前にも書いたが、僕は小中学校の頃の作文と読書感想文が苦手な部類だった。小学生の頃から国語の成績は悪くないので、文章を書くのは苦痛じゃないが、作文と読書感想文のお題に出されたものと、それに対して求められる内容にちっとも興味がもてないのだ。
例えば、「芋掘り遠足」という題で書きなさいと先生が言う。先日行った遠足のことである。やれやれ、書くとするかと作文用紙に向き合うわけだが、実のところ、書くことなんかほとんどない。なぜなら僕は芋掘り遠足じたいが特におもしろくなかったからである。ひねた子供だと思うかもしれないが、飽食の80年代に育った子供がサツマイモを掘って喜ぶと思っているのか。芋掘り遠足などというものは、戦争中に日本が食糧不足からあちこちに菜園を作り、疎開先でも子供に畑仕事をさせた習慣の名残であろう。
でも書かなきゃいけないから仕方なく書く。えーと、なんか良いことあったかな。同級生の誰某が芋を引っ張ろうとして勢い余って背中から畑にぶっ倒れたのがおもしろかった。僕は素直に「それがおかしくて、笑った」と書いた。サツマイモの感想などない。ましてや、作物を育てて収穫するのはとても大切なことだと思います、みたいな感想はさっぱり浮かばない。毛頭考えもしないことである。
そしたら、僕の作文はBだった。もちろんAがいちばん良い。AAが最上だったかもしれない。僕の作文はとりあえず字と文の間違いはないので、かろうじてBをもらったようなものだろう。
その後、クラスから優秀な作文に選ばれたのは芋掘りがいかに楽しいかを書き連ねたもので、「爪のあいだに土がびっしり入るまで掘った」などと描写しているのが良い、と先生に誉められていた。
フーン、そういうのを書けば先生にウケるのかと思ったが、僕も芋を掘るうちに爪の隙間に土がびっしり入ったけれども、それはちっともこころよい思い出ではなかったので書かなかったのである。あたかも芋掘りが無上に楽しいかのように書けるそいつがすごいと思った。本気で芋掘りが楽しかったと思っているのなら、僕の方がもしかして少数派なのでは、と心配になった。人間はこうして孤独感を知っていく。

そのほか社会科見学の作文なんかも書かされた記憶があるが、鉛筆工場へ行ったり汚水処理場へ行った感想など、基本的に皆無である。鉛筆工場はトイレが男女共同便所で、男子用小便器に用を足している後ろを女子が並んで列を作って行き、恥ずかしがった。戦時さながらである。しかしもちろん鉛筆の製造過程には何の感想もない。汚水処理場は臭いだけ。
思うに僕は社会的協調性が欠如した子供だったのであろう。先生たち学校側の期待の地平は、工場を見学させることによって、毎日使っている鉛筆のありがたみを知るとか、鉛筆のような身近な筆記具も生産の現場でどのように生産されているかを知るといったことにあるのだろう。そういうことは理解できたが、わざわざ作文に文章化する必要があるのかと思ったし、いまでも思う。

読書感想文も好きではなかった。読書は好きだったが、それの感想を求められるとなると、作文と同種のつまらなさが漂ってくる。
『かわいそうな象』という児童書を読んで読書感想文を書き、全校児童の前で朝礼台に上って感想文を読み上げた女の子がいた。本の内容は、戦争中に食糧がなくなって動物園の象にやるエサがなくなり、象がどんどん痩せ細って飢えて死ぬ話である。感想文を書いた女の子は「わたしは、ポロポロポロポロ泣きました」と書いていた。
泣いたのは事実だろうが、最初から泣かせようと思っているような本の感想に「泣きました」と書くのは芸のない話だと小学生の僕は思った。感想に選ぶ本は何でも良かったから吉田足日の『忍術らくだい生』なんていう児童文学を読んで感想を書いたが、評価はあまりかんばしくなかったと思う。
僕なら中学生に山田風太郎の『秘戯書争奪』を、高校生に星新一の『城のなかの人』を課題図書にして感想を書かせる。「思ったことを正直に赤裸々に述べること。ただし感想の理由はよく考えて書くこと」とする。感想文を課す側の期待の地平を予想して書いた感想文など、要らないのだ。
結果、『秘戯書争奪』の感想が「雪羽がエロくて良かった。一発やりたい」であってもぜんぜん良いし、『城のなかの人』の感想が「秀頼がもっと世間を知っててうまく立ち回れば死なずにすんだのに…」みたいなものでもまったく構わない。感想に良し悪しなどないから、「つまらなかった」でも良い。ただし、つまらなかった理由を書いてほしい。
たいていの読書感想文は、課題図書を貶めて書くと採点が低くなる。なんでだろう、と思う。世の大人たちは夏目漱石の『こころ』を本気で傑作だと思っているらしい。僕が世間を信用しなくなったのは、そんなところからでもある。