🪷第一章・哲学はデータを超える──「問い」を育てる教育へ
先日、立正大学の渡辺美智子先生による「日本にGAFAが生まれなかったのは教育のせい?」という記事を拝読した。
AI時代の子どもたちに“データサイエンス力”が必要であること、
そして「問いを立てる力」がすべての出発点であること──
まさに現代教育の核心を突いた見解である。
けれど私は、そこにさらに一歩、踏み込みたいと思った。
敬愛する鎌谷師匠との対話のなかで、日本が本当に弱いのは
“統計教育”そのものではなく、哲学的思考の欠如と情報の構造理解の浅さだと気づかされたからである。
Ⅰ.日本人がデータサイエンスに弱い理由──「数」と「モノ」をつなぐ力の欠如
日本人は数学ができないわけではない。
いや、国際比較の中でもむしろ得意な部類だ。
方程式は解けるし、記号操作も得意である。
だが、「データで現実を観測する力」が極端に弱い。
鎌谷師匠はそれをこう喝破する。
「現実世界の対象物と数を関連づける能力が欠如している。」
日本語は文脈依存の言語で、主語を省略しても意味が通じる。
名詞に冠詞がなく、可算・不可算の区別も曖昧だ。
つまり、数と現実を対応づける意識が育ちにくい。
「200mL」と「水ひとすじ」を曖昧に扱う文化では、
情報(=数とモノの関係)を体系的に捉える訓練がなされない。
結果として、日本では「純粋数学」は強いが「応用数学」が弱く、物理の数学は得意でも、生物や社会を扱う数学が不得手となる。製造業(モノが対象)は強くても、サービス業(人間が対象)は弱い。
これがいわゆるデジタル赤字である。
この能力が欠けると、アイデアがあってもそれを多様な社会に実装できない。
模倣と修正はできても、イノベーションは生まれない。
未来はランダムであり、それを思考するには確率的思考の筋力が必要なのだ。
Ⅱ.哲学が“データ教育”の根幹である理由──問いの筋肉を鍛える
哲学とは、「問いを止めない訓練」である。
それは仮説の源泉であり、思考の統計母集団を広げる行為だ。
脳内ビッグデータの多様性を高め、発想のランダム性(探索力)を保つ。
AI時代の教育に必要なのは、プログラミングよりも前に、
「なぜ?」「どうしてそう思う?」と問う精神の筋トレをすること。
これは倫理教育ではなく、思考構造のリハビリである。
データサイエンスの本質は、唯一の真理を突き止めることではなく、「事実をどんな構造で意味づけるか」にある。
哲学はその“意味の設計図”を描く訓練であり、
データサイエンスは哲学の実験装置なのだ。
Ⅲ.言語構造とデジタル思考のズレ──曖昧さを構造的に扱う
英語で思考すると、世界はデジタルに一歩近づく。
主語と述語の関係が明確で、“曖昧な共有”ではなく“明示的な定義”で秩序が立ち上がる。
フランス語・ドイツ語・イタリア語なども文法は複雑だが、
思考は定義を軸に構築される。
一方、日本語は“調和の文法”でできている。
主語が曖昧で、「察する」「読み取る」「和を保つ」という集合無意識が背後に流れている。
だからAIや統計のような“定義型の知”とは衝突しやすい。
このギャップを埋めるには、日本語の曖昧さを否定せず、構造的に扱う哲学教育が必要だ。
幸い、生成AIの進化により、日本語の繊細なニュアンスをアルゴリズムが理解し始めている。
むしろ今こそ、曖昧さを美学から科学へと昇華させる教育が求められている。
Ⅳ.統計→確率→未来予測──AIの次元を超える視点へ
統計は過去を記述し、確率は未来を予測する。
そこに“意識”という観測者を加えた瞬間、未来は確率ではなく選択として形を持ちはじめる。
鎌谷師匠は言う。
「AIは“学習と推論”。我々は“発想と推論”。」
「欧米と中国を理解し、その先を行け。」
「これから、すべての科学で大変革が起きる。」
AIが過去のデータから学ぶ存在であるのに対し、
人間は“観測されていない未来”を発想する存在である。
AIが模倣の装置なら、人間は創造の装置だ。
教育の使命は、“過去を学ぶ人材”ではなく、
“未来を設計する哲学者”を育てることにある。
Ⅴ.結び──「問いを立てる」から「問いを育てる」社会へ
データは真理を教えてくれない。
真理は、データと向き合う人間の意識の姿勢の中にある。
「問いを立てる」だけでは足りない。
それを深め、磨き、進化させる過程こそが哲学であり、未来への知的祈りである。
AI時代の“考える力”とは、アルゴリズムを疑い、仮説を愛し、
そして問いを手放さない勇気のことだ。
だから私は信じている。
データサイエンスの根底には、いつだって哲学という静かな炎があるのだと。
🪷 Dr. Mana Iwamoto
「魂が共鳴する国、日本再生。」
