甘えられないひとが(わたしもですが)
甘えることをしてゆくとき、
ご自愛してゆくときには
それなりに 勇気がいると思います。


「甘える」には
「自分はいまこうなの」って 自己開示や
「だから、こうしてほしい」って伝えることも
必要になり、
これはひとによってはとっても勇気がいること。
わたしもつい、それをするなら自分でやっちゃおうってなりがちだけど


甘えるのは
自分はなんにもしない。って決めて
じーっと待ってることとはちがうかなと思う。
それをしてもいいのは 本当に何もされなくても差し支えないとき。


「察してよー」って思いながら待つと
察してくれない周りを非難する気持ちが起こるし
察してもらうための、本意じゃないことを
言ったりしたりして、なにかをまき起こして
自分も 周りも苦しくなる。
周りは ますます「???」となるし。


その 開く一歩、求める一歩をやっておいて 
はじめて降参して待つ イミがある。


自分を信頼とか
周りを信頼とかいうのも それなしでは困るし
なんにも 起こらない。
のです。


ちょっぴり そんなことを見た気がします
見せてもらえたのなら、たしかにそれがいまの「わたしの世界」なのかもしれないけど、
ちゃんと見たら、じゃあどうするか がよくわかる
それを見せてくれるのが、いま。


投影とか 鏡の法則って、いまの自分へのジャッジメントなのでなく、そういうふうに生かして次へ向かうためのものじゃないだろうか。
もっと自分史上、幸せであるために。
基準は、あくまで 自分比。当社比(笑)であることも大切だと思う。


「甘える」のも、けっこう甘くない。
いや本当はやさしいのだけど。本気でやれば


追記


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