思った以上に長くなりました。
阪神タイガースFAヒストリー、其の三は
「FA成功の選手」だ。
まずもう一度FA加入選手の一覧表を貼っておく。
残っているのは、金本 知憲・藤井 彰人・髙橋 聡文・糸井 嘉男・西 勇輝の5選手。
まずは男前から
■藤井 彰人は楽天からFAしてきたがもとは近鉄の選手だ。
Sponichi Annex
近鉄は1999年から大阪近鉄バファローズと改称している。
私ら世代に馴染みのあの近鉄ではなく本拠地を1997年に大阪ドーム(現・京セラドーム)に移転した新生球団だった。
藤井 彰人はその1999年をルーキーイヤーで迎える。近鉄では的山哲也との併用であったがその後チームが消滅、楽天に所属し正捕手となる。
が、次第に台頭してきた嶋基宏に正捕手の座を譲ることとなり、オフに左膝の手術をした城島健司の穴を埋めるべく阪神にFAしてきたのだ。
藤井がFA入団したのは前途の小林宏之と同じ2010年。
翌2011年は真弓明信監督の3年目(最終年)。
オフに手術した城島は不調。矢野輝弘は引退。
一気に襲った捕手難を埋め、2年連続で開幕捕手をつとめ2013年には112試合に出場した。
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■髙橋 聡文は2015年に翌年から阪神の監督となることが決まっていた金本知憲から直電を受けて入団を決めたと言われている。
この年、チームの左腕でただひとり一軍に在籍し54試合登板、20ホールドの活躍を、見せた。
翌年にはさらに数字を伸ばし61試合、前年と同じ20ホールドながら26ホールドポイントを記録。桑原 謙太朗とともに金本タイガース2年目の2位躍進におおいに貢献した。
また、対 筒香嘉智、2年間で18打数1安打と抑え込んだ。
阪神で輝いたのは実質この2年間だけであったがそれでもその2年間で86イニングを投げ、9勝1敗40ホールド。
まさに「最後にもうひと花」を体現して見せた投手だった。
■糸井 嘉男については300盗塁の記事でも取り上げた。
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直近2年が膝の故障もあり「ガソリン切れ」のイメージが強すぎるために成功例に入れていいかどうか微妙であるかもしれないが、すくなくとも加入から3年間は平均して打率3割を打ちOPSも.849。
NPBの通算出塁率ベスト10には現役でただひとりランクイン(5位)。
来季は進退のかかるシーズンとはなろうが、「来なきゃよかった」なんて言えない選手なのだ。
■西 勇輝についてはこれも糸井と同じく直近の印象があまり良くないが、これは最初から「このくらいの投手」なのだ。
オリックス時代から「10勝10敗の投手」と言われていたがそれはチームが変わっても同様であった。
だが3年間ローテーションを守り、平均で154イニングを投げてはQSを続け、平均勝率は.548、WHIPは1.09だ。
あとは「必ず2~3点は取られるから3~4点取ってやれ」なのである。
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そして最後に。
FA成功例として別格の選手を紹介しておく。
言わずと知れた鉄人・金本知憲である。
カープで11年。
タイガースで10年。
打撃部門に関してはほぼすべての項目で同等かそれ以上の数字をマークしている。
そして驚くべきことにキャリア・ハイをすべてタイガースでマークしているのだ。
その2005年。
本塁打に関しては広い甲子園で、浜風に立ち向かっての40本はすごい。
それを大卒(+1)でプロ14年目の打者が記録する。
この前年、岡田監督に4番に指名された事「モデルチェンジをした」というのだから、どこまで凄いのかと恐れ入る。
4番の打撃をするためにどれほどバットを振ったのだろう。
4番の成績を残すためにどれだけ考えただろう。
連続フルイニングにこだわらなければ最後の2年間ももう少しマシな数字で終われただろう。最後は晩節を濁した感もあったがその権利が金本知憲にはあったと私は思う。
この成績表を見ながら酒が飲める。
そしてモデルチェンジした2004年には打点王を獲得している。
その翌年にモデルチェンジは完成したのだろう。そして40ホームランを放つ。
阪神での40ホームランは、1986年のランディ・バース以来、日本人選手では1985年の掛布雅之以来なのだ。
しかもその頃はラッキーゾーンがあった時代。
撤廃後は金本知憲が初めてで日本人選手では唯一人(外国人では2010年にブラゼルが47本塁打を記録)。
惜しむらくは・・・
打率・本塁打・打点の3部門で前年の自己記録を更新したものの・・・
その40発で本塁打王のタイトルが獲れなかったことだろう。
その2005年に43発を放ち・・・
金本の本塁打王を阻止した打者は。。。。
デイリースポーツ
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