医療において避けようが無い出来事、


それは患者の死です。


人は、いつか必ず死にます。


最近では多くの方が病院で死を迎えられます。


「死にそうになったら、病院へ行かないといけない。」


そんな風潮があるのか自宅で看取られるケースは少なくなってきました。

検索してみると、平成9年度厚生白書の概要に数字がありました。


「自宅を死亡場所として希望するものの、実際は病院等で死亡する高齢者が多い」


http://www1.mhlw.go.jp/wp/4-2-6.html

これによると、

高齢者の90%が自宅で亡くなる事を望みながら、

実際に自宅で亡くなるのはそのうち33%で、

66%の方は病院等で亡くなられています



・・・もう少し解りやすい数字にすると、


100人の高齢者が死を迎えるに際して、そのうち

90人が自宅での最後を希望しているにもかかわらず、実際は

60人が病院等で亡くなっている訳です。



最初から自宅で亡くなることを希望されていない方が10人いますので、合計で

100人中70人が病院等で亡くなられている訳です。



これだけ多くの方が病院などで最後を迎えられるという現況において、

高齢者の最後を看取る家族と病院の認識において、

やはり医者の常識、世間の非常識を感じています・・・。



よくあるケース。



病気や老衰の進行でもはや死を迎える時期が差し迫って来た時、

病院としては、患者の病状説明を行い、同時に延命措置に関して相談をします。

そんな時、患者家族からしばしば聞かされる要望があります。



「死に際に立ち会いたい」




・・・なるほど。

「親の死に目に逢う」といった古来からあるしきたりでもあり、

大事な人がこの世から去る時に、その場でお別れを告げたいという、

家族愛がゆえにもたらされる至極当然の気持ちです。


そういった人の死に際して、我々医療サイドも最大限の注意を払い、

死に逝く方の尊厳を保つ努力と患者家族への精神的ケアを心がけ、

出来るだけの協力惜しみません。


「死に目に会う」

それは、家族として当然の事です。



・・・しかし、現実にその場面に直面した時、アレッ?と思う事に出くわします。


末期的な状態の患者が、いよいよ、となった時の話。


さあ、患者家族へ十分説明も済ませた。

患者の容態も、徐々に死を迎えつつある。

今晩持つかどうかといった所だろう。

末期の延命措置(人工呼吸器の使用や、心臓マッサージ)に対しても、

回復の見込みが無い場合は行わない旨を十分話し合って同意を得ている。


後は、厳かに神のお迎えを待つのみだ・・・・・、




・・・と、言う時になって、家族から意外な言葉がしばしば聞かされます。




「遠方の家族がまだ到着していない。

たどり着くまで、心臓だけでも持たせて欲しい。」



あ、あ、あれっ、あれれ?

そんなのアリですか・・・?



ここで、否が応でも世間の非常識に気づかされます・・・。OTL




「人工呼吸器の装着は、苦しそうだから止めて欲しい。


 でも、家族が到着するまでは心臓は動かして欲しい。」




こんな家族の無知ゆえの
要望がしばしば聞かされます。


説明するまでも無い事だと思いますが、

あまりにも現代人は人の死がどういうものなのかを知らなさすぎのようなので、

失礼ながら書いておきます・・・。




<医者の常識、世間の非常識>


人間は死を迎える時、原則的には

先ず呼吸が止まってから、心臓が止まります

心臓は、呼吸によって酸素が血液中に供給されて初めて動くからです。


ですから、心臓を動かし続ける為には、

まず人工呼吸器の装着が必要になる訳です。





「原則的に」、と書いたのは、

例えば心臓自体の病気の場合は急に心臓が止まってしまうことになりますが、

呼吸もほぼ同時に止まる訳で、心臓だけ止まって、呼吸しているという状況はありえません。



・・・ですから、この「人工呼吸器無しで、心臓だけ持たせる」という要望は

呼吸を無視して、心臓だけ動かすという本当に無茶な事なんです。





それでも家族からそれを懇願された、という医師の話を聞いたことがあります・・・。



その医師はどうしたかというと、家族到着まで人工呼吸を続けた訳ですが、

気管挿管 + 人工呼吸器装着ではなく、

マスクによるバッグ呼吸を行いつつ、

強心剤を使いながら心臓マッサージをして家族の到着を待った

と聞きました。


呼吸器装着ではなく、マスクを用い手動で人工呼吸を行う事で家族の
希望をかなえた

訳です。



そう、その医師は遠方の家族が到着するまで、

ベッドサイドで呼吸バッグをもみ続けていたのです。




・・・このように、本当に「死に目に会う」という希望は、

まだまだ社会に根強く残っていますが、残念ながらこの美しい風習は

核家族化の進んだ現代社会とは矛盾したもの

になってしまっています。





現代は核家族化が進み、

情報化、交通の進歩により、


家族は広い範囲でバラバラに居を構え、

家族と言えども極めて独立した生活を営んでいます。




昔は同居していたり、生活圏も範囲が狭かったりと、

いざ家族の死という場面で、臨終にすぐに駆けつける事ができたでしょう。


しかし、現代は生活圏も広まり、各々の家族としての活動もある訳で、

急な臨終に立ち会うには、いろいろと都合をつける事がある訳です。



そんな核家族化の社会では、老いて介護が必要になっても、

子供は同居しておらず施設や病院での生活に頼られます。


家族といっても、入院していてもろくに見舞いにも来ないような状況も珍しくなく、

そうして大事な時は過ぎてゆき、当然死が近づく訳です。



そして、さあいよいよ臨終の時、という時になって

家族は急に家族愛に目覚めます



そして、「死に目に会う」事の実践こそが、最後に残された使命だと感じます。


自分だけでなく、家族全員に臨終に立ち合わせてあげる事が、死に逝く者への餞であり、

今自分に出来る唯一の事だと気づきます。


それで、何年も会っていなかった遠方の家族がまだ到着していないからと、


「どうか家族が到着するまで、心臓をもたせて欲しい。」


こう仰るわけです・・・・・。


何かおかしく感じませんか・・・?






そう・・・・・・・、





死に目に逢う事よりも、

生きている間にもっと逢いに来る事の方が、


もっともっと重要じゃないんですか?





このあたりで、ハッキリ言わせて頂くと、

そんなに死に目に立会いたいのなら、

患者の呼吸や心臓を人工的に持たせる事を望むのではなく、


家族の方がいつ何時でも直ぐに駆けつけられる準備をしておく事が大事ですし、


それ以前に、生きている間にもっと逢いに来る事の方が大事でしょう。




今から死に逝く人の病態を、機械や薬で自分の都合に合わせるのではなく、

家族の死を厳かに迎える為に自分の方が都合を合わせて粛々と協力するのが、


本当の家族愛
だと思いますが、違いますか?



それで、自分の都合が合わなければ、

死に目に会う事は、現代社会では困難になっているのだから仕方ない、

と納得して諦めるしかないと思いますが・・・。





・・・こうは理屈で考えていても、患者家族の突然の家族愛は納まることを知りません。



病態が末期的にまで進行した状態の患者に人工呼吸器の装着を望み

昇圧剤を最大限に使用し、それでも心臓が止まった後も、


「心臓マッサージで積極的な蘇生を試みて欲しい。

 なにもせずに見捨てるのは、かわいそうだから。」



こういう希望を仰る家族も、しばしばいます。


末期患者が臨終の時を迎えようとしている時の蘇生術は、

医学的根拠は乏しいものです。

本来医療は医師の医学的判断で行われるべきです。


しかし、現在の医療はこういった患者の要望を跳ね除けるだけの権威と裁量は、

もはや失われてしまっています。



<以下は、蘇生時の現場での実際を書いています。

 不快を感じられる可能性の表現もあります。

 了承され方のみ、閲覧ください。>





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・・・永年の闘病の末、漸くたどり着いた臨終の時。


終の棲家は、望んだはずの心落ち着く自宅ではなく、

白い壁が既に薄汚れている、蛍光灯の光が眩しい病院のベッド。


安らかに迎えるはずの時が、人工呼吸器に繋がれて強制的に換気が行われている。

疲れきった心臓が、なおも強心剤で悲鳴を上げながら、動かされている。



ベッドサイドには、人工呼吸器の無機質なポンプ音と心電図モニターの電子音。


・・・家族は誰も傍にいない・・・・。



突如、機械がアラームを発する。




・・・・とうとう、その時がきたようだ・・・。



静寂が訪れるはずのその時に、数人のスタッフが群がってきた。



・・・蘇生が開始された。

慌しく、周囲が喧騒に包まれる。



強心剤投与、心臓マッサージ開始。

心電図に心室細動の波形を認めたところで、カウンターショック。


バンッ!
(カウンターショックの音)


反り返る体。


直流電流が皮膚を焼く焦げ臭い匂いの中、心臓マッサージ。

そして、心拍再開・・・。


家族の声がする。


しばらくすると、心拍低下。心臓マッサージ再開。

強心剤、その他薬剤投与行いつつ、心電図を見てカウンターショック。



ドンッ!



心臓マッサージ再開。

同時に瞳孔確認。対光反射無し。

心臓マッサージも強心剤も、全く反応しない。


更に、心臓マッサージ続行。


それを端で見ている家族。



「・・・まだ、息をしているんですよね?

・・・
ほら、胸の辺りが上下していますよ。」



「・・・いえ、これはここにある機械から、こう管が口の中に繋がっていますよね。

管が肺まで入っていて、強制的に機械で呼吸させているんですよ。



・・・先日、人工呼吸器の装着をした時に説明差し上げましたが・・・・・。」



「・・・でも、ほら手が。


手が、まだ温かい。


・・・まだ生きてます、生きてますよ!」




「・・・・・・・・、・・・まだ心臓マッサージしていますので、血液は何とか廻っていますし、

心停止から数十分といったところですから、体温は残っていますよ・・・・・。


・・・けれども、こうして心臓マッサージの手を休めると、ほら、心電図の波は・・・・。」



「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」




更にスタッフにより交代で心臓マッサージ続行。

心拍は再開せず。

繰り返される心臓マッサージ。


ハアッ、
ハアッ、ハアッ、ハアッ・・・。

ハアッ、ハアッ、ハアッ、ハアッ・・・。


心臓マッサージするスタッフの息も荒い



バチッ!


カウンターショックの電極から飛び散る火花。

どうやら、電極パッドの横から皮膚に通電したようだ。



バキッ!(心臓マッサージによる、肋骨損傷の音)



ハアッ、
ハアッ、ハアッ、ハアッ・・・。

ハアッ、ハアッ、ハアッ、ハアッ・・・。




「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。


・・・・・・・あの~、もう十分ですから。もう結構です。



・・・可愛そうです。


もうこれ以上、痛めつけないでください
。」




(・・・・・・このように体を痛めつける事になるという事も、

既に十分説明した上で、
蘇生を希望されましたよね・・・。)


「・・・一時間心臓マッサージを行っても、心拍再開はなりませんでした。

・・・死亡確認させていただきます。」



ピーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(心電図の電子音)



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。



そして訪れる、ようやくの静寂・・・。



・・・・・・・これが死か・・・・・・・・・・。






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<医者の常識、世間の非常識>


・・・医療は、生命、そして死を弄ぶ為のものではありません・・・。


死は厳かな気持ちで、迎えるものです。


避けられようも無い状況に陥ってまで、

家族の到着を待つ時間稼ぎの為だけに、


機械による人工呼吸を行い、強心剤を使い、



あまつさえ心臓マッサージやカウンターショックまで行うというのは、


死を冒涜する事以外の、なにものでも無いように思います











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