消された明治の父・小栗忠順⑤〜罪なくして斬らる〜 | 天地温古堂商店

天地温古堂商店

歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

さぞ無念だったろう、と思うのだ。

小栗忠順の遣米使節や横須賀造船所建設における栄光は、消えることはない。

ただ、彼が歴史上の人物である限り、その最期はある。

それを見るとき、維新史を裏側から見るようでもあり、その運命が滝を落ちる木の葉のようでもある。

本稿は、小栗への鎮魂歌のつもりで書きたい。



徳川慶喜は大坂城での感動的な大演説のあと、まるで詐欺漢のように主戦場から脱出した。

家臣たちを置き去りにしてしまった会津藩主・松平容保は、軍艦開陽の船中でややもすると責め口調気味に、慶喜に言った、
 
去る5日、内府様(慶喜)は勇ましい演説を行い、我が軍の士気は大いに盛り上がりました。
お言葉の通り、内府様が出陣されれば、数日の敗戦を覆すことができたはずです。
それなのに、何故、こうも急に東帰することを決心されたのですか。


この問いに対し、慶喜は平然と、

あのような調子でやらなければ、みなが奮い立たないからだ。
あれは一種の方便よ。


と答えたという。

そして、乗艦が紀淡海峡を南下しはじめたとき、慶喜は、もはや大丈夫と思ったのであろう。
老中・板倉勝静を船室に呼び、はじめて自分の心情と今後の方針をあきらかにした。

江戸に戻ったら、自分は恭順謹慎して、朝廷の仰せの通りに従う決心をした。
決して抗戦はしない。皆そのように心得て欲しい。

(渋沢栄一編著『昔夢会筆記』より)

恭順謹慎

慶喜の〝変心〟がいつのころかはわからない。
あるいは、江戸薩摩藩邸の焼き討ちを知ったときだったか。
少なくとも、あの大演説は方便だったわけだ。

江戸にいる幕臣たちは上から下まで、小栗も勝海舟も、このことを知らない。

慶喜らを乗せた軍艦開陽は、1月11日夕方に品川着。
12日朝、慶喜は江戸城に入った。


江戸城(1885年~1890年ころに撮影) Wikipediaより

その日、江戸城の者たちははじめて、我が方が負けたことを知った。

大坂城には1万余の大軍がいる。
開陽のほかにも兵庫港には複数の軍艦が碇泊している。
それが負けて逃げかえってくるとは思ってもいなかった。

くわしいことを聞こうにも、お供の者たちはみな顔面蒼白で口をきく者もなく、板倉老中に尋ねて、やっと状況を聞けた、と海舟は書き残している。

その日の夜、江戸城内では徳川慶喜臨席のもと大評定が開かれた。

老中や海軍副総裁・榎本武揚、歩兵奉行・大鳥圭介から新選組の者まで、ほとんどが主戦論であった。

兵を箱根、笛吹に出して、官軍を迎撃すべし。
軍艦をもって、じかに大阪を衝くべし。
輪王寺宮を奉じて、兵を挙げるべし。

など、口々に言い騒いだ。

そのなかで、具体的に必勝作戦を提案した人物がいた。

勘定奉行・小栗忠順そのひとであった。



小栗忠順 大成山普門院webサイトより

その作戦とはこうだ。

①新鋭の軍艦開陽を駿河湾に向かわせ、海岸を進軍してくる征東軍の密集隊を砲撃して、完全にその退路を遮断する。
そうすれば、前後の連絡が絶え、弾薬・食糧を絶つことができる。

②フランス軍事顧問団の訓練を受けた伝習隊の精鋭数千人に充分な武器を与え、箱根を通過して東に向かう敵軍を江戸近辺で袋のネズミにして全滅させる。(前後の連絡断たれて、補給不可)

③さらに一部の海軍をして神戸兵庫方面に艦砲射撃を加え薩長軍などの退路を断ち、連絡を途絶させる。

④熊本などの九州の不平分子は起って薩軍の虚を突くであろう。
全国の大小名は形勢を観察して、正当防衛に出た徳川方につく。


⑤軍用金については、小栗が責任をもって調達する。

(蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』より)

後に、これを聞いた新政府軍参謀格の大村益次郎は、

その策が実行されていたら、いまごろわれわれの首はなかったであろう。

と言ったという。


しかし、そんな必勝策も陽の目を見ることはなかった。
慶喜はすでにその意志を固めている。

絶対恭順


老中並・立花種恭はこのときのことを、こう回想している。

いよいよ恭順と決すると、満城の士は泣き出すもあり、落胆するもあり、それはそれは大変なことでした。
榎本武揚は満座の中へ突っ立ち上がり、将軍様は腰が抜けたか、恭順するとはと叫び、大久保一翁は、榎本は感心な男だと大層に賞賛しましたが、しかしこの中で腰が据わっているのは勝海舟一人だと言いました。


ついに、慶喜はみずから小栗に対して免職を言いわたした。
江戸幕府の歴史上、将軍に直接免職を言いわたされたのは、小栗ひとりだった。


徳川慶喜 写真 サライjpホームページより

司馬遼太郎の『最後の将軍』にはこうある。

慶喜のとらねばならぬ政略は絶対恭順であった。
他の何ものを犠牲にしてもこのひとすじをつらぬかねばならぬと思った。
慶喜は現世のなまのあの顔見知りの京都の公卿、大名、策士どもに恭順するのではなく、後世の歴史にむかってひたすら恭順し、賊臭を消し、好感をかちとり、賊名をのぞかれんことをねがった。


慶喜はすべての幕臣に不戦を徹底する由の命令書を下し、勝海舟に事態の収拾を一任して上野寛永寺に入り、謹慎して罪を待つことにした。
2月21日のことである。

3月1日、小栗はもはやどうにもならないと思い、自分の土地である上野国権田村(群馬県高崎市)に退去した。

小栗は大名ではないので、城や館は持っていない。
将軍から俸禄として与えられた知行地が権田村であった。
ひとまず、この地にある東善寺を仮住まいとした。
小栗忠順のほか、母と妻、子の又一、その妻・鉞子ら家族と、十数人の家臣であった。

幕府へ正式に「権田村への土着願書」を差し出したというから、知行地からの収入に頼らない新しい生き方を考えていたと思われる。

免職後に小栗忠順が住んだ東善寺 東善寺HPより

以下は私の勝手な想像である。

維新後に下野した西郷隆盛が鹿児島で作った「私学校」のようなものを、小栗の権田村土着には感じさせる。
西郷は政争にやぶれ、国政を盟友の大久保に任せて自らは下野した。
しかし、平時には私学校で鹿児島士族を教育して、自らも含めて一朝事あったときには満を持して再び中原に立とうとしていた。

小栗も西郷のように、権田村で若い家臣とともに開墾して自活し、学びを究めて、もしも新政府が自分を必要としたならば、新国家建設のため尽力しようと考えたとしても不思議ではない。

やがて、パリから栗本瀬兵衛も渋沢栄一も帰ってくる。
彼らを招き、この地を拠点に学校を作ってなんとか新国家建設に微力をささげたいものだ。
ただし、おそらくはワシなどなくとも新政府はうまくやっていくだろう。

そのときは、ここで朽ちるまでよ。

そんなことを考えたのではないだろうか。

しかし、世には馬鹿なことがあるものだ。
小栗は勘定奉行であったから軍用金を持っているはずだと〝妄想〟する輩がいて、千を超える暴徒が襲撃しにきたのだ。

小栗は家臣らを指揮して、見事な応戦を見せ鉄砲で暴徒を追い払った。
3月4日のことである。

このことが誤伝した。
官軍に伝わったときは、

小栗は権田村に陣屋をかまえ、砲台まで築いて、容易ならざる企てをしているらしい。

という。

この方面の官軍を東山道軍といい、参謀は土佐の板垣退助、薩摩の伊地知正治だった。
有能な指揮官ではあったが、敵情を過大に見過ぎた。
どころか、まったく誤認した。

板垣退助 写真 Rekishiru webサイトより

彼らの見た小栗は、幕府高官の中で第一級の大物であり、近代化政策を推進した恐るべき実力者であり、主戦論者であった。
さらに、当時は奥羽列藩同盟が結ばれ、越後長岡藩もこれに加わって官軍に反抗する勢いを見せていた。


小栗のいる上州は越後に通じている。
小栗が越後長岡藩などと気脈を通じて、自らの後方を襲うのではないかと疑ってしまった。


閏4月2日、東山道軍総督府は、高崎・安中・小幡の三藩に命じていう。

厳重に探索したところ、逆謀歴然である。
天朝に対して不埒至極である。
これを誅戮せよ。


小栗は、生粋の三河武士だ。主君が恭順と決めた以上、主命に背いて戦う気はない。

三藩の代表は、命令を受けて現地に赴いたが、命令にあるような謀反の動きは少しも見えない。
そのうえ、小栗は大砲1門、小銃20挺を三藩に引き渡して明白に弁明した。
三藩代表は引き上げた。

3日、小栗は又一を高崎にある東山道軍出張所に出頭させて恭順の意を表明させた。

4日夕刻、軍総督府から運命の男がやってきた。

原保太郎、22歳。

役職は軍監と重々しいが、園部藩を脱藩してつい先日まで岩倉具視の食客になっていた男だ。
もう一人は土佐藩士・豊永貫一郎、18歳。

ただ、若い。
軍を統率したり、隊を指揮した経験すらもなかったろう。
また、官軍は東海道、東山道、北陸道と三軍が競い合うように東進していた。
猛烈な功名心もあっただろう。

まず、又一が捕縛された。

4日夜半、原と豊永は三藩の兵一千を率いて、権田村へ向けて出発。
5日早朝、東善寺を包囲した。

小栗と家臣らは本堂に端然と座って、これを迎えた。

双方にどんなやりとりがあったかはわからないが、おそらくは、

厳重に探索したところ、逆謀歴然である。
天朝に対して不埒至極である。
神妙にせよ。

などと一方的に言い捨て、縄を打ったのではないか。

原と豊永は、小栗と家臣3人を捕らえて、忠順を駕籠に乗せ屯所へ引き立てた。

原らは東善寺でも屯所でも、小栗の取り調べを一切おこなっていない。

問答無用、ということだろう。

この対処方針が総督府のものか、原らの独断かはわからない。


閏4月6日朝。
小栗忠順と又一、家臣らは、烏川の水沼河原に引き出された。

最後のやりとりは明らかになっている、

原が、小栗に問いかける。

何か言い残すことはないか。

小栗は短く、答える。

なにごともない。

そのあと、すぐに付け加えていう。

すでに、母と妻は逃がしてやったから、どうか婦女子には寛典を望む。

原は「相分かった」とだけ答えた。

小栗上野介忠順、斬首。


幕府にあって主戦派の人たちのその後についてふれる。


榎本武揚…戊辰戦争を最後まで指揮するも箱館で政府軍に降伏。ゆるされて、明治政府では外務大臣などを歴任。海軍中将。子爵。


大鳥圭介…戊辰戦争で陸軍を指揮。榎本同様、箱館で降伏。明治政府に出仕して元老院議官等を歴任。男爵。

永井尚志…若年寄。箱館戦争に参加。ゆるされて明治政府で元老院権大書記官に任ぜされた。

松平容保…会津藩主。慶喜より江戸追放を命ぜられる。会津戦争で敗れ降伏。斗南、江戸と移住し、日光東照宮宮司となった。

松平定敬…桑名藩主。変名して箱館戦争に参加。戦後、逃亡するも横浜で降伏。日光東照宮宮司を勤めた。従二位。

河井継之助…長岡藩家老。新政府北陸道軍と決裂、奥羽越列藩同盟として長岡戦争をたたかう。流れ弾を受け負傷、会津に向けて移送中に傷が悪化して死亡。

土方歳三…新選組副長。戊辰戦争に旧幕府軍として戦う。箱館戦争で戦死。

滝川播磨守…幕府大目付。鳥羽伏見の戦いを指揮。江戸帰還後、永蟄居。徳川家達に従って静岡に隠居。明治14年没。

板倉勝静…幕府老中。慶喜恭順後は、日光に閉居。その後、奥羽越列藩同盟の参謀となり箱館戦争に参加。戦後、自首。終身禁固刑となるが特赦。東照宮宮司となった。

こうしてみると、多くの幕府主戦派がその後ゆるされている。
斬首された者は、小栗忠順と新選組局長だった近藤勇のただ2人だけだ。

高崎市倉渕町水沼字中川原は、小栗忠順終焉の地である。
現在、この地に石碑が立てられ、市の史跡になっている。
碑には、こう記されている。

それはあたかも、真実を深く刻んで永遠に消すことはできない、という宣誓文のように私にはみえる。

偉人 小栗上野介 罪なくして此所に斬らる

 

小栗忠順終焉の地に立つ供養碑

 

〈参考〉

海音寺潮五郎『幕末動乱の男たち』『武将列伝・江戸編』

司馬遼太郎『最後の将軍』『明治という国家』

原田伊織『消された「徳川近代」明治日本の欺瞞』

滝沢弘康『慶喜はなぜ大坂城から逃亡したのか』

高崎哲郎『幕末の幕臣・小栗忠順、再々説〜大きな功績と無残な最期〜』