ベンケーは壇ノ浦の合戦に至るまで毎日せっせと日記をつけていた。ある日、主君よしつねに書いてるところを見つけられて「なんの書き物だ」ときかれると、少し気恥ずかしそうに日記を見せるのだった。

「これはわっしの殺生の記録でごわす」

 ~殺生の日記~

六月一日
 飛んできたカナブンを一息に掴み殺す。哀れ、百と一日の生涯なり。

六月二日
 蠅の小さいのが框の饅頭にたかって五月蝿い。蠅叩きにて殺す。

六月三日
 ものを食わず殺生をせずにすむ。

六月四日
 今日も食うものなし。空腹に耐えかね、従者の何人かと川で釣りをする。三匹釣れる。串刺しにして焼く。魚に御仏の加護のあらんことを。

六月五日
 今日も空腹。蝸牛を見つけたので生きたまま頬張りかじる。幼時に覚えた味そのままに美味なり。

六月六日
 ゴキブリが床を這うていた。不快なのでひねりつぶす。ゴキブリの魂よ安かれ。

よしつねは思い出して言った。

「そういや、六月四日は戦だったぞ。お前、平家の雑兵を二人も殺したじゃないか」

「そうでごわしたかな」

ベンケーは忘れたような顔つき。

「俺は覚えてるぞ。その前の一日にも平家の密偵を一人見つけて、お前が槍で仕留めたろう。腹んとこ貫いてさ」

よしつねが貫くしぐさをして見せると、

「ああ、そんなこともごわしたなあ」

「ごわしたなあ、じゃねえよ。敵兵を殺めたことをどうして書かないんだ?」

ベンケーはフッと笑った。

「修羅を殺すのは殺生のうちに入らんでごわす。そこへゆくと虫や魚はなんの罪もごわせんからなあ」


夏。よしつねはまばゆい昼の陽射しのなかにいた。トカゲのように日陰を歩き、立ち止まることがなかった。
ある家の前で老婆が一人、手招きするのが見えた。近寄ってみた。枯木のような顔をしたひからびた老婆だ。すっかり水分と養分のぬけた容貌だが、目の奥に針のごとくするどく光る悪賢さがある。なんなら、この木彫のような侘びさびのきわみのような老婆の顔こそ、最も罪深いものが刻み込まれているといえた。

「あんさん、寄っていかんかね」

老婆は顔じゅうを目玉にしてよしつねを下から見上げた。
言われるままに老婆の家を覗いた。座敷がしつらえてあり、着物を着た少女が座っていた。まだ十四ぐらいだろう。後ろ髪を束ねずに垂らして、前髪は眉の高さに切りそろえている。
子供なのに男を知ったふうな色香があった。

「安うしとくよ」老婆が横からよしつねを覗き込んで言う。

よしつねは畳に上がった。少女と差し向かいになる。老婆が出て行き、扉をピシャッと閉める音がした。

「いくつだ」とよしつね。

「十四」少女が答えた。

「名前は?」

「しずか」

少女は名乗るや否や着物を脱ぎ始めた。

「おい、待て。まだやるなんて言ってねえ」

「……」

少女が半脱ぎのまま戸惑っていると、

「そとにいるあのばばあ、お前の親か?」

少女は首を振った。

「お婆さんは他人よ。あたしを一年前から育ててるの」

「育ててるって、売春させてるだけじゃねえか」

少女はそれには答えず、

「ほんとの親はとっくに死んだの。流行り病で。あたしはお婆さんの世話で生きてるってわけ」

「……」

よしつねは無言のまま、ついと少女に近づいて背中を抱いた。

「なによ」と少女。「結局抱くのね」

「いや。しずか、だったっけ」よしつねは言った。「俺と一緒にこないか」

しずかは笑った。

「なにがおかしい? 俺は本気だぞ」

「三人目よ」

「あん?」

しずかは抱かれながら、

「あんたで三人目。一人目の時はやるだけやって道に放り出された。それに懲りて二人目は断ったわ」

「俺もお前を道に捨てて逃げると思うか?」

「うん」


女衒というのは普遍的な職種のようである。ロシアの貧民街で通りひとつ隔てたアパートに住む青年と文通する少女にも女衒がいた。それにしても手紙でせんのないやりとりをするとか、橋の上で白夜に毎晩会うとか、ロマンチックなようで特に発展性のない関係は切ない。
男と女の双方にあきらめがあるのだ。双方ブルーとはよくいったものだ。どちらも恋人になるとか、性交するとか、結婚するとかを期待していない。
まあ恋人→性交→結婚だけがルートではない。性交→恋人→結婚もある。さらに性交→結婚→性交→性交で恋人には絶えてならない場合もある。
発展を期せずにただひたすら手紙の文字を走らせる。または、橋の上であれこれしゃべる。切ないことこの上ないようだが、実はそうでもない。人はしゃべるだけでストレスを発散させるからだ。聞き役がお互いに欲しいのである。


よしつねはしずかを抱っこしたまま馬に乗った。後ろで老婆が声の限りに怒鳴るのが聞こえた。

「この盗人ぉぉ、人でなしぃぃ」

「人でなしはお前だ」

馬は走り去った。
あの老婆は羅生門の門前で死体から髪の毛をむしりとってカツラにしようと目論むが、後からきた武者に髪の毛を奪い去られ、悔しさのあまり羅生門にとまるキリギリスを口に入れてギリギリと噛む老婆になるにちがいない。義理義理と虫を噛み潰す老婆には義理も人情もない。
道化師ピーターは天を仰いで「この世には神も仏もない」と言ったものだ。
ラオスの人はカメムシを生きたまま食うが、臭くないのだろうか。一口噛めば脳のなかに花畑が咲くという。花畑は眺めるもので、頭に咲かせるものではない。
馬上のしずかはつぶやいた。

「これでタダでやり得ね」

「うむ」よしつねはうなずいた。「めしは食わせるよ」


雪の上に、しずかが立っていた。近づいて肩に手を置くまでよしつねに気づかなかった。

「よしつね」としずかは言った。

「やっと会えたな」

「追いかけてきたわ」しずかは言った。「追いかけて、雪国」

もう平泉はすぐそこだった。


ベンケーは蕎麦をすする手を休めた。
かすかに羽音がした。

「こんな竹藪のはずれに蕎麦屋があるとはなあ」

ベンケーは言った。

「へい。なにしろ藪の中ですから」

蕎麦屋の親父が言う。
ベンケーの耳元を一匹のコガネムシがかすめた。蕎麦の匂いに釣られてきたのかもしれない。コガネムシは富裕だ。蕎麦にコガネムシ。なんの暗号なのか。
ベンケーは箸でコガネムシを瞬時に捕まえた。肢をバタバタさせたコガネムシを一度蕎麦つゆにくぐらせる。それから一気に口のなかに放り込んだ。

「ああ。また殺生してしもうた」

ベンケーはつぶやいた。



 3へ続く。