ドクターヨセフのバイブルセラピー・・・「自分らしく生きる」ために
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2006-04-07 13:15:07

生きる意味

テーマ:コリント人への第二の手紙

そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。
(コリント人への第二の手紙 / 5章 15節)


彼とはイエス様のことです。そのイエス様が、すべての人つまり全人類の罪をあがなうために十字架で死んだのです。


そして、生きているものとは、イエス様の十字架の血潮のあがないを信じて、罪を許され死んでた霊が生き返った人のことです。


命の恩人という言葉があります。


体の命が本当の私たちの命ではありません。


私たちの本体は霊であり、それが命です。


その命の恩人はイエス様なのです。


その方のために生きることが本当の満足のある人生となるのです。


それは、「神を愛し、隣人を愛せよ!」という言葉につきます。
see you !!


2006-04-06 15:45:36

子ロバ

テーマ:マルコによる福音書

「むこうの村へ行きなさい。そこにはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのないろばの子が、
つないであるのを見るであろう。それを解いて引いてきなさい。
(マルコによる福音書 / 11章 2節)
イエス様がエルサレムに入場する前のことです。
イエス様はこの子ロバにのりエルサレムに入りました。
このロバは、私たちです。
その上にイエス様が乗るということは、私たちの行動をイエス様に制御していただくということです。
それは、聖書にあるみ言葉を蓄えて行動するということです。
そして、エルサレムは私たちの霊のある場所です。良心のある場所です。
その霊がみ言葉を蓄えて成長するのです。
see you !!

今西 祐行
いればをしたロバの話
コーネル キャパ, 河津 一哉, ロバート キャパ
戦争・平和・子どもたち―ロバート・キャパ写真集
2006-04-05 17:19:28

無くてならぬもの

テーマ:ルカによる福音書

主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。

マリヤはその良い方を選んだのだ。

そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。

(ルカによる福音書 / 10章 41-42節)


姉のマルタと妹のマリヤがいました。イエス様が彼らのところにきていたとき、マルタは、接待におわれて忙しく仕事をしていました。


しかし、マリヤはイエス様の言葉に耳を傾けているばかりで姉マルタの手伝いをしないことに不平をもらしたのです。


マルタは忙しさのあまり多くのことに思い煩っていたのです。


私たちの生活の中でよくあることではないでしょうか?


あれもこれもと思い煩う中で大切なもの無くてはならないものを見失ってしまうのです。


無くてはならないもの、イエス様、神様の言葉に耳を傾けることです


私たちも日常生活に振り回されるとき、原点に戻り神様の言葉に耳を傾けることが必要です。


心を沈め、平安の中に自分をおいてなすべきときになすべきことをなすことが大切です。


see you !!


ウォルター ワンゲリン, Walter Wangerin, 仲村 明子
小説「聖書」旧約篇〈上〉
2006-04-04 10:33:19

迷える子羊

テーマ:マタイによる福音書

あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、
九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。
もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、
むしろその一匹のために喜ぶであろう。
そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。
(マタイによる福音書 / 18章 12-14節)


私たちはもともと霊のものです。
しかし、私たちの霊は人類の祖先であるアダムの罪によって私たちも罪の状態にありました。
羊飼いである神様の所から出て迷子になっている状態が全人類の現状です。


イエス様は迷える子羊となっている私たちを見つけるために、つまり救うためにこの世にこられました。


その救いの技が、罪のないものが十字架にかけらることにより私たちの罪が救われるという技です。
私たちは迷っていました。何のために生まれ、何のために生き、どこへ行けばいいのか?
迷える羊にはあとは滅びしかありません。
私たちが神様に立ち返ることが天にいます私たちの父のみこころなのです。
see you !!

2006-04-03 18:34:53

水とぶどう酒

テーマ:ヨハネによる福音書

イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。
ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。
(ヨハネによる福音書 / 2章 2-3節)


この後、イエス様は弟子に命じて、6斗の水がめに水を満たしました。
すると、その水がぶどう酒に変わったという話です。
これは何を意味するのでしょうか?
水がめはわたしたちです。
イエス様がこの世に来られた目的は、私たちの罪を許し、死んだ霊を生き返らせ、肉の者から霊の者に変わることです。


そのために、イエス様は、十字架で死にそして三日後に復活しました。


そのことを信じる信仰によって私たちは救われることができるのです。


これが最大の奇跡です。


水を満たすとは、罪の清めをあらわします。
そして、それがぶどう酒に変わるとは、肉の者から霊の者に変わることです。
私たちは、イエス様を主とする信仰により清められ、み言葉と祈りによって霊の人となるのです。
ぶどうの木はイエス様のことです。
そして、その実からできたぶどう酒は、御霊の実と呼ばれています。
その実は「愛・喜び・平安」です。
私たちの内面を「愛・喜び・平安」でぶどう酒のように霊の実であふれさせることが神様の御旨なのです。
see you !!

2006-04-02 14:16:05

神の御旨と善

テーマ:ローマ人への手紙

あなたがたは、この世と妥協してはならない。
むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、
何が神の御旨であるか、何がであって、神に喜ばれ、
かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
(ローマ人への手紙 / 12章 2節)


この世との妥協とは何でしょう?
世界にはさまざまな問題が発生しています。
政治、経済、人権・・・そして、法律や慣習等のこの世のルールがあります。
それらと妥協するなといっているのではありません。


この世とはかつての私たちの自己中心の行き方です。
生きる意味をわからずに生きていた私たちは、自分の心を魂を満足させるために生きてきました。
そのかつての自己中心の生き方に妥協してはいけないということです。
そして、イエス様を主とする信仰によって私たちは造り変えられました。


どのように?・・・
それは、自己中心の魂のリーダーシップから神様の言葉をリーダシップにする立ち方に造り変えられたのです。
つまり、私たちの霊が生き返りみ言葉を蓄えて成長していく立ち方です。
そして、神の御旨を行うように生きていくのです。


神の御旨って何?
それは、「神を愛し、隣人を愛せよ!」ということです。


神を愛するとは?・・・それは、神様の言葉を学び、祈りによって神様と交わることです。


隣人を愛するとは?・・・人助け、福祉、ボランティア等いろいろとありますがそれらは愛するということの
尻尾の部分です。では、頭の部分とは?・・・神様の前に罪のある状態の人々に福音を述べ伝えることです。
そして、罪のゆえに死んだ霊を生き返らせることです。


善とは何でしょうか?・・・この文字は、燔祭に羊を飾っている姿をあらわしています。
つまり、神の子羊であるイエス様が燔祭に捧げられた姿、つまり、十字架にかけられた姿です。
それは、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったイエス様の姿です。
これが、史上最大の愛であり善です。
つまり、私たちにとって神様、イエス様に対する信仰をもつことが善なのです。
see you !!

2006-04-01 14:14:55

罪からの開放

テーマ:ローマ人への手紙

わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。
それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
(ローマ人への手紙 / 6章 6-8節)


聖書では、罪(原罪)をあがなう方法として「罪のないものをいけにえとしてささげることにより罪が許される」と書かれてあります。


私たちの罪のために罪のないイエス様が十字架にかかることにより私たちの罪が許されたのです。


それによって私たちは罪の状態つまり死の状態から開放されているのです。


それを信仰によって受け取ることから始めなければなりません。


このように、私たち自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきです。
see you !!

2006-03-31 13:16:55

荒野で呼ばわる者の声

テーマ:マタイによる福音書

そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教を宣べて言った
「悔い改めよ、天国は近づいた」。
預言者イザヤによって、「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と言われたのは、この人のことである。
(マタイによる福音書 / 3章 1-3節)


バプテスマとは、洗礼と呼ばれています。
悔い改めの儀式のことです。
悔い改めとは、自分の罪を認識し罪を許してもらう儀式です。


つまり、イエス様の十字架のあがないによって私の罪が許されたと告白することです。


そのことにより、私たちはみ言葉を蓄えることができ私たちの中に天国が近づいてくるのです。
ヨハネは荒野でこのように叫んでいました。


荒野とは神様から離れていたときの私たちの心の状態です。


何のために生まれ、生きているのか?と悩んでいる心の状態です。
『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』とは私たちの立ち方を神様に従う立ち方に切り替えなさいということです。
それは、イエスが主であることを告白し、み言葉を蓄えて、祈りによって神様と交わることです。
see you !!

2006-03-30 16:05:41

神の愛

テーマ:ローマ人への手紙

わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。
正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。

善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。
しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、
神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
(ローマ人への手紙 / 5章 6-8節)


「神は愛なり」という言葉を耳にしたことがあります。
でも、「神の愛って何なのかなぁ」って考えたことはあるでしょうか?


神は霊です。そして、イエス様も私たちも霊です。


霊である私たちはこの世に生まれ体という自動車のようなものを運転しているのです。


しかし、私たちの霊は、アダムが犯した罪(原罪)から次々に伝達されており罪の状態にあるのです。


その証拠に、何のために生まれ、何のために生きるのかがわかりません。


そのような私たちを救うためにイエス様が救い主キリストとしてこの世にこられ私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったのです。


そして、それを信じる信仰により私たちは放蕩息子から神の子として迎え入れられたのです。


それが、神の愛です。


好き勝手な人生もいいかもしれませんが、このことを知らなければこの世でいくら成功してもすべてが無駄になります。
see you !!

2006-03-29 11:25:20

種まき

テーマ:マタイによる福音書


イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。
まいているうちに、道ばたに落ちた種・・・ほかの種は土の薄い石地に・・・ほかの種はいばらの地に落ちた。
ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
(マタイによる福音書 / 13章 4-8節)


ここでいう種は神の言葉です。


それが私たちの心に蒔かれた時どうなるのかを話しています。


道ばたとは、御国の言を聞いて悟らない心です。


石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受けるけども、その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまうということです。


いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。


また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるという譬です。


私たちの心の状態をいつも耕して良い地にしておかなければ見言葉は入っていきません。


日常の中でさまざまなことがありますが、心を沈め、日常生活のことにとらわれない立ち方が必要です。


神を信じる信仰の中に私たちの平安があります。
see you !!

フェデリコ・バルバロ
聖書―旧約・新約
笹倉 明
聖書と旅した商人
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