お゛あぁ…。どうも、アル中のおっさんです。
昨日は日中に散歩してたもんで、夜勤やってるとそういうリフレッシュのせいで睡眠タイミングがズレるので、週の初日は徹夜して調整するみたいなことをよくやるわけです。
静かで、静かにしてなきゃいけない時間。
そりゃYouTube見たりコンビニ行ったりはするんだけど、陰鬱にならないわけもないんだ。
難儀だ。
さて、昨日はナナフシモドキのオスから僕個人の幸せについて考えてみたわけだが、ド深夜に酒飲んでたら生の肯定なんかできるわけもねぇ。
そこで、「何故僕『たち』は不幸なのか」についても考えてみた。
まぁ過去のトラウマなんかに関しては人それぞれなので一旦置いておく。
今回考えたのは、時代の進歩に関してだ。
何個か前に昔を振り返ってたわけだが、僕は時代の進歩に追いつけてない実感がある。
それに関しての言及だ。
かつてのネットゲームは人口の少なさから競合が苛烈だったと言った。
だが、現在は人口の多さが問題なのだと思う。
少子化なのにネット人口の多さが問題なのだと。
誰でもネットに繋がれる。
何もかもがオンラインに対応してきた。
昔の家庭用ゲーム機ってのは、ゲームとプレイヤーの戦いだった。
ポケモンならチャンピオンリーグや伝説のポケモンとの戦い。裏技を試したり。
通信ケーブルや攻略本はあったけど、対人戦に関しての必要知識は今よりも少なかったのは間違いないだろう。
というか、対人戦をやろうと思ってた人口も少ないだろう。
だが現代はどうだろう。
努力値や個体値、種族値と言った厳選をせずにはいられないんじゃないか?
裏技は卑怯な手法として毛嫌いしてないか?
今更オフラインでゲームを楽しめるか?
あの頃みたいなワクワクを感じないのは、大人になったからなのだろうか。
僕はオンラインの、対人戦の容易化が原因だと思う。
別の例を出そう。
昔のゲームセンターって、格ゲーのイメージが強かった。
だが今はどうだろう、UFOキャッチャーや音ゲーが全面に押し出されていないか?
昔の格ゲーはその店の、裏側の筐体に座っている人間との戦いだった。もちろんストーリー、所謂CPU戦はあったが、優先されたのは対人戦だ。
今や全国の筐体と繋がる。
全国ランキングが表示される世界では「その店で一番上手い」は意味をなさない。
音ゲーは特殊だ。見応えという芸術性が担保されている。
対人よりも一曲毎のスコアという個人目標にも留まっている。
学校でも習い事でも何でもいい。
競合する組織、その中での上位を目指すことが人類には幸せだったのだと思う。
狩りが上手い。
食べられる草を知ってる。
地理に詳しい。
そういった役割を探すこと、それが進化の過程では優勢に働いただろう。
2位や3位だろうが、組織を分散したり休みの交代にはその存在が必要となる。
だが、現代は何かにおいての上位を目指すことが難しい。
都道府県市町村。近所の人との繋がりは少ないのに、僕たちは何故か世界と競わなくてはならない。
最早オンラインという呪いだ。
閉じられたコミュニティはないのに、開かれた世界に立っている。
この現状は進化の過程にあった幸福と乖離している。
僕たちは新しい幸福を定義しなくてはならない。
承認という社会的幸福から、個人的な幸福へ。
個人的幸福を求めながら、社会的に生きる手法を。
それは社会との摩擦を増幅させている。
政府をはじめ、あらゆる組織は個人的幸福ではなく全体の、最大多数の最大幸福を求めざるを得ない。
僕たちは他者からの要求と個人の内なる欲求を同時並行して叶えていかなくてはならない。
そして、それらを叶えられる人間は極めて僅かだ。
だから僕たちはそもそも幸福にはなれないのだろう。
不幸せになるしかない社会を、世界を、人類は進化の過程で作ってしまった。
だからこそ、社会の要求する幸福には耳を貸さないことが必要なのかもしれない。
アドラーのいうように、他者に嫌われてでも個人の幸福を追求すべきなのかもしれない。
僕たちは社会的な生物であったが故に、社会性を否定しなくてはならない段階にいるのではないだろうか。
その先で、新しい幸福論を考えた方がいいのかもしれない。