権力者に媚を売ったり、弱者を嘲ったりするのはかつては日本人庶民の感覚として「恥」とされていた。

しかし、そういった、時代劇で小憎らしげに「お代官と越後屋」トークが書かれているのは、もはや日本人が捨てつつある感覚なのだろう。

正月番組にしょぼくれた顔の自民党議員を呼んでナルシシズム全開で熱唱させ、その自己陶酔におべんちゃらをつかっている連中を見て、これを「恥」と思わないで放送で垂れ流す感覚が、マスコミ先導で庶民にしみこんでいくのだな、と思った。

先の選挙での汚いやり口を「毅然」と言い換えて、それを支持したことを「多数派は正しい、普通の一般市民(自分)の感覚は正しい、自分たちが多数派になったのだから正しい」と敗者を嘲ることを自分に許した「多数派」の「日本人」たちの心には、かつて日本人が規範としていたはずの「敗者にも礼を尽くす日本人」はない。


「日本人の善さ」とは日本人が生来持ったものではなく、日本人が代々心に留めて、そうあろうと思い続けた理想像であったのだろう。それを「利口でない」と言って捨てた日本人は醜いだけだ。

日本の最高責任者が「ずる賢い策士で勝ち組の権力者」の手本を、マスコミがそれにおもねる商人の手本を、「これは何も恥ずかしいことではありません。勝てば礼なんかどうでもいいんですよ」と示し続ければ当然本来「理想」とされていた「利口でない礼を忘れず負ける側」は惨めなだけだ、という感覚に変わっていく。

「日本人が変わった」と言うなら日本人の理想が「精神的なもの」から「物質的なもの」変わったのだ。


しかし、こうした「権力者の(礼を失した)賢い日本人」の発言が世界に発信されていると思うと、俺は日本人として顔を覆いたいくらい恥ずかしい。


葬式だと会議無意味 麻生氏、シャロン氏容体で

 麻生太郎外相は9日、福岡県飯塚市で開いた集会であいさつし、シドニーで予定されていた日米豪閣僚級安全保障対話が延期されたことに関連し「イスラエルのシャロン首相の容体が極めて悪く、会議途中でそのままお葬式になると意味がないので延期ということになった」と述べた。

 シャロン首相は、自発呼吸を再開するなど容体安定の兆しも出てきたところだけに、麻生外相の発言は配慮を欠くとの批判が出る可能性がある。

 麻生氏は「テレビニュースで出てくる人の容体が自分の日程に関係する経験をして、あらためて外相は大変だと認識している」などと述べた。

 日米豪安保対話は11日にシドニーでの開催が予定されていた。

(共同通信) - 1月9日22時31分更新


一国の首相に対してかくも礼を失った発言ができるのか、これがわが国の外相か。そしてこれを報道しないマスコミのおもねりに絶望を覚える。