朝一番のわたしのスマホ画面には、amebloやYouTubeからの宣伝メッセージが出ています。(勝手にです😅)
ピントの合ってないわたしの指が、そのブログ記事を開いてしまいました。
「まぁ、いいかぁ〜 」と、珍しく読んでみました。
新年なので神社でお参りをする時のマナーのことを書いてあるブログ内容でした。
「沢山の人が拝殿前に並ばれる中で、時々なにやらブツブツと言いながら長くお願いしている参拝者を見かける。状況を考えて、声に出すのは他の方への迷惑にもなるし、神様には新年のご挨拶と感謝だけをお伝えして、さっさと速やかに後ろの人へ場所を譲りましょう。」
というような内容のものでした。
なにやら、哀しく?淋しく?なりました。
以前、
わたし自身の学びになった書籍の中の話です。
↓
主人公は参拝時に、ある特定の場所から高次元の存在と繋がってみたいという考えがあって、その場所に行きました。
早朝にもかかわらず、既に先に来てある方が居たので、またしばらくしてから来ようと、境内で時間をつぶしました。
けれど、二回、三回と何回行っても まだその先に来ていた方がいらして、かれこれ一時間近く経過してしまってたようです。ついイライラしてしまい、「ん、もぉ〜!」と思ったそうです。
先に来てあった方も、主人公が何度も覗きに行くので、自分の祈りの時間を邪魔されてるように感じたのでしょう。ブツブツの声が大きくなったそうで、怪訝な表情を感じられるほどだったそうです。
皆さんがこの主人公だったら、
どう思いますか?
私は、読みながら「そりゃ、そうだよ!
神社仏閣はみんなのものなのだから、そんなに独り占めしなくても、何回も、まだかな?って来てある主人公さんにちょっとは譲るべきだよ!誰でもそういうパワースポットに立ってみたいものだし!」と、思っていました。
実際、こういうシチュエーションって有りますしね😅
その場所を自分だけが占領したい、お願い事若しくは祝詞をブツブツと声に出してしたい。他の人のことは知りません。邪魔しないでください、というのは、先に来ていた方の我欲。
その場所に立って、感じられる波調に癒されたい、静かに瞑想してみたい、ここでお願い事若しくは祝詞を声に出してしたい!という人の気持ちは知りません、他人には静かにしてもらいたい、さっさと場所を明け渡して欲しい、というのが主人公さんの我欲。
と、いうと、、、
どちらも同じ我欲。
自分の欲求を通したいワガママであり、思いの根っこは両者、同じなのです。
我欲とはエゴですから、わたしも、どちらも良いものでは無いとは思います。
主人公は、自分の考えは間違っていないと思っていました。
普通、待ってる人が居るのにそんなに長々としないでしょ!と、自分の基準で自分のエゴを正当化していたようです。
読みながら、私も同感でしたし、そうしていました。
書籍には、
「自分のほうが正しい!」と決め付けているその考えを、本当にそうなのか?と、
もう一度じっくりあらゆる角度から考えてみることが大事なのだと書かれていました。
人は、「自分が正しい」と思えば、相手を非難します。増して、攻撃する気持ちさえ芽生えます。
同じエゴだとしたら、相手を非難することは『魂』にとって決して良いことでは無いと、わたしも思います。
主人公は、人に我慢をさせてまで自分のエゴの無理押しはしたくないと、思います。
自分こそが正しいと思っていた事も錯覚たと気づきます。
そこまで、考えて、やっぱり、自分が引っ込めます。どうぞ、と素直にそう思ってその方にその場所を譲られたようでした。
そこまで読んで、わたしは、
『仏心』だぁ〜✨と思いました。
わたし、出来るかな?とも😅
そして、こんなことを書かれていました。
「長いな〜、まだなん?、もぉ〜!」では無く、
学ばせて頂いて「ありがとう」だった。と。
そして、
「それが仏に続く道である」と、
高次元の世界に存在している空海さんが、ニコニコしていました。と。😊
この書籍は、また一つわたしに大切なことを教えてくれた物でした。
祝詞は、お願い事をするとか言うとか、
そういう類いものではありません。
神様に奉納しているものなのです。
そして、それは『音』として奉納できるものです。音で癒されるという感じでしょうか?✨
御神楽で舞いや演奏を奉納されるのと同じようにイメージされたら分かるかと思います。
こうしてはいけない、ああしてはいけない、神様に失礼です!と、勝手に人間の感覚、価値観でそれは決めることなのかな〜?と、わたしは、いつも首を傾げてしまいます😅😛
神様ですよ!神!✨
高次元の世界のルールを人間が決めるん?
神様、ホントなそんなことを言ってるんかな〜?
と、
ついつい思ってしまいます😛💦
今年も
どうぞよろしくお願いいたします🤲
光(みつ)・ターシャ✨