からくり大江戸瓦版-130413_1202~01.jpg



前回記事ではヘタウマになるためにライトノベルを読み漁ったと書いた。
が、べつに「ヘタ」でなければならないという話ではない。ヘタそのものに意義があるわけではない。つまり、ひと頃流行ったヘタウマ漫画のたぐいを推奨してるのではない。ウマい/ヘタという技術上の判断基準にはとりたてて意味はないから、これを排そうという話なのである。


とはいえ、ヘタウマに類する小説家を考えてみるのは悪くない。
深沢七郎(1914年~1987年)は素人みたいな作家として有名である。素人みたいというのは、本をほとんど読まずに小説を書いたということで、彼の作品を読むといかにもそんな感じがすると言われる。自筆年譜で、デュマ・フィスの『椿姫』を青年期に読んで感動したせいで恋愛小説が書けなくなったと述べていた。『椿姫』を数少ない例外として、深沢七郎はほとんど本を読んだことがない人だというのが通説になっている。
しかし短編のいくつかを読むと、この人は谷崎を読んだことがあるだろうと思うところもあり、他の小説の片鱗とおぼしい要素もあり、必ずしも本をほとんど読まなかった作家とは言えないと思う。ただ、小説を読んで自分で小説を書いた時に、既存の文章を模倣したり習得しようと努めた経験は乏しいかもしれない。
そのわりに、作品を構成する表現のあり方は意外としたたかなのだ。文章の技術的訓練はさておき、小説を書く訓練は若い頃けっこうやった人ではないかと僕は睨んでいる。
「東京のプリンスたち」のすばらしい結末。眠気を振り払おうとして肘で壁を「グンと突いた」という簡潔なくだり。ありきたりな言い方だが、映画のような場面である。ここで終わりにした深沢七郎は、映画もけっこう観ているだろうが、小説をよく読んで自分でも若い頃から書いてきた経験があるにちがいないと思わせられる。
深沢七郎は画家でいえばアンリ・ルソーのような作家だと思う。ルソーが木の葉や人の顔を描く時に、葉っぱを一枚一枚同じ向きで描いたり、人の顔はつねに正面向きでしか描けなかったのを思い出そう。人物の思念を表すのにいちいち(お節介な母親だ)(頼まれもしないのに、口出しして)という具合にパーレンで括弧して心内語を書く。まるで小学生の作文である。
こういう表現を目の当たりにすると、ヘタクソだと思ってしまうのが小説を読み慣れた頭だが、ヘタであっても深沢七郎の小説は他のふさわしい表現が求められる作品ではない。したがって表現に沿って書かれているのであり、これを「ヘタ」と見なす方が素人っぽい素朴さにみちている。
そうなのだ。ヘタウマの極意とは、ふつうの「ヘタ」な文体と違って、この表現以外に適切な表現を要さないものなのである。ヘタに見える表現それ自身で世界観を形成している。内容を引き出すのに、もっと良い表現があるはずだと感じさせない。ヘタな表現そのものが最善の表現になっているのだ。
ヘタウマ漫画もそういうものである。実はヘタウマ漫画を描く漫画家は技術的に稚拙ではないし、ヘタウマ漫画じたいも必ずしもヘタではない。漫☆画太郎の絵を目にすると、子供がおもしろがって凝って描く落書きのように感じるが、彼の作品はあれ以外の絵を必要としていない。とがしやすたかも、『おしゃれ手帖』時代の長尾謙一郎もそうである。


実は僕は星新一も一種のヘタウマだと思っている。ちょっと引用する。

《時がたち、風は地面の上のカードと出会った。長方形で、薄いもの。風はそれを吹き上げ、空中を舞わせた。このようなものがあるからには、どこかに、これと関連のあるものがあるのではないか。
 風に思考力があるわけではないが、長い長い時間は、それにたどりつかせる。小さな竜巻きとなってさまよい、カードはひらひらと舞いつづけた。そして、ついにそれを地上に見いだした。
 もちろん、名称などない。しかし、はるかのちの言葉で形容するとなると、自動販売機といったあたりが、適当なのではなかろうか。本質的には、ずっと神秘なものだが。》(「風の神話」)

星新一後期の作品集『つねならぬ話』に収められたショート・ショートである。天地開闢すなわち世界の始まりを描いたもの。といっても、唯一これが世界の始まりだという体ではない。いくつかの神話を並べ、世界の始まりについてこれらの解釈があると(もちろん架空の神話だが)紹介する形である。
「このようなものがあるからには、どこかに、これと関連のあるものがあるのではないか」という、いかにも星新一らしい言い回しに笑ってしまう。意味はたしかに通じるが、神話にしては緊張感が無さすぎる。生放送のテレビ番組でいきなり思い出し笑いをするようなフレーズだ。自動販売機をもちだすのにも笑ってしまう。
だが星新一を読んで、もっと他のウマい表現があってよいとは思わない。この表現が世界観のすべてだからである。自動販売機云々をもっとリアルに感じさせようと思って克明に描写するのは、無用なことで、そんな努力はむなしいのだ。


ライトノベルの表現はどうか。
ラノベについて言えば、もっとべつな表現に改めたほうが小説としてより良くなると思ってしまうことが多い。しかし、前回記事にも書いたが、それはオーソドックスな小説を求めた場合の発想である。ラノベにはラノベの固有な世界観があり、ヘタに見える表現は、そのヴィジョンを成し遂げるために選ばれているのだ。「もっとウマく書くべきだ」というのは、ある意味で余計なお節介なのだ。
しかし、僕なぞは成田良悟のゲーム的作品世界を読んで、彼の小説を形づくるコンテクスト以外の興味を覚える。それはオーソドックスな小説側からの視点だが、同じ池袋を舞台にした作品でも、石田衣良の『池袋ウエストゲートパーク』シリーズより『デュラララ!』のほうがおもしろいと思う。石田衣良はごくありふれた保守的な小説家だが、成田良悟は小説以外の文脈から発想しているため、思いがけない構成の飛躍を感じさせるのだ。
その点で僕はライトノベルのヘタウマの支持者であり、以前僕がラノベに熱中したのも、そんな理由からなのだった。僕自身、ヘタウマの応用に首っぴきになり、子供の頃から愛読してる星新一との共通点も認識し、今日に至る、だ。僕のヘタウマ称揚のわけは以上のごとし。