桂歌丸が戦争の空気に危機感! 戦争がもたらした落語界の暗い過去…子供を産まない女性を糾弾する国策落語まで

 

戦後70年という節目の年。民主主義を無視するかたちで安保法案が強行採決されてこの夏は過ぎた。そんななか、それでも「戦争の悲惨さ」を伝えようと多くの人が声をあげ続けている。落語家の桂歌丸もそのひとりである。

 終戦時には9歳、疎開先の千葉から故郷の横浜に帰ると一面が焼け野原、もちろん生家も焼失していたという経験をもつ歌丸は語る。

〈今、日本は色んなことでもめてるじゃないですか。戦争の『せ』の字もしてもらいたくないですよね。あんな思いなんか二度としたくないし、させたくない〉
〈テレビで戦争が見られる時代ですからね。あれを見て若い方がかっこいいと思ったら、えらいことになる〉(朝日新聞デジタル2015年10月19日)

 戦時中、ひもじい思いをしながらも、なんとか口にすることのできたサツマイモばかり食べる幼き日々。それがトラウマとなり、〈あたしぁとうとういまだにサツマイモが食べらんねえんだ〉と告白する歌丸師匠は、落語家らしく、こんな表現で「戦争」の醜さ・悲惨さを表現した。

〈人間、人を泣かせることと人を怒らせること、これはすごく簡単ですよ。人を笑わせること、これはいっちばん難しいや〉
〈人間にとって一番肝心な笑いがないのが、戦争をしている所〉(同前)

 戦争には笑いがない。桂歌丸がこう語るのには、戦中の落語界が当時の体制に半ば強制されるようなかたちで53種の噺を口座にかけないよう自粛し、さらに、戦意高揚を煽るような新作落語を次々と発表したことで、戦争協力に加担してしまった過去への反省も込められているのだろう。落語界が戦時中たどった道程とはいかなるものだったのかは、演芸評論家である柏木新による『はなし家たちの戦争─禁演落語と国策落語』(本の泉社)に詳しい。

 突然だが、浅草・本法寺に「はなし塚」という塚がある。これは戦時中葬られた53種の「禁演落語」の墓として1941年10月につくられたものである。これら53の噺は、遊郭に関した噺、妾を扱った噺、色恋にまつわる噺など、国のために質素倹約を奨励された時局に合わないとされたものが選ばれた。そのなかには吉原を舞台にした「明鳥」など、今でも盛んに高座に上げられる人気の噺も含まれている。

 

これら禁演落語は、あくまで落語界側による「自主規制」の体裁をとっていたが、その過程をよく見てみれば、事実上、国からの半ば強制であった。落語界が自粛に走らなければならなかった理由のひとつとして、まず、1940年2月、警視庁が興行取締規則を改正、落語家・歌手・俳優など、すべての芸能関係者が「技芸者之証」を携帯するよう義務づけられたことがあげられる。これにより権力が庶民に大きな影響を与える芸能を管理することがたやすくなった。実際、榎本健一(エノケン)、古川ロッパと並び三大喜劇人として人気を集めた柳家・柳家金語楼は戦中、落語家の鑑札を取り上げられ、俳優への転業を余儀なくされている。彼の自伝『泣き笑い50年』(日本図書センター)には、当時の警視庁とのやり取りがこう綴られている。

〈「きみは、はなし家の看板をはずして俳優の鑑札にし給え。第一、きみがはなしをしたら、お客が笑うじゃないか……」
「そりゃ笑いますよ、笑わせるのがはなし家の商売だもの……」
「それがいかん、いまどきそんな……第一それに、芝居なら“ここがいけないからこう直せ”と結果がつけられるのと違って、落語というのはつかみどころがない……」
「でもねえ、三十何年この方、私は高座を離れたことがなかったんですよ」
「いやダメだ。どうしてもはなしがやりたけりゃ余暇にやるがいい。本業はあくまでも俳優の鑑札にしなきゃいかん……」」〉

 庶民から「笑い」すら奪おうとする戦時下体制のひどさがよく分かるエピソードだ。そして、この「技芸者之証」の制度に加え、1940年7月7日に発布された「奢侈品等製造販売制限規則(七・七禁令)」など、銃後の生活の引き締めを意図した動きも決定的な影響を与える。「ぜいたくは敵だ」といった標語が飛び交うなか、遊郭や色恋をネタに笑いを生み出す芸は権力から睨まれるようになっていき、自主規制へと向かわざるを得なくなっていく。

 しかし、もっと罪深く、悲劇的だったのは、落語界が戦争協力の一端を担ってしまった「国策落語」だ。戦意高揚のための文化政策への協力を強いられた落語界は古典落語の名作を封印するだけにとどまらず、時局に合った国策落語を新作として次々と発表していく。内容は、軍隊賛美や貯蓄、債券購入、献金奨励などを入れ込んだ、まるでプロパガンダのような内容。本稿冒頭で引いた桂歌丸のインタビューでも当時の国策落語について〈つまんなかったでしょうね〉〈お国のためになるような話ばっかりしなきゃなんないでしょ。落語だか修身だかわかんなくなっちゃう〉と語られている。

 

人々を笑わせるために演じられる落語なのに、なにもおかしくないという悲しい落語が戦時中はたくさん高座に上げられた。権力の意向に沿うための落語はどんどん歪なものに変質。「笑い」どころか、ただ単に人を傷つけるものにすら変わっていった。当時のスローガン「産めよ殖やせよ」をテーマにつくられた「子宝部隊長」という落語では、子どもを産んでいない女性に向けられるこんなひどい台詞が登場する。

〈何が無理だ。産めよ殖やせよ、子宝部隊長だ。国策線に順応して、人的資源を確保する。それが吾れ吾れの急務だ。兵隊さんになる男の子を、一日でも早く生むことが、お国の為につくす一つの仕事だとしたら、子供を産まない女なんか、意義がないぞ。お前がどうしても男の子を産まないんなら、国策に違反するスパイ行動として、憲兵へ訴えるぞ〉

 なにも面白くない、女性を愚弄するようなこのような台詞から、いかに当時の落語がねじ曲げられてしまっていたのかということがよく分かる。ただ、このような状況は、浪曲・漫才・講談など、庶民の人気を集める他の演芸においても同じだった。しかし、芸人たちもただ唯々諾々とお上の言うことに従っていたわけではない。林家彦六は著書『噺家の手帖』(一声社)のなかで、漫才師・林家染団治のこんなエピソードを紹介している。

〈すこし愉快な話をしよう。大東亜戦争になってから国民は金銀を手放しダイヤを提供し、果ては銅像から鉄瓶までお上へ差し上げた。その頃のこと。総理は東条英機大将だ。首相官邸に宴会があって二、三の芸人が余興に出演した。その中に漫才で〈ゴリラ〉の真似を得意にしている林家染団治がいた。
 やがて自分の出演順がきたので対人の芸人と二人で定めの場所へ出て一礼し漫才にとりかかると総理以下主客の居並ぶ客間の中央にテーブルが据えてあって花瓶に花が一ぱい飾ってある。漫才を演りながら染団治がどうも彼の花瓶はメッキではなくって本物の金だナと睨んだ。やがて漫才の喋りが終わって得意のゴリラの真似になったので『どじょうすくい』を踊りながら舞台から客席へ降りてゆき卓上の花瓶に近づいてたたいたりひっかいたり肚の中でてめえだけ金を持っていてこの罰当たりウォーッとどなった。庶民の淡い反抗だ〉

 また浪曲師の広沢虎造も、愛国的内容の浪曲を演じさせられた壇上で、政府の役員を目の前に〈こういう新作台本は私は甚だ不得意で、やれといわれてもやれまへん、芸人は自分の持っている芸を大切にして、その芸でお国に御奉公すればこそ愛国であって、戦争ものを読んだからというてそれが何の愛国だっしゃろ〉と言い放ったとの逸話も残されている。

 

これらのエピソードは聞いているだけで大変胸のすく思いのする話だが、これらはあくまでも「ささやかな抵抗」に過ぎず、戦時下、芸人たちは自分たちのやりたい芸をできない状況に追い込まれたのは厳然たる事実だ。

 先ほどご紹介した「はなし塚」では、今でも毎年落語芸術協会による法要が行われ、「禁演落語」を生み出してしまった苦い経験を忘れまいと落語家たちが集まっている。しかし、爆笑問題が政治ネタの漫才をNHKに持っていったら却下されたり、SEALDsのデモに参加した石田純一が事務所や広告代理店から圧力を受けたりと、どうも時代は「禁演落語」を生み出してしまった時代に逆戻りしているような気がしてならない。

 エンタテインメントは庶民の生きる糧であり、そして、「笑い」は庶民が持ち得る権力への抵抗の武器だ。それが奪われるような状況を再びもたらしてはならないし、権力にそのような介入を許すことも断じて認められない。

 最後に、戦時中は「仏領インドシナ二三隊」に従軍し、戦後、人間国宝にまでなった五代目柳家小さんの言葉を引いて本稿を閉じたい。戦争は我々になんの利益ももたらしてはくれないし、何よりも、大切な「笑い」を奪うものなのだ。

〈お前らはよくテレビや映画で見ていると、戦争なんていうものは、何か勇ましいものだ、かっこいいもんだと思っているだろう。冗談じゃねえぞ。そんなもんじゃねえ。実際行ってごらんよ〉
〈そりゃ、もうむごいもんだぜ〉
〈だからな、これから何事かおきても日本は、戦争なんかしちゃいけねえ。行ったおれたちが言うんだから、間違いねえよ〉
(井川健二)

 

http://lite-ra.com/2015/11/post-1639.html

 

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