渡来人、和国の王になる 隠された日本の源流 | 国家最大のタブー

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かぐや姫のおとぎ話には子孫に気づいて欲しい暗号が隠されてた。


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今朝、日経を見てたら朝鮮通信使を世界記憶遺産へ登録を目指す決起大会を長崎県「対馬」で行った、との
記事がありました。全くそのことに水を差す話ではないのですが、「対馬」の名前の由来について。中
華思想では、他民族を意味する言葉には、動物(魚を含む)の字を使う。ヤマト国を「邪劣な馬の台地
の国と蔑字(軽蔑の漢字)と馬の字を使って邪馬台国と表した。ヒミコについては姫巫女(ヒメミコ)の
ことを聞き間違えたのか、メを省いたのかのいずれかである。同様に蔑字を使い卑弥呼と書いた。ちなみにヒミコとは、宇佐家の豊玉姫である。話はとんでしまったがツシマは古くは、津島と書いた。意味
は「良港のある島」である。ところが漢民族が「対の馬の国」と書いたら、日本人も真似して「対馬」と書いた。なぜ 「日本書紀」でヒミコ・ヤマタイコクの話は省かれたのかというと、話は簡単である。
渡来人の子孫が和国の王になったからである。日本書紀が書かれた当時、奈良の都の貴族の大半は、渡来人・徐福の子孫である物部氏や海部氏が占めていた。先祖(渡来人)が和国の王になった話など、とても外交上、書けなかった。ちなみに日本で一番、多い姓である鈴木姓は物部系である。


■ヒミコ、ヤマタイコク不毛赤面論争

ヒミコ、ヤマタイコクは歴史の断面では、第二次物部東征の一コマである。詳細は、かぐや姫コード
(下巻)・「渡来人、和国の王になる」を参照。まずヒミコの正体は宇佐豊玉姫である。宇佐家という
のは、宇佐八幡宮の社家であり、九州の豊前と豊後が分かれる前の豊王国の王家だった。尚、豊王国
のウサ(宇佐)(ウサ族も母系家族制であった)。豊王国の宇佐王家は、豊前と豊後の中間の宇佐に
あった。月の女神(月読尊)月を拝む民族だった。ウサギ族と最初、言われてたが、なまってウサ族
になった。第二次物部東征を計画していた物部イニエ大王の再婚相手が宇佐豊玉姫であった。第二次
物部東征を実行する前に物部イニエ大王は短命で九州で亡くなった。宇佐豊玉姫は皇太后として女王
となり、イニエ大王の意志を引き継ぎ、第二次物部東征軍総指揮者となった。実行する前に魏に使い
を送り、魏の属国になるからヤマトの女王として認めてもらうことと、鏡、親魏和王の金印や旗等を
うけたまわった。第二次物部東征は物部軍と豊国軍とタジマモリ(辰韓ヒボコ子孫)軍の連合で行わ
れた。侵攻軍は瀬戸内方面と山陰側に分かれて進軍した。豊国軍が安芸の国に留まっていた248年
頃、女王宇佐豊玉姫は安芸国のえノ宮で没し、その遺体は「安芸の宮島」に仮埋葬された。戦時中で
あるので、女王の墳墓は厳島には造られなかったが、遺骨は宇佐に移された。宇佐八幡宮から見える
奥山に、墳墓があると言われるから、それが豊玉姫の墓であるらしい。遺骨の一部は宇佐神宮に移さ
れ、本殿の二ノ御殿の下に、ウサ家の先祖と共に祭られていると言う。二之間の神は「姫神」とされ
ている。

 中国人は中華思想により、他国のことを動物(魚を含む)の字を使ったり、蔑字で書いた。ヤマト
の国のことをそれで、邪馬台国(邪し馬の台地の国の意)と書いた。日本人が勝ってに日本語読みし
て、ヤマタイコクにしてるだけだ。尚、豊玉姫の娘・豊のことを台与(トヨ)と別に記載があるが、
台は(ト)と読む。ヒミコについては、中国人には姫巫女ヒメミコがヒミコに聞こえたらしい。それ
で蔑字で卑弥呼と書いた。尚、話はちょっとややこしいが、魏書に書かれた卑弥呼(姫巫女・ヒメミ
コ)は二人いて1人目が、魏書前半に書かれているのは150年頃のヤマト磯城王朝第7代のフトニ
大王の娘の三輪山の姫巫女(女司祭者)のモモソ姫である。魏書後半に書かれたの2人目の卑弥呼(
姫巫女・ヒメミコ)が、論争になっている卑弥呼(姫巫女・ヒメミコ)・宇佐宇佐豊玉姫である。宇
佐豊玉姫は月神信仰の姫巫女であった。どちらも同じ(姫巫女・ヒメミコ)・卑弥呼なのである。

■中韓連合に滅ぶ■紀元250年頃

 その物部氏勢力の猛攻撃というのは、中韓連合であった。「出雲王国」は紀元前400年頃~紀
元後250年頃の600年以上の長きに続いた王国であった。渡来人の徐福の九州の子孫である物
部氏の軍勢と紀元1世紀頃に辰韓(新羅)から渡来してきたヒボコの5世の子孫である田島間守(
タジマモリ)率いるヒボコ軍勢の渡来人連合による猛攻撃で滅ぼされた。特に田島間守(タジマモ
リ)は、先祖・ヒボコと家来集団が、出雲での上陸を許可されなかったことを根にもっていた。そ
のため、東征する前に出雲王家を皆殺しにすると宣伝していた。そして田島間守(タジマモリ)率
いるヒボコ子孫勢力は当時の出雲の祭場・田和山の王宮を猛攻撃で破壊した(田和山遺跡)。それ
が第二次物部東征での道中での出来事である。「記紀」では神武東征として書かれた。日本で最初
の王国、「出雲王国」は中韓連合によって、滅ばされた。残念ながら日本の政治家は自国の歴史を
知らないから、歴史認識で中韓にとやかく言われるのだ。それは、恩讐としてではなく、史実とし
て歴史を知るということだ。

■竜神(へび)信仰

 インドのガンジス川に昔、ワニがいたと言う。ワニは怖れられ神に祭り上げられたて、河の神と
呼ばれた。同じくコブラも怖れられち、森の神となった。両者は合体されナーガ(竜神)となり、
ドラビダ族に崇拝された。その竜神信仰を出雲族が倭国に持ってきた。その竜神が幸の神(サイノ
カミ)の眷属(けんぞく)神になっている。出雲族は竜をワラで作り、木にまきつけて、拝んだ。
その木は神木とされ、「斎(さい)の木」と呼ばれた。山陰地方は「斎(さい)の木」信仰が盛ん
な地域である。出雲族の竜信仰はへび信仰にもなっている。尚、縄文時代は、ほとんとが出雲族だ
った。ある時、縄文人が土でへびのトグロを作り、それを素焼きにした。そしてひっくり返して、
内側をなめらかにしたら器にいいことに気付いた。それが縄文土器の始まりだった。またヘビは世
界各地で男根の意味に使われた。ヘビ=生殖でもあった。尚、東出雲王国の向家の紋章は、竜鱗枠
(りゅうりんわく)銅剣交差紋であった。外枠はいわゆる亀甲紋ではなく、出雲族の崇拝する竜神
・ヘビのウロコの形である。銅剣は王者の象徴ともいわれた。出雲系の神社の社紋の外枠は竜鱗枠
になっている。山陰地方「ワラヘビ」の風習がある。竜神が斎の木を伝って昇天し、また斎の木を
伝って、天から地下に戻ると言う。その姿を示すために、地区の人々が集まってワラで竜を作る。
それを「ワラヘビ」と呼ぶ。出雲地方では、稲刈の後の十一月に、「荒神祭り」として、それを作
る。伯耆地方では、「ワラヘビ」の腹に大きな男根を付ける村もある。斎の木に巻き付ける時、「
抱き締めろ、抱き締め」と囃す。木の根には白い紙垂(男の種水の表象)がつけられる。白い紙垂
が多いと、男が元気な印で、お芽出度いという。 

■日本人と注連縄

 「記紀」で出雲王国史が抹消されたため、日本人は民族の源流、風習の意味がわからなくなった
。また幸の神(サイノカミ)のことも日本人は忘れてしまった。幸の神(サイノカミ)も国家に神道と
して横取り、利用された。そのため、日本人が本来もっていた原始土着的信仰・アミニズムがどこ
から来たのかわからなくなった。それは例えば、注連縄の本来の意味を知る日本人は皆無だ。イン
ドから民族移住したドラビダ族=縄文人=出雲族、幸の神信仰のことがわからないからだ。注連縄
とは出雲族のへび信仰に由来するものだ。注連縄とは雄雌のへびの交尾である。へびの交尾はあの
ようにぐるぐる巻きになって相手の目を見つめ抱き合い、固く結び合って行われる。古代人は自分
の種族を残すために、全身全霊を生殖に捧げている姿に崇高すら感じ、これは神の姿だと思った。
その一日がかりで行われる、その凄まじい子孫繁栄の性エネルギーの姿に圧倒され、神聖な畏怖の
念をもった。「へびの交尾」の表象が注連縄である。また白い紙垂は雄のあふれでる種水を表して
いる。三つの房は生まれてくる三匹の子を暗示する。現代人はへびというと、眉をしかめると思う
が、古代ではへびは動物の王者だった。なので古代オリエントでは王家の紋章はへびが使われた。
古代エジプトでもそうであり、クレオパトラはへびの冠をしていた。ドラビダ族=縄文人=出雲族
は古代人の素直な精神を引き継いでいた。自然の猛威、怖い動物、大きい岩・・等々は古代では自
然に崇拝の対象となった。その古代人の自然に対する素直な崇拝する精神、また性の原理すなわち
生命創生・穀物豊作・男女和合・子孫繁栄といった自然の原理を何より芽出たいと崇拝する精神が
あったからこそ、注連縄・「斎(さい)の木」・縄文土器、等々の造形が生まれた。自然のあらゆ
るものに崇拝の気持ちを持った、それが八百万の神々と呼ばれるようになった。尚、神社というの
は、鎮座する敬う先祖神に、生命創生のシンボルである注連縄(へびの交尾)を前に、子孫繁栄を
祈願する所である。


■太陽信仰

 出雲族はインドから、太陽の女神スーリアも持って来た。その太陽信仰では、東の山から昇る朝
日を拝む習慣になっていた。出雲族は早寝早起きだった。薄暗いうちに起き、朝日が昇るときに、
家族が一緒に太陽を拝む習慣があった。紀元前215年頃、徐福が出雲王国で主・副王の同時暗殺
テロ事件を起こした後、出雲族は渡来人との共生を嫌う人が多かった。そして新天地での王国造り
を目指した。そしてまだ人がほとんどいなかった、ヤマト(奈良)を開拓した。葛城から、三輪山
見えた。形が美しいので、多くの人が崇拝した。出雲族たちは、よく見える場所に集まって、昇る
朝日と共に拝んだ。出雲王国と同じく、年2回春分と秋分の日に、事代主の娘・タタライスズ姫が
司祭となって、太陽と山の神に祈る祭りを行った。当時は、祭政一致の時代であった。そして母系
家族制の影響で姫巫女(女司祭者)が政権者(男の王)より、尊敬の大きい、いわゆる姫巫女(ひ
めみこ)制になっていた。出雲王国と同じく、祭りに集まる人々の結びつきから、幸の神信仰と協
力の政治が行われた。その政治はマツリコゴトと呼ばれた。大和の各地の人々が集まるようになっ
たので、祭りを三輪山の西山麓ですることになった。大和の人々は、彼女を三輪山の太陽の女神で
あるかのように崇拝した。以後、三輪山の太陽の女神の姫巫女は代々、事代主の家系の東出雲王家
(富家、出雲臣家、のちに、むかい向家と名乗る)の分家の登美家の姫が執り行う、仕来たりになっ
た。三輪山の太陽の女神、はその後、伊勢に移された。それは奈良時代に書かれた「記紀」では、
天照大神として、皇室の始祖神にされた。三輪山の地元の伝承では「神武さんより、三輪山の神さ
んのほうが先だ」という伝承がある。三輪山の祭神は事代主とへびになっている。鴨都波神社、一
言主神社、大神神社、高鴨神社、御歳神社といったヤマト(奈良)の古社はすべて出雲族が建てた
神社だ。。三輪山の近くには出雲屋敷がのこっている。尚、近年巻向くの遺跡が話題になっている
が、150年頃の三輪山の太陽の女神の姫巫女・モモソ姫時代の三輪山の太陽の女神祭祀に、遠方
各地から、かけつけた豪族の宿泊するところであった。日本という国名も事代主の血をつぐ安倍王
国が最初に名付けた。それも太陽信仰からきている。


■幸の神(サイノカミ)◇◆◇◆クラウドファンディング◇◆◇◆

 その後、出雲の各地の代表は春分の日と秋分の日に王宮・神魂の丘(松江市大庭町・王の庭、場
という意味)に集まり大祭を行った。そしてドラビダ族=縄文人=出雲族の民族移住の指導者だっ
たクナト王を民族の守護神として定め、幸の神(サイノカミ)と呼んだ。また幸の神(サイノカミ
)は家族神(幸の神三神)で構成された。主神が「クナト大神」、母神を「幸姫の命」、息子神を「
サルタヒコ」と呼ばれた。サルタはドラビダ語で長鼻(男性器の隠語)という意味なので、サルタ
彦は「鼻高神」とも呼ばれる。幸の神(サイノカミ)の特色は子孫繁栄(生殖)の神である。先祖
・幸の神を敬い、子孫繁栄の守護を祈願するものだった。子孫繁栄には結婚と出産が必要である。
幸の神(サイノカミ)は「縁結びと子宝の神」とも言われる。子孫繁栄(生殖)には広い意味では、
夫婦円満、子宝安産、万物創生、五穀豊穣、男女和合、豊作祈願、招福除厄、無病息災・・等が含
まれる。つまり性の原理(生命創生・五穀豊穣・自然原理)を芽出たいとする考えが人生の基本にな
っていた。また古代は医療が未発達で祈るしかなかった。自然の猛威の前にも同様だった。世界の
3大宗教は性を罪悪視する考え方だが、日本人は幸の神(サイノカミ)のおかげで、性に対して寛
容な国民性となった。また3大宗教のような一神教、排他的な考えをもつことが避けられた。また
幸の神(サイノカミ)のおかげで日本人は先祖神を何より敬う精神構造になった。幸の神の(サイ
ノカミ)が全国に広まり、各地の御柱(男根崇拝)祭り、有名なもので名古屋小牧の「豊年祭り」、
長野の女男神像、等がある。尚、神道というのは幸の神(サイノカミ)が国家に横取りされたもの
である。地方の田舎の家では神棚に先祖神・幸の神(サイノカミ)を拝んでおり、神道とかと呼ぶ
庶民はいないのである。正月と言えば日本最大の行事であるが、正月も元々は幸の神(サイノカミ
)の行事として始まった。正月は幸の神(サイノカミ)さんのことを特別に歳徳神・歳神(としが
み)さんと呼んだ。お供えを用意し先祖神の歳神(としがみ)さんを家に招き迎えた。そして女夫
が添寝をし、仲よく幸せにやっていますよというところを見せて、先祖神・歳神(としがみ)さん
に安心をしてもらうことが重要だった。だから正月の姫初めは大事な神事だった。尚、紀元前10
0年頃にヤマトに出雲族が建てた正月の神さんを祭る御歳神神社が鎮座する。「記紀」が出た後、
神社の祭神は政府の意向で出雲系の神、及び「幸の神」はずいぶん変えられた。それは「記紀」で
初めて登場したイザナギとかイザナミ等々に変えられた。それでも出雲系の神、大国主や事代主を
祭る神社が現在でも、全国各地に多数ある。それだけ幸の神(サイノカミ)信仰が、日本全土にひ
ろまっている証拠である。それは縄文人=出雲族=日本人の民族の風習・伝統・行事といった民衆
レベルのことは、支配者が変わろうが、なかなか変わることはないのである。またへびのトグロに
似た山が、「神がこもる山」(神名備山かんなびやま)として崇拝された。中国地方最高峰の大山は
、伯耆富士ともいわれるように、三角錐の形をしており、代表的な神名備山である。その大山は、
出雲王国時代から奈良時代までは、大神(おおがみ)山と呼ばれていた。何故、大神山(おおがみ
やま)と呼ばれていたかと言うと、出雲王国の王宮がある大庭おおば(松江市大庭町)から、春・
秋の年2回の大祭の時に遠方、各地から参集した豪族たちは、、各種、催しもの・宴会が終わった
最後に、全員で東の彼方にクナトの大神がこもるとされた崇高な大神山(おおがみやま)に向かっ
て遥拝した。その後、大神山(おおがみやま)の麓には、大神山(おおがみやま)神社が遥拝地と
して建てられた。また後に大神山(おおがみやま)の、山腹に大神山(おおがみやま)神社奥社も
建てられ、現在も続いている。尚、なぜ大神山(おおがみやま)が、大山(だいせん)と呼ばれる
ようになったかというと、奈良時代に仏教勢力が強くなり大神山に大山寺(だいせんじ)を建てた
。それ以降、地元の人々は大神山(おおがみやま)と言わずに、大山寺(だいせんじ)があるので
大山(だいせん)と呼ぶようになった。尚、大神山(おおがみやま)神社が出雲王国、サイノカミ
、クナトの大神の名残を今に留めている。しかし残念ながら、なぜ昔、大神山(おおがみやま)と
言われていたのかということを知っている地元の人は、いない。これも「記紀」の影響で出雲王国
が忘れられたからだ。尚、クラウドファンディングで資金集めをして、幸の神アーカイブ(記録・
保存)プロジェクトを計画しています。ご賛同いただける方はご連絡ください。


■「三」は聖数

 尚、サイノカミ(幸の神)三神というように、幸の神では、「三」が聖数として扱われた。それで
結婚式で使う三三九度用の三つ重ねの盃は「三三クナト」の意味が込められている。大きい盃は花
婿を、中の盃は花嫁を、上の盃ははうまれてくる赤ん坊を象徴する。三宝も幸の神からだ。

 また、三拍子そろうと縁起が良い、も幸の神三神からきている。万歳三唱(当時はイズメ、イズ
メイズメ)も聖数「三」からきている。締めの拍子を三つ打つのも同様である。

 幸の神三植物は松竹梅だ。松の葉は乙女の下の毛に似ているので(若松様)と呼ばれ縁起が良い
。竹の筒は男性のアレである。梅の花は、幸の神では「産め」に通じるので、最高の花とされる。
 
■「八」も聖数

 太陽信仰からきており、日本海軍旗のように、朝日が八方に光りを放つ姿に見えるのでその八本
の光から来ている、という。

 サイノカミ(幸の神)では、「八」も聖数になっている。例えば「ワラヘビ」は尻尾を八回巻き終
わると、竜の威力が現れると言う。頭に締める「ハチマキ」はそれに起源を持ち、ヘビの霊力によ
り、幸運が訪れると言われた。

 八の字は末広がりで縁起が良いと言われた。地名・人名では八雲、八束郡、八重垣、八千矛(や
ちほこ・大国主の個人名)、八重波津身(やえなつみ・事代主の個人名)
 
 出雲の枕詞が「八雲立つ」になったのは、八の聖数のためだった。  
■その他、出雲・「幸の神」発祥の神事、一部紹介

○餅つき
幸の神の芽出たい神事だ。臼(うす)」が女神で、杵「きね」が男神とされる。突いて出来た餅は
子宝とされる。

○綱引き
古代の綱引きは、蛇の交尾にあやかって始まった。雄綱と雌綱が結ばれることは、神事を意味する
。そして、引き合うことは、夫婦円満・子孫繁栄のお芽出たい、姿とされた。

○神事相撲
これは今、島根県隠岐の島に残っている。古代出雲では、紅白試合があったと言われる。勿論、赤
は女で、白は男だ。現代では紅白試合の意味が忘れられている。男女が組むから、神事相撲と言わ
れた。


○トンド祭り
女正月とも呼ばれる。陰暦では、一月の満月の日に行われた。古くは、日本の「母の日」でもあり
、その日は産んでくれた母に感謝し、一切の家事や食事は子どもや婿がした。また、人生の最後を
「トドのつまり」からトンド焼きと名がついた。火をつけ煙となって、神名備山に魂は宿ると昔の
人は考えた。


○梅雨
古くは「幸水垂れ(さいみずだれ)と呼んだ。それがつまって、五月雨(さみだれ)になった。こ
れは旧暦の五月で、新暦では六月に相当する。旧暦五月は初めは幸月(さいつき)呼ばれたが、つ
まって「サ月」になった。

○お月見
ススキの穂は父を表す。花瓶と盆は母の象徴だ。ウサギの団子は、父母で作った子宝を意味する。

○霜月祭り
隠岐の島町・知父には、霜ツサ粥の行事がある。それは「月(つき)」の発音が利用されている。
牛の日に行われる。牛は、その「角突き」にあやかっている。若い連中が、乙女達を若者宿に招待
する。彼達が、白かゆ(種水の暗喩)を煮て神棚に供え、彼女達にも見せてご馳走する。その狙い
は「下(しも)突き」で、各地の霜月祭りとも共通する。なぜならば旧暦の仕果(しは)つ月(十二
月)は禁欲月だったから、その前に充分に股草を重ねて置きなさいという行事だった。
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