回想 ~あのとき「言えなかった」こと その①~ | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

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読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

日清がカップ麺の「どん兵衛」のCMにアンミカを起用したことが「炎上」して、アンミカ批判&どん兵衛不買運動にまでなっていることを、つい最近(というか本日)になって、YouTubeで知った。

 

おれが当該タレントに関して事実を確認したわけではないのだが、一連の批判の理路としては、

 

アンミカなどという「反日タレント」のことは日頃から好かんし、そんなタレントを(愛すべき)どん兵衛のCMに起用する会社の姿勢にも首肯しかねる。どん兵衛なんか、もう買わん!

 

というものようだ。

 

CMの演出自体も、概して嫌悪感を誘っているようである。


おれはごく限られた相手とのLINEと、YouTubeの閲覧と、このアメブロぐらいしかSNSを日常的には利用していないので、「SNSで炎上!」といっても、具体的に炎上している場面を知らない。


また、当該タレントが出演しているどん兵衛のCMも(そもそもTVをあまり観ていないので)観ていなかった。

ただ、炎上しているということと、その理由について解説しているYouTubeをたまたま観て、アンミカってそういう人物だったのかということを初めて知った。(噂されている経歴が事実であるとは確認されていないという姿勢で解説していたが)

当該タレントは、TVを点ければ必ず出ているくらいの「売れっ子」のようだし、地下鉄駅構内のポスターでもよく見かける。しかし、うすい関心の範囲内で、顔立ちも、声も、態度も、言動も威圧感がありすぎて、あまり好きになれないな、と思っていたので、世間(ネット社会)ではそれほどまでにマイナス評価のタレントだったと知って、ちょっと納得してしまった。

問題のCMもYouTubeで公開されているのだが、そういう眼で見るからか、なおさら猥雑に映ってしまう。

 

おもしろさも、美しさも、あたたかみもない。もう放送されていないようだが、なにを狙ったCMなのだろう。

(ここで、「わざとアンミカ(のような人物)を貶めるための工作をしかけたのか?」と勘繰ってしまうのは、おれの最近の癖である)
 

 

「最強アンミカーニバル 篇」だって!


それにしても、最近はカップ麺を食べていない。コンビニの麺類も(弁当類も)食べていない。
以前はたま~に食べてたのだが、気づけば、かなり前から口にしていない。
もともと、ファストフードのハンバーガーは嫌いなので食べることはない。

近ごろ、身体の調子を大きく崩さないのは、松葉茶を常飲しているからだけではなく、そういったジャンクフードを食べていないからかもしれないな・・・。


・・・・・・・・・。


さて、そのようなことを取り上げながらも、今回は、社会の趨勢とはまったく無縁の超個人的な回想を。

いまから、なんと50年ほど前、おれが(たぶん)小学校2年生(7歳)のときの話である。

その日は忘れもしない「父兄参観日」で、授業は「算数のかけ算」だった。

父親が参観日に来ることはめったになかったが、母はほとんど欠かさず来てくれた。

だが、その日は母が来ていたという記憶がない。

ちいさいころのおれは、学校の「お勉強」は苦手ではなかった。算数も同様だ。

かけ算に関しては、まだ学校で習う前から、親戚の家で年上の従兄の部屋に貼ってあった「九九」の一覧表を見て、かけ算とはこういうもの、という概念を理解した。だが、とくに勤勉でもないので、「九九」を暗記したのは、実際に学校で学習するときになってからである。


その参観日のかけ算の授業も、基本中の基本を繰り返していて、教師も父兄にサービスしようと考えたのか、計算問題を出して、児童に手を挙げさせて答えを発表してもらう、という展開だったように記憶している。

そのなかの問題のひとつは、以下のようなものだった。

(教師が黒板にチョークでネコの絵を描いた)


@mikenopop-design

 




ネコにはヒゲが6本生えています。


ヒゲが6本生えてるネコが3匹います。


ヒゲは全部で何本でしょうか?


答えは、「6×3=18本」


そのとき教室にいたほとんどの児童がすんなり理解していたと思うが、そこで教師は、たぶんかけ算の「考え方=概念」を深く理解してもらおうとしたためか、このときの計算式は「6×3」が適当であると解説した。

 

なぜなら「ヒゲ6本×ネコ3匹」だから。

たしか「6の束が3つある」という考え方だ。

 

だから答えは同じでも「3×6」ではない、と。


授業参観のあいだ、ずっとおとなしく聴いていた小2のおれが、そこで異議を申し立てるために手を挙げたのは、けっして簡単すぎる授業に退屈していたからではない。

ほんとうにモヤモヤしたからだ。


(小2の)おれは教師にむかって、こう言った。

「3×6でも正しいのではないか」

 

と。

「3の束が6つある」もあり得るのではないか」

 

と。

それなりに勇気ある発言だったが、教師は即座に「やっぱりこの場合は『6×3』が正しいな」と諭してきた。おそらく心のなかでは、(算数が得意なはずの○○くんが、どうしてこんなわからず屋みたいなことを言ってくるんだろう。参観日だから目立とうとしたのかな?)と思っていたかもしれない。

教師が「やっぱりこの場合は『6×3』が正しいな」と言ったとき、後ろの父兄から失笑が洩れたのも忘れない。

だが、神経質で繊細でナイーヴでフラジャイルだったはずの小学低学年のおれは、この失笑に不思議なほど傷つかなかった。つまり、自分はダメなやつなんだ、とは思わなかった。

それは、それから約50年後のおれが、惑沈接種とマスク着用を否定するおれに注がれた非難と否定と軽蔑の眼差し&言葉に、いささかも傷つかなかったことにつながっているのかもしれない。


そのころから、「自分で正しいと確信していること」を周囲から否定されても平気の平左、という性質だったのだろう。性格的には、神経質で繊細でナイーヴでフラジャイル(もうええわ!)なはずなのに。


そうなのだ。

そのときのおれは、教師に「ちがうよ」と言われても、自分が誤っているとは思えなかった。

しかし、どうしてそう感じるのか、

 

どうしてそう考えるのか、

 

「3つの束」とはどこを指すのか、

それを、

 

それを・・・、



言葉で説明することができなかった!


このときに巧く説明できていたら天才少年なんだろうけど、残念ながら、自分のなかにある「イメージ」をまったく伝えることができなかった。


それから時を経て、「ああ、あのときの自分が考えていたのはこれだったのだ!」と思い至ったのが、正確にいつだったのか憶えていない。


何年後だったのか。はたまた十数年後だったのか。


小学2年生のとき、ネコのヒゲの本数を求めるかけ算において、「3×6」もあり得ると感じた理路はこうだったのだ!!




つまり、「①のヒゲ」=「むかって左上のヒゲ」は、3匹のネコにそれぞれ1本あるわけだから、

 

①に属するヒゲは計3本存在する。

 

②のヒゲ=左真ん中のヒゲも同様に計3本存在する。
③~⑥も同じである。


①のヒゲ、②のヒゲ・・・というように、位置ごとにヒゲをグループ分けすると、

「1つのグループ当たり3本」×「6グループ」になるのだから、

「3×6」というのもあり得るわけだ。

この場合の「束」とは「位置ごとのグループ」のことなのだ。


当時思っていたのは、以上の考え方と寸分たがわないのだが、

 

これを・・・、

 

あのときのおれは・・・、

 

上手く説明できなかった・・・。

 

 

・・・無念。


これが仮に、「6円の商品を3個買った」という事例であれば、容易に「6×3」が「3×6」に置き換わる。3個買って、各々が6円だったと考えるのは簡単だからだ。


だが、「ネコのヒゲ」だと、「ネコ当たりのヒゲの本数」×「何匹」というイメージに固定しがちだ。


猫にやられた・・・。


くやしい・・・。

猫は好きなのに・・・。



ここで「しょこら駅長」に再登場してもらおう! ヒゲは6本どころではないだろう。


だが、本当に「猫にやられた」のは、あるいは、あのとき教室にいた「おれ以外」の者たちではなかったのか。


おれは、猫にやられ切ることなく、別の可能性を感じていたのだ(・・・というと自画自賛がすぎるな)。


・・・・・・・・・。


このように、おれの半生は、「うまく言えなかったこと」で満ちている。

もちろん、「言って後悔したこと」「言わなきゃよかったこと」も少なくないのだが、比較すれば、「うまく言えなかったこと」のほうが圧倒的に多いように思う。


とくに「引っ張る」ような話題でもないのだが、次回は、これとは別種の「うまく言えなかったこと」を紹介する予定である。
 

 


「世界のミフネ」のジャワティCM。いろいろな意味でおれの「師」であるナンシー関も著作のなかで高評価。
タレントが分身となって複数出てくる点では「最強アンミカーニバル 篇」と同じだが、CMのクオリティーは雲泥の差だ。タレントの「格」に関しては触れるだけ無駄。