オランダ気質と安楽死
―合理性と誠実さが示す“生と死”の在り方
その昔、アムステルダム滞在中に知り合ったアーティスト、ソフィー(仮名)。彼女はオランダに長く暮らし、“合理的な気質”をすっかり身につけながらも、不思議と温かみのある人だった。
ある夜、ワイングラスを揺らしながら、こんな話を聞かせてくれた。
「オランダ人ってね、合理的ってよく言われるでしょう? でも、それって冷たいんじゃなくて、むしろ誠実なのよ。」
「たとえばね、友人の誕生日にブローチを贈ったの。そしたら数日後に、申し訳なさそうに連絡が来たのよ。」
『あなたの気持ちはすごく嬉しい。でもね、このブローチは私の好みじゃないの。しまっておくのはもったいないし、もっと似合う人に使ってもらったほうがいいと思うの。だから、ごめんなさいね。』
「……うひゃー、それ、メンタルやられません?😭」
「最初はね。でも彼女にとっては、それが“最善”なの。オランダでは、嘘をつかないことが美徳なのよ。『せっかくもらったから』『相手の気持ちが大事だから』と、ただ受け取るよりも、モノの価値を正直に活かすほうが、よほど誠実って考えるの。」
なるほど、日本とはまるで感覚が違う。だが、その誠実さを突き詰めると、合理的なまでに「生」と「死」にも影響するらしい。
オランダの高齢者医療と“選ぶ死”
話題が医療に移ると、さらに驚くべき事実が飛び出した。
「オランダではね、高齢者が使える薬が決まっているの。」
「えっ……!?」
「最新の高額な治療薬は、未来のある若者のためのもの。高齢者には“自然な衰え”を受け入れる選択を促すの。みんな、それが当たり前だと思っているわ。」
「日本と真逆……!」
「欧米全体では、『無理な延命はしない』が基本。でもオランダとスイスはもう一歩進んでいて、安楽死が合法でしょ? 本人が『もう十分生きた』と決めれば、その意思が尊重されるのよ。」
そもそも、医師の倫理は「患者をできるだけ延命させること」にある。でも、それが「患者本人が望まないもの」だったとしたら?
日本では、病気があれば治療をし、食べられなくなれば胃瘻をつけ、心臓が止まりかけたら蘇生する。それは、医療の役割だから。しかし、患者自身がそれを望んでいなかったとしても、本人が明確に意思表示をしない限り、医療は止まらない。
オランダではその倫理が、まるで逆方向に向かっているようだった。
“神聖な最期”という選択
「私ね、もう二十人くらい見送ったわ。」
「……に、二十人も!?」
「😆いやいや、私、死神じゃないから。でもね、その瞬間は本当に神聖なのよ。」
「直前で気が変わる人もいるし、その場合はすぐにストップできる。許可を得た医師がそっと手順を止めるの。すべてが穏やかで、静かで……まるで、美しい儀式のようよ。」
彼女の言葉に、思わず背筋が伸びた。
「私もね、その時が来たら、自分で決めると思う。」
そう言って、ソフィーはグラスを傾けた。その横顔は、どこか凛として美しかった。
“どう生きるか”は”どう死ぬか”と同義かもしれない
日本では「ピンピンコロリ」が理想とされる。でも、実際にいつ・どう最期を迎えるかは、なかなか自分では決められない。そして、それを決めることが「生き方」の最終章をどう描くかという問いにつながるのではないか、と。
オランダの安楽死の実情
参考までに、オランダの安楽死(Euthanasia)の現状を見てみる。
• 年間死者のうち4.5~5%が安楽死によるもの
• 安楽死を選ぶ平均年齢は75歳前後
• 高齢者医療費のうち65歳以上の負担割合
• オランダ:約40%
• 日本:約60~65%(推計)
この数字を見ると、オランダでは無理な延命を避け、医療リソースを効率的に使い、個人の選択を尊重していることがわかる。
“賢く、美しく”死を迎える選択を
オランダの合理主義は、時に冷たく映るかもしれない。でも、その根底には、個人の意思を尊重し、誠実に生きるという温かな哲学がある。
誕生日に贈られたブローチを「より良い使い道のために返す」姿勢と、安楽死を「尊厳を守るために選ぶ」姿勢。
一見遠いようでいて、実は同じ価値観に根ざしているのだ。
日本は世界有数の長寿社会。「長生きこそ正義」 という考え方のもと、終わりについて考えることを避けてきた。でも、“どう死ぬか”を考えることは、“どう生きるか”を深く考えることと同義なのではないか。
メメント・モリ(死を思え)。カルペ・ディエム(今を生きよ)。
オランダ人の哲学に触れた夜、私はふと、日本の桜が散る様を思い出した。
「潔く、美しく、誇り高く」。
日本らしい死の美学とは、果たしてどんなものなのだろうか。
