劇場版「鬼滅の刃」無限列車編 ノベライズ(2種)感想 ③ | 物語の面白さを考えるブログ

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セリフは言語情報です。

漫画・映画・小説ともに、それは共通しています。

しかし、映画に関して言えば、セリフは言語情報でもあり、音声情報でもあります。

音声情報としてのセリフとは何かと言うと、役者(声優)の〝声〟です。

話している内容は言語情報ですが、声そのものは非言語情報です。

同じセリフでも、声が違えば印象が違ってきますし、同じ声でも演技によって印象が変わってきます。

言語情報としてのセリフに、非言語情報としての声が、さらなる価値を付け加えているのです。

作者の立場からすれば、言語と非言語、二つのチャンネルを使って表現するので、視聴者に伝えたいことをより的確に伝達できる可能性が高まります。

漫画をアニメ化するケースだと、成功すれば、原作漫画にない深みを、セリフに与えることとなります。

裏目に出ると、読者の持つ原作に対するイメージを毀損することとなります。

どちらにせよ、〝声〟によって、視聴者の感情が影響を受けることは確かです。

非言語情報(声)は、人の持つ「概念」というフィルターを無視して、ダイレクトに心を揺さぶります。

「概念」を操作する手間をかけなければ、人を感動させられない言語情報より、非言語情報の方が伝達が早いのです。

 

漫画は、絵(非言語情報)とセリフ(言語情報)の組み合わせで、作者の意図を表現します。

映画になると、絵(非言語情報)とセリフ(言語情報×音声情報〔非言語情報〕)という組み合わせになります。情報の種類が増え、表現が立体的になります。

小説は、「絵」がなくなり、地の文(言語情報)とセリフ(言語情報)の組み合わせとなります。

「概念」を介さずに心に届く非言語情報が脱落した分、小説は表現力の面で不利になるのではないか?

映画の小説化(ノベライズ)となれば、その不利は一層拡大するのではないか?

なぜなら、劇中のセリフを改変してはいけないという制約が、小説側に発生するからです。

セリフが同一なら、声優の演技が上乗せされる映画の方が、表現力が高くなることが予想されます。

この不利な状況を、小説はどのような工夫で迎え撃ったでしょうか。

松田版にその答えを見出すことができます。

煉獄杏寿郎の夢の中。柱になったことを報告する彼に、父・槇寿郎が投げやりな返事をするシーン。

 

「くだらん……どうでもいい。どうせたいしたものにはなれないんだ。おまえも――俺も」

 

「おまえも」と「俺も」との間に、――(ダッシュ)が入っています。

これが松田版の工夫。

原作のセリフは「お前も俺も」です。矢島版も同じ。

松田版だけが、「――」を採用し、〝間〟を設けています。

この〝間〟によって、槇寿郎という人物が掘り下げられているのが、おわかりいただけるでしょうか。

煉獄槇寿郎は、柱にまで登り詰めた優れた剣士でありながら、あるときを境に、やる気をなくし、自堕落な生活に浸るようになりました。息子たちへの指導もやめてしまいました。

原因は、継国縁壱が鬼舞辻無惨と対決したときの話を知ってしまったからでした。

どれほどの才があろうと、どれほどの努力を積もうと、超人・縁壱には及ばない。それがわかってしまった。

己の限界に絶望し、自暴自棄になったのです。

絶望の一番の対象は、己自身です。

決して、息子が憎くて、冷淡に振る舞っているのではありません。

「おまえも」のあとに、〝――〟で溜めを作って、「俺も」と言わせることで、息子ではなく、自分自身に深く絶望していることを表現しています。

松田朱夏先生が、原作のキャラクターを深く正確に把握していることに、驚嘆を禁じ得ません。

そして、映画のセリフを改変せずに、〝――〟を一本挿入するだけで、人物の陰翳を描出する文章表現力の高さときたら!

〝間〟を設けることで、声優の演技にも負けない深みを、セリフに付与することができる――。

それが松田朱夏先生の出した答えでした。

松田版は、活字が決して映像に負けないことを証明してのけたのです。

 

一連のセリフに、どのように〝間〟を設けているか、松田版と矢島版を比較してみましょう。

煉獄さんが最期に、炭治郎にメッセージを伝えるシーンです。

ちょっと長いですが、「それから 竈門少年 俺は君の妹を信じる」~「俺は信じる 君たちを信じる」までを引用してみます。

「」で括った部分が、小説中で、一つのまとまりとなって記されています。一つのまとまりが終わると、地の文になり、また次のセリフのまとまり「」が始まります。

地の文が、〝間〟の役割を果たしています。

地の文は省略して、セリフのみを記します。

 

まずは松田版。

 

「(前略)……それから」

「竈門少年」

「俺は、きみの妹を信じる――鬼殺隊の一員としてみとめる」

「汽車のなかで、あの少女が血を流しながら人間を守るのを見た。命を懸けて鬼と戦い、人を守るものは、だれがなんと言おうと鬼殺隊の一員だ」

「胸をはって生きろ」

「己の弱さやふがいなさにどれほどうちのめされようと――心を燃やせ。歯を食いしばって前をむけ。きみが足を止めてうずくまっても、時間の流れは止まってくれない。ともによりそって悲しんではくれない」

「俺がここで死ぬことは気にするな。柱ならば、後輩の盾となるのはとうぜんだ。柱ならば、だれであっても同じことをする。若い芽は摘ませない」

「竈門少年」

「猪頭少年。黄色い少年。もっともっと成長しろ。そして、こんどはきみたちが、鬼殺隊をささえる柱となるのだ」

「俺は信じる」

「きみたちを、信じる」

 

続いて矢島版。

 

「それから、竈門少年」

「俺は君の妹を信じる」

「鬼殺隊の一員として認める。汽車の中であの少女が血を流しながら人間を守るのを見た。命をかけて鬼と戦い、人を守る者は誰が何と言おうと鬼殺隊の一員だ。胸を張って生きろ」

「己の弱さや不甲斐なさにどれだけ打ちのめされようと、心を燃やせ。歯を喰いしばって前を向け、君が足を止めて蹲っても時間の流れは止まってくれない。共に寄り添って悲しんではくれない。俺がここで死ぬことは気にするな。柱ならば後輩の盾となるのは当然だ。柱ならば誰であっても同じことをする。若い芽は摘ませない」

「竈門少年、猪頭少年、黄色い少年、もっともっと成長しろ。そして、今度は君たちが鬼殺隊を支える柱となるのだ。俺は信じる。君たちを信じる」

 

松田版の方が、こまめに〝間〟を設けており、セリフに緩急・強弱を作り出していることが見て取れます。

注目したいのは、「竈門少年」で必ず一区切りつけていること。

このシーンは、炭治郎の視点で描かれています。

読者は、炭治郎と同化しています。

「竈門少年」でいったん区切られると、まるで、本当に、自分が呼びかけられているような感覚に陥ります。「聴覚に訴える文章」が生んだ臨場感です。

今まさに、目の前にいる煉獄さんが、自分に向かって話している――。

そういう実感が湧くので、言葉がズシリと胸に響きます。

感動です。泣いてしまいます。

ところが、矢島版は……。

驚くべきことに、このシーン、煉獄さんの視点で描かれているのです。

死ぬ前に、後輩たちに、伝えるべきことを言えてよかった、という安堵の心情が述べられています。

このシーンの重要性を考えたら、去りゆく人から大事なメッセージを受け取る炭治郎の視点で描く以外、ないと思うのですが、なぜそうしなかったのでしょうか。

セリフを一まとめにする範囲が大きいので、死ぬ前に急いでそれだけの分量を喋っている――早口で言っているような印象すら、ともすればおぼえます。

「胸を張って生きろ」は、原作では、煉獄さんのアップとともに一コマに収められている、かなり重要なセリフのはずですが、矢島版の区切り方だと、禰豆子を認めたことに付随する助言ととれなくもありません。このセリフは、単に鬼殺隊の中で堂々としていろというに留まらず、これからの人生を歩む際の、とるべき姿勢について述べているので、松田版のような区切り方で強調するのが正解だと思います。

煉獄さんの気持ちは――松田版の最後に注目。

「きみたちを、信じる」

矢島版にはない読点(、)が打ってあります。

これによって、『信じる』 が強調される形となります。

この 『信じる』 に、この世を去る煉獄杏寿郎の想いが、すべて詰まっています。

「説明文」で説明しなくても、(、)一つで伝わります。

これぞ文章表現です。

 

「視点」をキーとしてノベライズを読み解いたところ、ufotable のシナリオの問題点に気付いてしまいました。次回はそれに言及します。原作のナレーションの正体にも迫ります。

 

 

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