前回は熱田神宮に伝わる伝承をもとに草薙の剣は天武天皇より壬申の乱の褒美として尾張に下賜されたものではないかと考えました。その時の褒美として10の神社をヤマトタケルの伝承を持つ神社として祭神を変更されたのですが、あまりに古い時代の話なので元の神様の名前がよくわからないケースが多かったのです。でもその中にある成海神社は出雲の神様であるカヤナルミかトリナルミではないかと考え様々な文献を負ったのですがやはりあまり痕跡は認められませんでした。今回はまず異伝である道行が実は生きていたという話から始めましょう。

 日本書紀に記載されている草薙の剣盗難事件の記事は2つ
①天智七年是歳条、
 是歳、沙門道行、盗草薙劔、逃向新羅。而中路風雨、荒迷而歸
 この年、僧である道行が草薙の剣を盗み出し新羅に逃げようとした。しかし道の途中風雨にみまわれ、道に迷い戻ってきた。

②朱鳥元年六月戊寅条
 戊寅、卜天皇病、祟草薙劔。即日、送置于尾張国熱田社
 つちのえのとら、天皇の病気を占うと草薙の剣による祟りだとわかりました。そこでその日のうちに尾張国熱田の社に置くようになった。

 まず①に関してはどこから持ち出されたのかは書かれていません。熱田神宮の伝承では熱田から持ち出されたとありますが、当然後世になって記述されたことなので、真相は解りません。もしかしたら白村江の戦いのために中大兄皇子が大和から持ち出したのですが大敗を喫したために新羅の僧のせいにしたという可能性もあるのです。それは知多の法海寺に伝わる伝承によると、持ち出した大罪人の道行がその後天智7年(668年)この地で持念修法し、霊感を得、薬師祈願により、度々、帝の御不例を平癒したため、その功により勅願と寺領を賜った。以降淳和天皇に至る十三代の勅願寺として、内外十二院を有する壮大な寺院になったと伝わっているのです。国の神宝を持ち出した大罪人がのちに罪を許され立派な寺院を建てることができたのです。本当に道行は大罪人だったのでしょうか?
 ではもともと草薙の剣はどこにあったものなのでしょう?日本書紀の神代の条には「草薙の剣は熱田の祝部が守護する尾張国にあり」という記事と「大蛇を切った剣は石上にある」とあるのです。つまり間違えていけないのは大蛇を切った剣は十握剣でありそれは石上神社にあった、そして尾を切った時に出てきた剣は草薙剣であり日本武尊が東方征伐の折に熱田に宝蔵されることになったとあるのです。でも実際はどうだったのでしょう?それはまず草薙の剣の原型、天叢雲剣の由来を見てみると興味深い伝承も伝わっているのです。

 スサノオのヤマタノオロチ退治の折に使ったのは十握剣なのですがそれは日本書記の一書の第二は「蛇の麁正(おろちのあらまさ)」、一書の第三は「韓鋤の剣(からすきのつるぎ)」、一書の第四は「天蠅研剣(あめのははぎりのつるぎ)」と記し、いろいろな名前を持っています。ところが、この剣について一書の第二は「今、石上に在り」と述べ、一書の第三は「今、吉備の神部(かんべ)のところに在り」としています。一書第二の石上はおそらく現在の奈良県天理市の石上神宮だと思われるのですが、第三の吉備の神部は岡山県赤磐市にある石上布都神社ではないのかとも思われるのです。このことは石上布都神社の社伝でも伝わっており、現在でも宮司さんの名字は物部となっているそうです。そうすると朝鮮半島由来の製鉄技術集団がこの吉備の石上に渡来しこの地で製鉄を行っていた痕跡ではないのかとも思いました。そして後年大和の石上が物部の本拠地となる前は、ここ吉備の石上が物部の本拠地であり、渡来の製鉄技術をいち早く取り込んでいたとも考えられるのです。さらに面白いのはそこから北上して四十曲峠を越えると伯耆国日野郡に入るのです。その
四十曲峠の手前の地名は和名抄が記す美作国真嶋郡美甘郷(まじまぐんみかもごう)、現在の真庭市美甘地区。この名は、何と、崇神紀の出雲神宝事件において飯入根の弟として出てくる美甘韓日狭(うましからひさ)と同じ名前なのです。さらにその北側には天孫降臨伝承の残る蒜山(参照天孫降臨伝承を訪ねる (3)  岡山県蒜山・高天原伝説 )もあり、さらに古事記が「肥の川」、日本書紀が「簸の川」とする川を、現在は島根県の斐伊川と考えるのが一般的なのですが、この一連の伝承から鳥取県の日野川の可能性もあるのではないかとも考えられるのです。

 話はだいぶ横道にそれてしまいましたが、おいらが何を言いたかったかというとヤマタノオロチを倒した十握剣も、その時得た天叢雲剣もいづれも吉備の山中を源とした物部の伝承であった可能性が高いと考えられていることです。そして彼らは初めはヤマト盆地の葛城の地に入り、葛城の地で製鉄を始めた。それこそが鳥信仰と鴨族 (2)もう一つの天孫降臨 高天彦神社 に代表される天孫降臨伝承の残と葛城にいた尾張氏の源流だったのではないかと思うようになりました。つまり吉備=葛城=尾張が物部を介してつながっていったのです。また、葛城はもう一つ出雲ともつながりが見られる土地柄だったのです。葛城は賀茂氏の本貫地であり、しかも、葛城山自体、元々は「かもやま」と呼ばれていたそうです。そして賀茂氏が奉斎していた「一言主神」は出雲の大国主の子供である事代主と同神とも言われています。それらは大田田根子を介し葛城氏の神を賀茂氏が祀って来た理由もここにあり、同族であるからこそ、同じ神を祀っていたのであり、そうすると葛城氏も隣にいた蘇我氏も共に三輪・賀茂氏の一支族ということになります。そして蘇我氏が同族ということは、賀茂・三輪氏と同じ出雲出身である物部氏も、そして大伴氏も、実は蘇我氏と同族と言うことになってきます。つまり出雲という言葉は吉備から畿内に入ってきた氏族集団を指していたのではないかと考えたのです。
 話は出雲論まで飛んで行ってしまったのですが、そうすると尾張にいた尾張氏や物部氏等もまさにこの出雲族であり、それらを祀る神は国津神であったと思われます。当然名古屋市緑区にある鳴海という地名の由来は国津神であるトリナルミかカヤナルミからきていると思われるのですが、その後の天武天皇の時代にヤマトタケルの神話に祭神を変えられたというのが真相なのかもしれません。それは当時の国際情勢を考え、旧倭国の祭神だった出雲の神様をことごとく隠し、新たな天照大神を中心とした国家に変えるためだったのかもしれませんがその痕跡は全く存在していません。
 そしてその後愛知県の知多で布教活動をしていた道行に密命を持たせ、熱田の地に草薙の剣を置き壬申の乱で功のあった尾張や美濃地方の尾張氏や物部氏、多氏(のちの尾張丹羽氏)、和珥氏(和珥氏の祖、天足彦国押人命の母は尾張出身だったといわれる)など、あ、そういえばその当時の国司守だった小子部 鉏鉤(ちいさこべのさひち)も多氏の一族だったですよね。その彼らに恩賞を与えるためにヤマトタケル神話を利用し、功のあったものにヤマトタケルの神話にゆかりのある伝承を与え特権としたというのも可能性としてはありそうです。その橋渡しとして新羅の僧、道行が動いていたのなら非常に興味深いことではないかと考えるのです。道行が天下の大罪人だったのか、それとも天武帝の命を受け尾張のヤマトタケル伝承をもたらした人だったのかそれは今となっては解りません。しかし、地元では彼を慕うお寺が今も残っていることも確かなのです。

薬王山法海寺

 
所在地:愛知県知多市八幡平井16
 
宗派:天台宗
 
 
 地元では通称「寺本のオヤクッサン」と親しまれている天台宗の薬王山法海寺(ほうかいじ)は,知多半島では唯一寺院跡の遺構が確認されている古刹(こさつ)です。
 
ここは天智天皇の代の創建という寺伝が残り,発掘研究がこれまで幾度となく調査が行われてきました。その結果,弥生・古墳時代の貝塚の上に建つ古代寺院址であることが確認され、出土した古瓦の文様を細かくみていくと、白鳳時代の特徴をもつものが確認され、法海寺の歴史の古さを感じさせるのです。
 
このように白鳳時代と思われる三重塔の敷石が今でも境内の中にあります。
 
 
最近建て替えられたのか、まだ新しい薬師堂の本堂で、周りに小さな堂宇や塔頭があります。
 
  
 寺宝として鎌倉時代の仏画や密教仏具、御深井焼の大花瓶など貴重なものが多く残されており、県指定・市指定の文化財になっています。

  
この知多の法海寺の近く、東海市名和には古墳時代前期の四世紀ごろと思われる兜山古墳という古墳があったそうです。直径は南北約43m、東西約49m、高さ約4.5mもあったとされていて、標高約20mの丘陵上に築かれた巨大な姿は、当時の人も目を見張ったのではと思います。
 
 残念ながら兜山古墳は現在は残っていないそうですが、そこから出土した三角縁神獣鏡は名古屋市博物館に所蔵されているそうです。兜山古墳から明治13年(1880)に出土したとされる鏡は、長らく所在不明でしたが、出土当時に残された模写図が決め手となり、この鏡がそれにあたることが判明したそうです。
 
 尾張地方の古墳時代前期の古墳では、志段味古墳群の尾張戸神社古墳や白鳥塚古墳と並び、この知多のこの辺りにも古くから大きな力を持った権力者がいたことをうかがわせます。

 もともと草薙の剣は熱田にあったのか?それとも大和の飛鳥の宮の中にあったのか?それとも石上神社にあったのか?今となってはそれは謎のままです。しかし②の占いで草薙の剣が天武天皇を祟ったから熱田の地に収めたという日本書紀の記述では少し説得力に欠けるような気がします。なぜなら祟る剣を移したのに、その3か月後の朱鳥元年9月11日に病死してしまうのです。そう考えると壬申の乱最大の功労者である尾張地方に褒美を与えるのだが、神宝をただ尾張に下賜するだけだと、中央集権を推し進める立場上問題があったので、あえて朱鳥元年6月10日の熱田社への送置の前提を造るため新羅僧の罪科の話を、一時宮中に置かれてあつた事由を読者に暗示するような形で日本書紀編纂の際に創作したという可能性は否定できないと思います。

 つまりおいらは日本武尊、草薙の剣の物語が確立したのは、神代の話ではなく、比較的新しい時代、天智、天武天皇の時代 尾張氏の勢力が確立された時代であったのではなかろうかと思ったのです。