リコネクション | 森羅万象をつなぐスーパーコネクターどろんnのブログ

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ごきげんよう どろんnです

いつもいいね並びにフォローありがとうございます

漸くコロナも収束に向かい落ち着くかに見られたころ

今度は宇露戦争というwどえらいことになっていますが

歴史を見ると 73年のオイルショックとハイバーインフレと

同じようなことが起こっていたと知ります またボストン

マラソンの犯人がチェチェンの難民とあるように90年の

チェチェン紛争も同じようなことが起こっていたと知ります

つまり偶発的に起こったのではなく 歴史は繰り返されている

ということを知り 未来というのはある程度予測出来うる

ものと知ります

 

 

 

とあるブログの抜粋の抜粋ですがw

(時空を超えて生きる Kan)

 

 

ーマザー・テレサがいよいよ最期を迎えるというとき、

イエスが来るかも知れないと期待していた所に現れたのは、


「悪魔」でした。


それで、彼女はヴァチカンに悪魔祓い(エクソシスト)を依頼し、

実際に執り行われましたが、


悪魔は立ち去りませんでした。


マザー・テレサは落胆し、落ちるところまで落ちたその時、


ふっと悟りがやってきます。


「私は、どんな病気にかかった人であろうが、どんな状態の人であろうが、

無条件に受け入れた。

たとえ患部から膿が出ていようが、接吻して、看取ってきた。

そうか。

私が最期にハグをしなければならないのは、悪魔かもしれない」


そうして、マザー・テレサは悪魔とハグをしました。


キリスト教徒にとって悪魔というのは、私達日本人には想像できない程の

深い概念を内包するものです。

この時のマザー・テレサの覚悟を思うと、いかばかりだったかと想像を

絶するものがあります。


そうして、悪魔は消えました。


その後にやってきたのは、


本当の悟りでした。


「悪魔だと思っていたけれど、やってきたのは真逆の自分だったのね」


誰から見ても、清く生き、権力やお金を忌み嫌っていたという彼女は、

権力からの寄付を「そんなものは汚い」と、受け取りを拒否したといいます。


それは、やはり裁く自分がいたからです。


清く生きるという事の中に、どこかに否定する自分がいたのです。


だから、最期に反対側の自分がちゃんとやってきました。


それが自分には悪魔に見えたけれど、ハグする事ができて、


本当の統合が起こりました。


そうして亡くなっていきました。

 

 

また ナイチンゲールの話しでは

(古くは新しいフローレンス ナイチンゲールより)

 

 

フロレンス17歳から19歳にかけての1年半に及ぶ

ナイチンゲール家のヨーロッパ大陸旅行を彼女は徹底的に楽しみ、

パリなどの社交界で評判を取る。上辺だけを飾る、

快く楽しいだけの日々に実際溺れる。しかし、 目覚める。

 

“社交界で輝き渡りたい” という誘惑を乗り越えねばならない、

これが私フロレンスの一番の課題だ、と手帳に書く。

 

目覚めた彼女は、神が17歳の彼女に命じた“神の仕事” とは

何であるかを必死で探る。 5年ほどに渡るその探りの日々でも、

病人の看護がそれだと思い知ってからの更なる10年ほどの間にも、

家族の妨害と闘い、すなわち自分と闘い、安易安逸を退けて

筋金入りとなった。

 

実は、人生の己惚れ(彼女の表現)を求める自分と容易には別れられず、

そういう自分を責めた。集団の中で注目の的になっていないと 

気のすまないところのある自分、そういう人生の己惚れを彼女は退けた。

彼女の姉はこの人生の己惚れに浸り切っていた感があるが、ある伝記作家は

その姉パスィノープはもうひとりのフロレンスだったと言う (Gill,2004)。

フロレンス・ナイチンゲールは自分の内に巣くう虚偽と対決して何とか勝った。

“悪しき己れに対する善き己れの戦い” に自分を奮い立たせて

何 とか勝ったのである。

 

 

このように聖者がまず歩む道とは自らにある悪魔との対峙であるということです

聖書にも

 

 

また天から声があって言った、

 

「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。


さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。

悪魔に試みられるためである。
そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
すると試みる者がきて言った、

「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように

命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、

 

「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る

一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。


それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて
言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。

『神はあなたのために御使たちにお命じになると、
あなたの足が石に打ちつけられないように、
彼らはあなたを手でささえるであろう』
と書いてありますから」。


イエスは彼に言われた

 

「『主なるあなたの神を試みてはならない』

 

とまた書いてある」。
次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世の

すべての国々とその栄華とを見せて
言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを

皆あなたにあげましょう」。
するとイエスは彼に言われた、

 

「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。


そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。
さて、イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。

 

 

 

 

ある時、神はアブラハムの信仰を試された。

 神が「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が「はい」と答えると、

神は命じられた。

 

「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。

わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、

息子イサクを連れて神の命じられた所に向かって行った。

三日目になって、やっとモリヤの地にある山に着いた。

 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ

自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。

 

 イサクは父アブラハムに、「お父さん」と呼びかけた。

 彼が「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。

「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」

 アブラハムは答えた。

 

「子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」

 二人は一緒に歩いて行った。

 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築いて薪を並べ、

息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。

 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を殺そうとした。

 

 そのとき、天から使い(天使)が、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。

 彼が、「はい」と答えると、天使は言った。

 

「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、

今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、

わたしにささげることを惜しまなかった。」

 

 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が

角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに

焼き尽くす献げ物としてささげた。

 

 

 

およそ信仰とは何か

 

愛するということは何か

 

を思い知らさられる内容となっています

 

我われは地を受け継ぐ者でありながら 

魂は天と共にあらなければならない

 

 

つまり 大きなパラドックス(矛盾)が生じているのがわかります

 

この世界での繁栄とは退廃への入り口であり

この世界での順応とは退化というゴールでもある

 

その中でエゴの自分というのは”虚偽である自分”というペルソナを

隠し持ち ないことにしながら 世の中で尊敬される人 無私な人と

敬愛される中で安住しつつ いつかそれが白昼のもと さらされる恐怖に

おののいているものです

 

人間にもなり切れず 神にもなり切れない 

もののけ姫でこんなセリフがあります

 

 

ーアシタカ「モロ…森と人間が争(あらそ)わずにすむ道はないのか?

ほんとにもうとめられないのか?」
モロ「人間どもがあつまっている、きゃつらの火がじきにここにとどくだろう」
アシタカ「サンをどうする気だ。あの子も道づれにするつもりか!?」


モロ「いかにも人間らしい手前勝手(てまえがって)な考えだな。

サンはわが一族の娘だ。森と生き森が死ぬときはともにほろびる」
アシタカ「あの子を解きはなて!あの子は人間だぞ!」
 

モロ「だまれ、小僧!おまえにあの娘の不幸がいやせるのか。

森をおかした人間がわが牙をのがれるためになげてよこした赤子が

サンだ…!人間にもなれず山犬にもなりきれぬ哀れで醜い可愛い

我が娘だ!おまえにサンをすくえるか!?」
 

アシタカ「わからぬ…だが共に生きることはできる!」
モロ「ファッファッどうやって生きるのだ。サンと共に人間と戦うというのか」
アシタカ「ちがう!それでは憎しみをふやすだけだ」
モロ「小僧…もうおまえにできることはなにもない。

おまえはじきにアザに喰い殺される身だ。夜明けとともにここを立ち去れ!」

 

 

この手前勝手な考えというエゴは 自らの正義とその他の悪

という2元論に そう割り切れない現実を 無理やり押し込めて

救いという自惚れを導き出します

 

また対峙している敵とは本当に敵なのか?

山を焼き 神聖な場所を汚しているのは人間ではないのか?

 

 

ここに究極

ー対自分 以外

 

 

という観念の限界と 同時に生まれるパラドックスとカオスの

連鎖が生まれる種子が芽生え始めているのがわかります

 

 

つまり 人類はエゴという自分にこだわり続ける限り

理解できないものは隔離 裁くという

果てしない分離(ネガテイブ)から決して逃れられなくこのままでは

余裕のない排他的な道筋を追い 自滅することを余儀なくされる

ということでしょう  

 

 

 

 

リコネクション エリックパールより

 

 

ーその後ある種の堕落 僕たちを愛と幸福の中で一つに
結び付けてくれていた諸力からの離脱 ーが起こった
 ー分離
 ある人たちは この出来事がエデンの園に起因するとしている
 またある文化は これはそれよりも前のある時点に起因する
としている わずかに内容が異なることはあるが この話は
世界共通で 人類の集合的無意識の中に閉じ込められ 僕たちの
遺伝子に刻み込まれている

 程度に差はあるが リコネクション現象は 内在する記憶の中で
この黄金時代に僕たちを連れ戻し 僕たちがすべての生命と深く
つながっているという原初の感覚に結び付けてくれる しかしながら
それは単に時代を逆行するというだけでなく 新たな何かに向かって
前進することでもあるのだ ヒーリングはこの全体性からやってくるのだ
 それが真のヒーリングであり 進化的ヒーリングなのだ

 ー全体だった そのため 僕たちをリコネクトさせる特定の周波数は
必要ではなかったのだ 最初からずっと僕たちに備わっていたものは
この種の周波数を受け入れ それに順応することができるレベルまで
集合意識を高める能力なのだ ついに僕たちの集合意識はそのレベルに
達し 宇宙が それらの周波数を公開する時間は今だと決めたのだ

 僕たちはみな この新しいヒーリング周波数を運ぶ能力を持っている
 グルとか 聖人 聖女といった少数の選ばれた人たちだけに与えられる
能力ではないのだ その能力はこの時代の贈り物であり 僕たちが
導きのために必要とする知性や叡智はすでにちゃんと用意されている
 人類として僕たちが入っていこうとしている周波数レベルでは 真実で
ないものはそれらの振動(波動)と同調することができないばかりか
 密度が高すぎて それレベルにとどまることができずただ離れていく
ことなるだろう


 ー分離の感覚は癒され 迷信は解き放たれるだろう


 非常に多くの恐れがどのようにして愛と美の儀式に見せかけてやってくる
のかを認識することにより恐れから抜け出すという ワクワクするような
プロセスに僕たちは乗り出しているところなのだ

 

 

エゴはまた 物事をあるがままに正しく評価する能力の中に そして
正しく評価することがヒーリングにおいて 僕たちの役割であると
認識する能力の中にー入り込んでくる
 僕たちがすでに完全・完璧な状態で現れているものと交流していることを
認識するときー完成しているものに手を加えたい という気持ちはなくなるだろう

 その完全性に手を加えようとすること 何かー加え ようとすること
ー改善しよう とすることはそこに顕現しているものを僕たちから
そしてその完全性から どんどん遠くへ押しやってしまうことになるだけだ

ーこれは自分の内部に基礎を置く(すなわち主観志向の)かわりに 自分の
外部に基礎を置いた(すなわち客観志向の)自尊心の表れである

僕たちはこのような人を知っている そのような人は 自分は重要だと感じる
ために 何かに変化を起こさずにはいられないのだ 変化そのものに内在する
価値のためにではなく ー良くなったこと を見せるために 何かに対して
自分が行ったことの効果の外的証拠を得て 願わくばそれを他の人たちに
認めてもらわんがために これは僕がー霊的に人を出し抜く術 と呼ぶ
エゴの形態だ



 感傷的な愛は リコネクテイブ・ヒーリングを仲介する愛ではない
 そのような愛は 宇宙を創造している愛の本質からほど遠い
 死後の世界を体験した人で その体験そのものがー愛 である
ことを理解できるレベルまで行った人に聞いてみるといい

 これらのヒーラーたちは 愛を甘言と勘違いしているのだ
 それはホルモン性の愛でもなければーあなたがいなくてはダメ
式の愛でもなければ 目を潤ませてーお気持ちをお察しします
式の愛でもない それはすべてのものを包容する創造と意識の
愛なのだ それはあなたがエゴから抜け出し 脇にしりぞき


ー観察するものと観察されるものの両方になれる


ようにしてくれた それにより患者にも恩恵をもたらす愛なのだ
 それは身体を創造したパワーにその身体を癒させてあげる愛だ
 そのとき 変容が起こる そのとき 光と情報が流れる これが愛だ

 ー愛を体験する準備ができる前に恐れをすべて手放す必要はない
あなたは恐れを腕に抱えたまま愛の中に入っていくことができる
 ひとたび愛の中に足を踏み入れれば 恐れは幻想である本性を
現し 愛だけがそこに残るのだ
 

 

 

 

オイゲンヘルゲルの師 阿波研造の話しでは

 

 

 

一九二〇年( 大正九年) 、四十一歳の時に阿波は、決定的にエキセントリック

な体験をする

次のように表現している。 「 大爆発」を経験する

 

阿波は ある深夜、家族も寝静まり、四周は寂として音なく、月が穏やかに夜の

闇を照らすのを見るだけである

研造は一人道場に入り、

愛用の弓矢とともに静かに的前に進んだ。

 

決意があった

肉体が先に滅びるか、精神が生き残るか。

 無発。統一 。

一歩たりとも退かぬ覚悟の射であった。

 

苦闘が続く。肉体は既にその限界を越えた。

わがいのちもここに究まる。

 

 

 

遂に滅びた。

 

 

 

と思ったとき 天来の妙音が響いた。

 

天来と思ったのは、これまで自分にも耳にしたことのない、

もっとも澄明で、もっとも高く強い弦音であり的中音であった。

 聞いたと思ったと同じ瞬間、自己は粉微塵に消し飛んで、 

 目も弦む五彩の中、天地宇宙に轟々たる大波紋が充満した

 

 

 

的(の中心)を狙う(目には目を) それがだめなのです

無心(平和)になろうという意図がある時点で無心に

なり切れるわけがない

 

 

 

後にヘリゲルが阿波の立会いの下 完全な射を得たとき

 

ー今 それが射ました

 

といいました

 

 

ーそれ とは何だったのでしょうか

 

2元論の制約と肉体に囚われた魂的存在の僕ら

 

僕ら人類が本当はー魂に包まれる肉体であると

自覚するときはくるのか

 

また聖人が究極の葛藤の中で 見出した一つの境地とは

一体何なのか?

 

ただ エリックパールの述べるように 集合意識の分離から

 

長らく続く迷信の夢から

 

ー人類は目覚めかけている 

 

というのが見て取れます

 

ーリコネクション

 

それはマザーテレサが ナイチンゲールが 阿波研造が

自らの最大の葛藤の中で見た 世界ではなかったか

 

魂の存在である自らを見出した時 もっとナチュラルな意味での

統合と 千切れた神話の鎖が再び結ばれる時が来るのではないか

と思う今日この頃であります