『戦国のあいち 信長の見た城館・陶磁・世界』を見に行って

 


愛知県陶磁資料館
愛知県瀬戸市南山口町234
 
 この愛知県陶磁資料館は、以前あった愛地球博(愛知万博)の会場から北西に行ったところにあります。
 『戦国のあいち 信長の見た城館・陶磁・世界』展は写真撮影禁止だったので常設展のお話だけしていきますね。
ココには古代から中世、近代までの日本から世界各地の陶磁器が収集され展示されています。おいらはその中でも古代の土器について注目してみてきたのでご報告しますね。

その前に縄文土器と弥生土器がわからない方は下をご覧ください。


ってわかるわけないだろー!(怒)という人のために、、、、、www




縄文式土器

装飾に縄文(縄で文様を描いた)を用いたものが多いことからこの名前があります。ただし縄文のない縄文式土器も多く、逆に縄文のある弥生式土器もあり、必ずしも土器の縄文の有無が縄文式土器の基準とはならないそうです。
 
一説によると縄文式土器の装飾は女性のお仕事だったそうですよね。
 
縄文時代は基本的に食物採集の文化であったといえます。縄文人たちは採集した食物を食べ、余ったものは穴や屋根裏に貯蔵して、必要に応じて取り出したものと思われます。貯蔵されていた食物の内訳は、クルミ、クリ、トチ、ドングリなどの堅果類が中心であることから、縄文人の主食はこれら堅果類であったと推測されます。なかでもドングリ類の比重が高かったものと思われます。
 
そういった食料を貯蔵する用途に使われていたものと考えられます。


弥生式土器
紀元前2世紀より紀元3世紀に作られた素焼きの土器で縄文式土器より高温で焼かれました。赤茶色。壺・甕・鉢・高杯・器台・盤などがあり、口の部分は水平なのが特徴で、文様はシンプルなものが多く、やがて土師器(はじき)へと移っていきます。また、土器の表面を赤くぬったパレス・スタイル土器が弥生時代の後期にこの地方を中心に現れました。
  
 
 その中で今回特に特集を組んで陳列していた東海最大の弥生集落「朝日遺跡」の展示はなかなか見ごたえがありました。
 
 弥生時代後期から古墳時代初頭の尾張地域を特徴付ける土器として赤彩土器があげられます。この土器はギリシャのクレタ島クノッソス宮殿跡出土の宮廷式土器になぞられて「パレス・スタイル」土器と呼ばれています。
 
 朝日遺跡は縄文時代末期の土器から弥生時代前期の全国最大規模の貝塚、東日本最大規模の集落跡、さらに古墳時代の水田跡へと同じ場所に時代の異なる人々がすんでいたのがわかっています。それだけ昔から住みやすい土地だったんでしょうね。
 

この頃に出土した面白いものに銅鐸の舌(銅鐸を音として鳴らすもの)が愛知県一宮市の八王子遺跡からはひっくり返して埋められた銅鐸とともに出土しました。これも展示されていたのですが、きっと興味のない人が見たら「こりゃなんだい?」と思うでしょうね。
 
上にあるのはなぜか穴のあいた壺です。専門用語では「円窓付土器」と呼ばれるのですが、何のために穴があけられているのかはよくわかっていません。
 
ものによってはこんな大穴が開いています。この土器の多くが墓域とその周辺から出土していることと、焼成後穿孔されていること、あと屋外にさらされたと思われる「風化痕」がみられることからお墓にお供えした土器ではないかと考えられています。

土師器
この後、畿内より土師氏が尾張氏とともに尾張に勢力を伸ばしていきます。このような古墳前期の土器を土師器(はじき)と呼んでいます。
 

初期の古墳時代(4世紀より)では古墳には円筒埴輪が主たる埋葬物となっていきいます。これらを称して土師器というのですが、基本的には弥生土器を継承するものなのです。特徴として胎土(たいど)がより緻密になり、焼成に窯を使うなど次第に高度な焼き物となっています。
 
 いまでも土師器は私たちの生活に用いられていて、冬にお鍋で使う土鍋として残っています。

須恵器
古墳時代中期(5世紀)に朝鮮半島から新たな製法が伝わってきました。これらは灰黒色の無釉陶器でした。これらを称して須恵器と呼んでいます。
 
 非常に実用的な焼き物となっています。
 
 このように鳥の形をしたものも現れます。
 
 高杯もこのように複雑な形状となっていきます。

こうして愛知県では最も古い焼き物「猿投焼」へと変化していきます。
元々継体天皇の義父・尾張連草香(おわりむらじくさか)の墓と目される東海地方最大の前方後円墳、断夫山古墳から出土した円筒埴輪も猿投型と考古学では分類され、その古さは古墳時代中期より窯があったと考えられています。しかも興味深いことに関西にもこの猿投型の円筒埴輪は波及しているのです。
 
 この猿投窯から後に美濃焼、瀬戸焼へと変容してきます。つまり現在の日本の陶器の基礎は尾張から始まったとも言えると思います。

最後においらの好きな焼き物があったので紹介しますね。
 
 黒織部の茶碗です。。「ヘウゲモノ」と宗湛(そうたん)が評した古田織部(1544~1615年)の好みによる瀬戸茶碗のひとつで、伝世例は極めて少ないのだそうです。「剽(ひょう)げもの」とは、端正な形に対して、作意的にいびつさを造形し、茶碗に個性と諧謔(かいぎゃく)味をもりこもうとしているところから出た印象があり渋さがおいら的にはたまりません。あんまり茶碗は詳しくないのですが、渋渋の利休推薦のものよりはおいらはこっちの方が好きかなー