニングで 通り過ぎしていたけど
「はりま」 じゃなくて 「はりすり」 なんだ
ここもちっちゃな川なんだけど たくさん 川と橋があるね
針磨橋
針磨橋 (はりすりばし)
(石碑説明)
この橋は鎌倉十橋のひとつ。
昔この付近に、鉄を砥いで針に仕上げることを商売にしている
職人が住んでいたので、この名前が付けられたようです。
位置:極楽寺3-11-19付近で雑貨屋前の十字路の西南脇に建つ。
★極楽寺駅を稲村方面へすこし進んだところにあります。
稲村ケ崎に到着
信号の向こうは稲村海岸
稲村海岸前
久しぶりに ここの砂浜に降りてみた
すこし 曇りだ
稲村海岸
海岸から稲村ケ崎を見た処
稲村ケ崎
ここは、定番の位置
江ノ島を望む 当然富士は望めない
江の島望む
稲村のはまひるがお
もうそろそろ 見頃もおしまいに近づいている
また 来年、ありがとう
浜昼顔
稲村越えて 坂之下まで戻りました
坂之下海岸
ここもいつも素通りしていたけど
稲瀬川って言うんだ
ほんと、川の名前もたくさんあるなぁ
稲瀬川 (いなのせかわ)
(石碑説明)
万葉集の中に「鎌倉の美奈 能瀬(みなのせ)河」と書いてある川のこと。
源頼朝の妻の政子が、1180年10月の初めての鎌倉入りの時
良い日柄(ひがら)に入るための調整で、数日の間この川辺の民家に滞在している。
頼朝は、1184年に弟の源範頼(のりより)が平家を討つために出発するのを見送ったり
1185年に亡き父源義朝(よしとも)の遺骨を出迎へたのも共にこの川辺です。
1333年に新田義貞軍の大将大舘宗氏(おおだち (又はおおたち)むねうじ)が
この川辺にて討死したのは有名です。
この川の流れは細くとも、多くの物語が秘められています。
位置:長谷2-8-8付近で長谷から由比ヶ浜に注ぐ二つの川のうち,
東側の川の道路上の海側に建つ
★歴史のロマン漂う秘川だ!
さあ ここからは 戻り
長谷方面から 笹目へ向かう
塔之辻 石碑
塔之辻 (とうのつじ)
(石碑説明)
鎌倉の長谷の近くに、佐々目が谷(ささめがやつ)という地区があります。
その東南の方向の道ばたに、古い石の塔が建っています。
辻に塔があるので、塔之辻と言うと伝えています。
その昔、由比の長者時忠(ときただ)の子供が3歳の時、鷲(わし)にさらわれ
追っかけたけれどもつかまらず、両親の悲しみは大変なものでした。
散らばっている肉片などを見つけると、これは我がこの子の骨ではなかろうか
あれは我が子の肉ではなかろうかと、その所々に塔を建てて、供養しました。
それで、鎌倉のあちらこちらに塔の辻と言う所があり
ここもそのひとつであろうといいます。
またある人は、昔の道標であろうと言います。
いずれが本当かは分かりません。
位置:笹目町5-1鎌倉彫寸松堂東北角で
寸松堂の東側の道を30メートル入った左側に建つ。
★鷲に襲われることなんてあるんだ。
今はトンビが観光客の食べ物を襲撃する場面
よく見かけます。ご注意を!
ここから 佐助方面へ向かう
面白い道路脇の街路樹にミラー
御成中学通学路
大きな目玉に見えるか?
御成中前
一気にすすみ
本日のゴール(勝手に決めた) 英勝寺前
英勝寺前
今日のタイム 17.18km 7:59(時間/km)
まずますか・・・
最近の石碑めぐりは うろうろ 石碑探しで時間ロスするね
(言い訳か!)
本日のタイム
おおぎがや掲示板に槐の会 写真募集かぁ
面白そうだな
でも
よく見ると とてもこんなきれいな写真とれないやぁ
鑑賞に回ろう(泣)
八幡様槐の会 写真募集
最後は近所のカラフルなあじさい
青空に映えて 清々しい。
いろとりどり紫陽花
鎌倉の石碑は総じて 悲しい出来事が多いような気がした(悲)
今日は12石碑をチェック!
また、次も石碑を捜そう
めざすぞ、フルマラソン完走!!!!
(石碑出典:鎌倉史跡碑)
☆☆ あなたのシニアライフは豊かになりますか? ☆☆
■2015/06/7 ラン
6月最初のランニング
今日も石碑巡りスタート
まずはいつもの準備運動をしてから開始
亀ヶ谷坂手前で
白のホタル袋が自然に咲いていた!
ホタル袋白
亀ヶ谷の下り坂 右の土手に咲くアジサイも ちょうど見頃
亀ヶ谷アジサイ
この額あじさい きれいだ
亀ヶ谷あじさい
巨福呂坂を下った処
欧林洞(ケーキ屋)さん
ここのあじさいもいいね
欧林洞あじさい
八幡様の裏手 休憩所の下
ガクアジサイが鮮やかだ
今はどこへ回っても 紫陽花だ
八幡裏休憩所 あじさい
まずはいつものお参り
今日は天気がいい!
八幡本殿前
今日も東に向かおう
八幡様のすぐ横手
大蔵幕府旧蹟 (おおくらばくふきゅうせき)
大蔵幕府旧蹟 (おおくらばくふきゅうせき)
(石碑説明)
今から820年前の1180年に、源頼朝がこの場所に屋敷を建て
権力を得てから後には政治を屋敷内で行った。
いわゆるこれが大蔵幕府。
それ以後、頼家(よりいえ)、実朝(さねとも)と続き、
この場所が幕府の中心であり、46年間の大蔵幕府。
位置:雪ノ下3-11-45清泉小学校の南西端で、頼朝の墓所から南方200メートルに建つ
★当時の屋敷は政治をつかさどるほどの広さがあったのだろうか?
さらに東に向かう
法華堂跡 (ほっけどうあと)
法華堂跡 (ほっけどうあと)
(石碑説明)
法華堂は、もと頼朝の守り本尊を祭っていたが頼朝の死後その墓になった。
1217年5月に、和田義盛(よしもり)が、反乱を起こし幕府に火を放った時
将軍実朝(さねとも)が避難したのがこの場所。
また1247年6月5日に、 三浦康村(やすむら)がここにこもり、北条軍を迎え撃ったが
刀折れ矢尽きて一族そろって500人ばかり自殺し、庭一面を赤黒色に染めた場所でもある。
位置:西御門2-5-1付近で,頼朝の墓所階段上がり口の左側に建つ。
★鎌倉時代から後期は武士の世の中
血なまぐさく、混沌とした世の中だったろう(泣)
少し進むと
頼朝さんのお墓だ
頼朝墓
こんな案内も出てます
頼朝墓案内
続いて
西御門 (にしみかど)
西御門 (にしみかど)
(石碑説明)
西御門は、法華堂(ほっけどう)の西の方の土地を言い
大蔵幕府の西門の前面に当たるため、この名前が付いている。
この地域には、報恩寺(ほうおんじ)、保寿院(ほじゅいん)、
高松寺(こうしょうじ)、来迎寺(らいごうじ)等がありました。
現在は来迎寺のみが存在している。
位置:西御門2-1-11付近で、頼朝の墓所より西南120メートルのところに位置
T字路交差点の西南部に建つ。
★次に訪れる大平寺の隣が来迎寺だよ・・・・。
ここにもきれいなあじさい
西御門のあじさい
これも西御門あじさい
ここから 来迎寺横の石碑まで行きます
西御門あじさいです
途中に
作家 里見弴さんの旧屋敷 案内 発見
里見 弴
西御門サローネっていうそうです
里見さんが自ら設計して昭和11年まで住んでいて
特別に公開することもある
現在は石川さん宅
里見弴旧屋敷
たしか扇ガ谷にも里見さんのそれ以前の旧宅がありましたが
もう、面影はありません(残念)
先を進もう この右に来迎寺
来迎寺横
到着 来迎寺
案内の後ろに石碑を発見
来迎寺前
太平寺跡 (たいへいじあと)
太平寺跡 (たいへいじあと)
(石碑説明)
太平寺は代々比企一族の尼寺でした。
源頼朝が池禅尼(いけのぜんに)の昔の恩義に報いるため
その姪ために建てさせたといわれてます。
足利の時代、官領(かんれい)基氏(もとうじ)の子孫である
清渓尼(せいけいに)が、さらに発展させた。
しかし天文(1532‐1555年)の時、千葉の里見氏が鎌倉を攻め
青岳尼を房州(ぼうしゅう:千葉南部)に連れ去ってからは
とうとう廃止になりました。
その後1644年に、紀州徳川家の家老水野氏が
太平寺跡に高松寺を建てたものです。
現在はそれもありません。
位置:西御門1-11-1来迎寺の門前の左の空き地に建つ。
★尼寺と言えば現存する唯一は英勝寺さんですね。
さて、これからは材木座方面に行こう
こちらのお宅
玄関先のアジサイがいい雰囲気だ
玄関先あじさい
まずは有名な辻説法跡
日蓮聖人辻説法之址 (にちれんしょうにんつじせっぽうのあと)
日蓮聖人辻説法之址 (にちれんしょうにんつじせっぽうのあと)
(石碑説明)
この辺りは屋敷町と商家町との間にあって幕府に近いことから大変にぎわっていた場所
1253年5月、日蓮聖人が房州(千葉県南部)から鎌倉に来て松葉が谷(まつばがやつ)に住み
民衆への布教のため、 毎日のようにこの辺りの道端に立って大声を張り上げていた場所
であるといわれてます。一般に辻説法の跡。
位置:小町2-22-11付近で小町大路に建つ。
★当時は飢饉などで生活が荒んでいたようで説法に縋る群衆もいたのかな?
辻説法案内もすぐ横に
辻説法案内
さてと 少し進んでおんめさままで来た
いつものようにお参りしていこう
ザクロの花が鮮やかだった
おんめさま ざくろ花
つぎは本覚寺前
すぐ前の滑川に係る橋
夷堂橋(えびすどうばし)
夷堂橋(えびすどうばし)
(石碑説明)
この橋は鎌倉十橋のひとつ。 ここには昔夷堂があったとのこと。
この川は現在は滑(なめり)川といいますが
昔は場所によって多くの呼び名があり
上流では胡桃(くるみ)川、浄明寺門前では滑川、
文覚 (もんがく)屋敷跡の辺りでは坐禅(ざぜん)川と
この辺りでは夷堂川と呼び、延命寺の辺りはスミウリ川
閻魔(えんま)堂跡の辺は閻魔堂川といったようだ。
位置:小町1-12-12の本覚寺山門前と 夷堂橋(えびすどうばし)の間 に建つ
へーーーーっ面白いね
なぜだろう
当時は川の名前などは統一して管理してなかったんだろうね
手前の欄干にはえびすばし
えびすばし
このずっと奥に妙本寺
山門の中にはひきがやつ幼稚園がある
八幡様の境内にも幼稚園があるんですね
この辺りはお寺や神社にお子さんの施設が併設している
妙本寺山門前
山門手前に右に石碑を見つけました
比企能員邸址 (ひきよしかずていあと)
比企能員邸址 (ひきよしかずていあと)
(石碑説明)
比企能員(よしかず)は
源頼朝の乳母(うば)であった比企禅尼(ぜんに)の養子であり
禅尼と共にこの場所に住んでいた。
この土地の名前が、比企ヶ谷(ひきがやつ)というのもこのため。
能員の娘は頼家の妻になり、 若狭局(わかさのつぼね)とよばれて
一幡(いちまん)という子供を生みました。
1203年頼家が病で倒れると、母親でもあり、頼朝の妻でもある政子が
頼家の権力を2分して、頼家の弟千幡(せんまん)に渡そうとしました。
このことに能員が怒り、 ひそかに北条氏を滅ぼそうと計画した。
しかし、逆に北条方に覚られ、比企一族はこの地で滅ぼされた。
位置:大町1-15-1妙本寺山門の前の右側に建つ。
★親兄弟の争う歴史は繰り返されるんだろうか?
今の世はつくずく太平な時代だ(合掌)
山門にはりっぱな 妙本寺 山号
妙本寺 山号
アジサイがいい感じで咲いてた
振り向くと遠くに妙本寺山門が見える
妙本寺手前 あじさい
ここからは大町方面へ
途中の大町踏切を渡って すこし行くと
WATO(お店)のウインドウがセンスいいな
WATO
WATO2
WATO3
踏切渡り材木座に入り
さらにすこし進むと在りました
道路脇に ひっそりと乱橋の石碑
乱橋 (みだればし)
(石碑説明)
この橋は鎌倉十橋のひとつ。
その名を乱橋または濫橋と書く石橋です。
この橋の南の方に連理(れんり)木があって有名でした。
吾妻鑑によると、1248年6月の記録に18日の午前4時頃
濫橋の辺に雪が降りまわりは霜のように白くなった、と書いてます。
辻町と材木座との間の細流に架かる逆川橋も十橋のひとつ。
位置:材木座3-15-6付近で水道橋交差点から南130メートルの西側に建つ。
★雪、霜 縁起のよい連理木など情緒あるところかな・・・
乱とか濫などはかなり勢いのありそうな文字だが・・・
ちなみに、次の鎌倉十橋(こんど、制覇しよう!!)
歌ノ橋
夷堂橋○
筋違橋
琵琶橋
逆川橋→今さっき通過したようだ・・・見逃した(泣)
乱橋(濫橋)○
針磨橋 ●→これは後程
裁許橋
勝ノ橋
十王堂橋
今日は3つ制覇!
あと、7つだ
続いて進んでいくと・・・
そうか、夏祭りシーズンだ
子供神輿のお知らせ
最近、子供が増えているような気がするけど
どうなんだろう
老人(自分も含め)の町だけど・・・・(笑)
神輿案内
材木座 本物 夏だ!
五所神社例大祭(13,14)
ここの祭りは大変な賑わいになります。
御神輿
ここから 先に進むと 蕎麦処 土手が見えた
こちらの提灯もいいね
祭りまじかの雰囲気を出して 準備万端
土手 提灯
材木座海岸
こちら方面の目的地 到着だ
和賀江島 石碑
和賀江島 (わがえじま)
(石碑説明)
和賀とは、現在の材木座の昔の名前。
この場所は昔、木材の集散する港であったために
まもなく現在の名前が付くようになった。
和賀江島は、その和賀の港の崩れるのを防ぐために築いた堤を言う。
今から約780年前の1232年の昔に、僧侶の往阿弥陀仏(おうあみだぶつ)が
構築を申し出たのを平盛綱(もりつな)がこの工事を援助し
7月15日に起工し、8月9日に完成させる事ができたそうです。
位置:材木座6-14-7付近で小坪トンネルに入る手前で海岸へ降りると浜の岩礁に建つ。
★今回、石碑のある海の中まで入れなかったので遠くからの写真
先日のブラタモリでも紹介してましたが、ここの港は1カ月で創られたそうです!
こちらは 遠くに見える 港
和賀の港
港には漁船が静かに停泊している
ほとんどは陸に船は挙げているけど
ここはさすがに港!
港拡大 漁船
遠くから見ると
石碑が海に鎮座してます!
和賀江島
これ以前 ブラタモリで紹介していた
いつ浜辺に繰り出しても こんなのいつも見かけるよ
ここも歴史を感じる瞬間かな
鎌倉時代の素焼き「かわらけ」など陶器破片
ビーチコーミング
いよいよ 夏到来
海の家作りはじまった
海の家
さあてと ここからは
極楽寺経由で稲村ケ崎まで進もう
一気に稲村まで
いつもランニングで 通り過ぎしていたけど
「はりま」 じゃなくて 「はりすり」 なんだ
ここもちっちゃな川なんだけど たくさん 川と橋があるね
針磨橋
針磨橋 (はりすりばし)
(石碑説明)
この橋は鎌倉十橋のひとつ。
昔この付近に、鉄を砥いで針に仕上げることを商売にしている
職人が住んでいたので、この名前が付けられたようです。
位置:極楽寺3-11-19付近で雑貨屋前の十字路の西南脇に建つ。
★極楽寺駅を稲村方面へすこし進んだところにあります。
稲村ケ崎に到着
信号の向こうは稲村海岸
稲村海岸前
久しぶりに ここの砂浜に降りてみた
すこし 曇りだ
稲村海岸
海岸から稲村ケ崎を見た処
稲村ケ崎
ここは、定番の位置
江ノ島を望む 当然富士は望めない
江の島望む
稲村のはまひるがお
もうそろそろ 見頃もおしまいに近づいている
また 来年、ありがとう
浜昼顔
稲村越えて 坂之下まで戻りました
坂之下海岸
ここもいつも素通りしていたけど
稲瀬川って言うんだ
ほんと、川の名前もたくさんあるなぁ
稲瀬川 (いなのせかわ)
(石碑説明)
万葉集の中に「鎌倉の美奈 能瀬(みなのせ)河」と書いてある川のこと。
源頼朝の妻の政子が、1180年10月の初めての鎌倉入りの時
良い日柄(ひがら)に入るための調整で、数日の間この川辺の民家に滞在している。
頼朝は、1184年に弟の源範頼(のりより)が平家を討つために出発するのを見送ったり
1185年に亡き父源義朝(よしとも)の遺骨を出迎へたのも共にこの川辺です。
1333年に新田義貞軍の大将大舘宗氏(おおだち (又はおおたち)むねうじ)が
この川辺にて討死したのは有名です。
この川の流れは細くとも、多くの物語が秘められています。
位置:長谷2-8-8付近で長谷から由比ヶ浜に注ぐ二つの川のうち,
東側の川の道路上の海側に建つ
★歴史のロマン漂う秘川だ!
さあ ここからは 戻り
長谷方面から 笹目へ向かう
塔之辻 石碑
塔之辻 (とうのつじ)
(石碑説明)
鎌倉の長谷の近くに、佐々目が谷(ささめがやつ)という地区があります。
その東南の方向の道ばたに、古い石の塔が建っています。
辻に塔があるので、塔之辻と言うと伝えています。
その昔、由比の長者時忠(ときただ)の子供が3歳の時、鷲(わし)にさらわれ
追っかけたけれどもつかまらず、両親の悲しみは大変なものでした。
散らばっている肉片などを見つけると、これは我がこの子の骨ではなかろうか
あれは我が子の肉ではなかろうかと、その所々に塔を建てて、供養しました。
それで、鎌倉のあちらこちらに塔の辻と言う所があり
ここもそのひとつであろうといいます。
またある人は、昔の道標であろうと言います。
いずれが本当かは分かりません。
位置:笹目町5-1鎌倉彫寸松堂東北角で
寸松堂の東側の道を30メートル入った左側に建つ。
★鷲に襲われることなんてあるんだ。
今はトンビが観光客の食べ物を襲撃する場面
よく見かけます。ご注意を!
ここから 佐助方面へ向かう
面白い道路脇の街路樹にミラー
御成中学通学路
大きな目玉に見えるか?
御成中前
一気にすすみ
本日のゴール(勝手に決めた) 英勝寺前
英勝寺前
今日のタイム 17.18km 7:59(時間/km)
まずますか・・・
最近の石碑めぐりは うろうろ 石碑探しで時間ロスするね
(言い訳か!)
本日のタイム
おおぎがや掲示板に槐の会 写真募集かぁ
面白そうだな
でも
よく見ると とてもこんなきれいな写真とれないやぁ
鑑賞に回ろう(泣)
八幡様槐の会 写真募集
最後は近所のカラフルなあじさい
青空に映えて 清々しい。
いろとりどり紫陽花
鎌倉の石碑は総じて 悲しい出来事が多いような気がした(悲)
今日は12石碑をチェック!
また、次も石碑を捜そう
めざすぞ、フルマラソン完走!!!!
(石碑出典:鎌倉史跡碑)
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