🕊️ 日本は「良い加減」が苦手なのか
――デジタルには慎重すぎて、身体のことになると話が変わる
先日、久しぶりに「パリ会」の仲間たちと話す機会がありました。金融、航空、海運など、それぞれの分野で世界の最前線を見ている友人たちです。
業界は違いますが、話しているうちに、ある共通した感覚が浮かび上がってきました。
日本は、安全性や完全性を求めるあまり、実装が遅すぎるのではないか。
慎重に検討している。
関係者と調整している。
制度との整合性を確認している。
リスクがないか精査している。
もちろん、どれも必要なことです。
しかし、それをしている間にも世界は動いています。
こちらが一歩を踏み出すかどうか議論している間に、世界は実装し、失敗し、修正し、さらにその先へ進んでいく。
気づいたときには、技術そのものではなく、社会実装の経験値で何歩も差がついている。
そんな危機感を、分野の違う友人たちが皆、感じていました。
そこで出てきたのが、
日本は「良い加減」が分からなくなっているのではないか。
という話です。
「いい加減」というと、無責任、適当、雑、といった悪い意味に聞こえます。
でも、本来必要なのは「良い加減」。
何でも100%、完全、を目指すのではなく、リスクに応じて、どこまで確認すれば先へ進めるのかを判断する能力です。
これは、これからの行政にとても重要なのではないかと思います。
デジタル庁は、
「誰一人取り残されない、人に優しいデジタル化を。」
という理念を掲げています。
私は、この理念そのものには賛成です。
高齢者も、障害のある方も、デジタルが苦手な方も、新しい技術の恩恵から排除されてはいけません。
そして実は、「誰一人取り残さない」「人間中心のデジタル化」という考え方自体は、日本特有のものでもありません。
国連もEUも、人間中心で包摂的なデジタル社会を重要な理念として掲げています。
問題は、理念ではない。
その理念を、どう運用するかです。
「誰一人取り残さない」が、
「全員が使えるようになるまで進まない」
になってはいないでしょうか。
「安全性を重視する」が、
「問題が起こらないことを十分確認できるまで実装しない」
になってはいないでしょうか。
不確実な未来について、最初から100%の完成度を求めることなどできません。
むしろデジタルの世界では、
小さく始める。 使ってみる。 測る。 問題を見つける。 直す。 そして広げる。
という方法が取られます。
英国政府のデジタルサービスの原則にも、
“Iterate. Then iterate again.”
という言葉があります。
一度で完成させるのではなく、実際の利用者に使ってもらいながら改善していく。
行政そのものに、トライ・アンド・エラーを組み込む考え方です。
もちろん、
「80%でいいから、安全性を無視して始めよう」
という話ではありません。
許容できる安全域は確保する。しかし、完成度が80%なら、小さく始めて改善していけばいい。
そして、ここで私は「可逆性」という考え方が非常に重要なのではないかと思っています。
デジタルサービスなら、使いにくければ仕様を変えられます。
AIを導入してうまくいかなければ、運用を変更できます。
限定的な実証で問題が出れば、止めることもできます。
つまり、多くの場合、
戻ることができる。
だから、失敗する可能性だけを見るのではなく、
「失敗したときに戻せるのか」
まで考えて、規制や実装の速度を決めればいい。
先に進める人は先に進む。
支援が必要な人には支援する。
従来の方法が必要な人には、一定期間、代替手段を残す。
その間にデータを取り、改善する。
私はむしろ、その方が本当の意味で「誰一人取り残さない」デジタル化になると思います。
ところが。
ここからが、私が最近どうにも腑に落ちないところです。
なぜ、一番大切な「人間の身体」のことになると、話が変わるのでしょうか。
私は国会で、厚生労働分野とデジタル・AI分野の両方に関わってきました。
二つの世界を行き来していると、行政のリスクに対する考え方に、奇妙な「ねじれ」があることに気づきます。
デジタルでは、安全なのか。問題は起きないのか。全員が対応できるのか。制度上、大丈夫なのか。と、石橋を何度も叩く。
ところが、人間の身体に直接介入する医療政策では、本来もっと厳しく問われるべき、どれだけの人に、どれだけのベネフィットがあるのか。 どの程度のリスクがあるのか。 導入後、実際に何が起きたのか。 当初の想定と違うことは起きていないのか。
という検証が、とても十分とは思えない。
そこを私は繰り返し問い続けています。
薬でも、ワクチンでも、医療機器でも、医学に「絶対安全」はありません。だからこそ必要なのが、リスクとベネフィットを数字で示すことです。
そして、導入したら終わりではない。
導入した瞬間から、次の検証が始まる。
それが本来、科学的な態度ではないでしょうか。
しかも身体への介入は、デジタルサービスとは決定的に違います。
ソフトウェアはアップデートできます。
行政システムはロールバックできます。
しかし、身体は、クリック一つで以前のバージョンには戻せません。不可逆性が非常に高いのです。
最悪、生命の存続そのものに関わることもあります。
だとすれば、本来は逆ではないでしょうか。
戻せるものは、許容できるリスクの範囲で早く試す。 戻せないものほど、慎重に評価し、導入後も徹底して検証する。
ところが、私には時として、そのバランスが逆転して見えます。
デジタルという比較的可逆的な領域では、ゼロリスクに近いものを求めて実装が遅れる。
その一方で、生命や身体に関わる不可逆性の高い領域では、いったん政策として走り始めたものについて、その後のリスクとベネフィットをどこまで追跡し、検証し、必要なら修正するのかという議論が、もっとあってよい。
このねじれは、何なのだろう。
厚生労働とデジタル・AI。
両方の政策を横断して見てきたからこそ、私はこの歪みが余計に気になるのかもしれません。
これは「規制をなくせ」という話でも、「何でも早くやれ」という話でもありません。
まして、安全を軽視しようという話ではありません。
むしろ逆です。
何を、どの程度慎重に扱うべきなのか。
その物差しを、もっと合理的にしようという話です。
政策を考えるときには、
生命・身体への影響はどの程度か。
失敗した場合の損害はどの程度か。
元に戻せるのか。
結果をデータで検証できるのか。
このような「リスク」と「可逆性」を基準に、行政のアクセルとブレーキを使い分けるべきではないかと思っています。
低リスクで可逆的なら、小さく、早く始める。
高リスクで不可逆的なら、より厳格に評価し、導入後も継続して検証する。そして、結果が想定と違えば政策を変える。
それこそが、不確実な未来を生きるための知恵ではないでしょうか。
AI、ロボット、自動運転、医療DX。
これから社会の前提そのものを変える技術が、次々と登場します。未来を完全に予測してから制度を作ろうとしていたら、永遠に出発できません。
必要なのは、未来を完璧に予測する能力ではない。
間違ったときに、早く気づき、戻し、修正できる能力です。
それには間断なき検証、これが不可欠です。
「いい加減」ではない。
「良い加減」を知る行政。
そして、戻せないものほど慎重に見る行政。
「誰一人取り残さない」という理念は美しい。
けれど、誰一人取り残さないを注視しすぎて、
日本という国そのものが、世界から取り残されてはいけない。
二つの政策分野を行き来しながら、最近そんなことを考えています。
