📈 医学のEBMと政策のEBPM――似て非なるもの
初めての参考人質疑で考えたこと
昨日、行政監視委員会で初めての参考人質疑に立った。三人の専門家の先生方に対して、往復わずか十分。正直に言えば―あまりに短い。
政治の世界ではよくあることだが、問いを一つ投げれば、その背後には十の問いが潜んでいる。その十を開く時間がないまま、次の議題に進む。それもまた国会独特の場の空気感である。
今回、私が選んだテーマは
EBPM(Evidence Based Policy Making)
エビデンスに基づいて政策を作ろうという考え方である。
この言葉は、1990年代に英米で登場した。医療の世界で広がったEBM(Evidence Based Medicine) に触発され、政策の世界にも「証拠に基づく意思決定」を導入しようという試みだった。
1997年、英国ブレア政権は有名な言葉を掲げた。
“What matters is what works.”
重要なのは、実際にうまくいく政策である。
この考え方はその後OECDを通じて広まり、日本でも2016年前後から政府の統計改革や政策評価の文脈で本格的に導入されるようになった。つまり、日本でEBPMが政策言語として定着したのは
ここ十年ほどのことである。
私は医師である。医療の世界には、これに対応する概念がある。
EBM(Evidence Based Medicine)
EBM:エビデンスに基づく医療
EBPM:エビデンスに基づく政策
言葉だけ見れば、よく似ている。
私も最初は、「ああ、これは理解しやすい概念だ」と思った。
ところが実際には―この二つは、かなり性格が違う。
そしてその違いこそが、日本の政策の弱点にもつながっている。
🩺 医療のEBMは「反証の文化」である
EBMの世界では、物事はおおむね次の順序で進む。
仮説👉実験(臨床試験)👉データ👉検証👉再現性
つまり「本当にそうなのか?」という問いを、何度でも繰り返す手法である。
例えば新薬。数千人規模の臨床試験を行い、ランダム化比較試験(RCT)で効果を検証する。それでもなお議論は終わらない。
本当に安全なのか。長期的にはどうなのか。医学の世界では、最も重いもの―命を扱う。だからこそ疑うこと自体が職業倫理なのである。
🌇 ところが政策のEBPMははるかに複雑だ
EBPMという理念そのものは、素晴らしい。しかし実際には、医療よりはるかに難しい。理由は単純である。変数が無限にあるからだ。
医療であれば、年齢、性別、病気、投薬など、ある程度は整理できる。しかし政策は違う。
政策には、経済、社会、文化、地政、心理、国際環境といった無数の変数が絡み合う。
極端に言えば、データの設計次第で、どんな結論でも導くことができる。これがEBPMの難しさである。
🧮 統計のトラップ
ここでさらに問題になるのが統計リテラシーである。
例えばコロナワクチンの議論等でよく取り上げられる”相対リスク””絶対リスク”という概念がある。以下が成立する。
相対評価では「有効性97%」。しかし絶対評価では、わずか 0.7%の差。
このように数字の読み方ひとつで印象は劇的に変わる。
さらに統計には有名な罠がある。
交絡
因果の逆転
シンプソンのパラドックス
例えば「アイスクリームが売れると溺死が増える」というデータ。溺死の原因はもちろんアイスクリームではない。暑い夏という第三の要因がある。これが交絡である。
政策データは、こうした罠に満ちている。そして残念ながら、日本社会はこの統計思考にあまり強くない。
😓 EBPM疲れ――制度が人を疲れさせるとき
昨日の参考人質疑で、もう一つ印象に残った言葉があった。EBPM疲れという表現である。
評価には時間がかかる。指標を作り、資料を整え、説明できる形にする。しかし政策の効果は簡単には測れない。
すると現場ではこうなる。こんなに資料を作ったのに、何が残ったのか。評価が政策改善のためではなく、評価様式を満たすための作業になる。
その瞬間、EBPMは知の道具ではなく果てしなく面倒臭い書類の制度になってしまう。
🤖だが、ここからが面白い
ここで私は、少し楽観している。なぜなら――今はAIの時代だからだ。医学論文でさえ、従来の10分の一の時間で作成可能になったと、知り合いの教授は驚きと共に語っていた。
EBPMが疲れる理由の一つは、データ整理と分析が人力だったからである。
しかしAIは、データ統合、因果分析、統計処理、パターン抽出を、人間よりはるかに高速に行う。つまりEBPMは本来、AI時代の政策手法なのである。むしろ今までが早すぎたのかもしれない。
🇯🇵 日本の最大の問題
日本のEBPMには、もう一つ致命的な問題がある。
それは、データ保存の脆弱さである。
医療の世界では、カルテの保存義務は法律上わずか5年にとどまる。しかし実際には、医療の評価とは、10年、20年という時間の経過を経て初めて見えてくるものも少なくない。
もしその時点でデータが失われていれば、検証そのものが不可能になる。
行政データも同様である。一定の手続きを経れば、10年、20年の保存や歴史公文書館への移管も可能である一方、廃棄されてしまうものもある。
政策を本当に検証可能なものにするためには、少なくとも二つの条件が必要である。
第一に、必要なデータが適切に保存されること。
第二に、そのデータを行政の内部だけでなく、第三者が検証できること。この二つが欠ければ、EBPMは看板だけに終わる。
🧪 科学とは何か
科学の本質は、自分の仮説を疑うことである。しかし政策の世界では、どうしても、予算、組織、利害が絡む。
すると逆転現象が起こる。
仮説を疑う文化ではなく仮説を守る文化になってしまう。
Evidence Based Policyではなく
Policy Based Evidenceになってしまう
ここにEBPMの難しさがある。
もう一つの構造的問題
日本では政策を作る人が政策を評価するという構造になっている。会計監査院は存在するがそれは主として財政監査であり、
政策の因果関係を科学的に評価するものではない。
医療で例えるなら、手術した医者が自分で手術の成功率を書く
ようなものだ。
これでは真の評価は難しい。
EBMでは第三者検証が基本である。
EBPMも、本来そうあるべきだろう。
🗣️ 医学から政治へ
医学と政治は、まったく異なる世界のように見える。
しかし本質では、よく似ている。
どちらも、人の命と生活に深く関わっているからだ。
だからこそ、「エビデンス」という言葉を軽く使ってはならない。エビデンスとは、都合のよいデータのことではない。
本当に成熟した社会とは、自らに不都合な事実から目をそらさない社会のことだ。
その意味で、医学に求められる姿勢は、本来、政治にも求められている。
最後に、もう一つだけ付け加えたい。
EBPMとは、本来、政策を正当化するための道具ではない。むしろ逆である。政策を疑うための装置である。
もしEBPMが真に機能するなら、政治にとって都合のよい結論ばかりを生むことはない。ときに、それは「この政策は間違っていた」という厳しい現実を突きつけるはずである。しかし、まさにその瞬間こそが、民主主義が成熟する瞬間でもある。
医学がそうであったように。
政治もまた、反証に耐える勇気を持たなければならない。


