成田悠輔というデタラメな男が日本でチヤホヤされることに不満を持っているので、成田悠輔批判が書かれていたら早速取り上げてみる。

クライテリオン最新号「特集日本を救うインフラ論」のなかの文芸評論家浜崎洋介と歴史学者兼評論家與那覇潤の対談を読んでいたら、成田悠輔が出てきた。

日本社会の現状を語っているのだが、その要約は面倒なので成田が出てきてバカにされているところだけを文字起こししてみる。切り取りだから何のことを言っているのか分からないかもしれないが。

 

與那覇 一方で僕はむしろ、今は山本七平が「日本教とは人間教だ」と呼んだような、日本社会のインフラに相当する大前提が崩れつつあると感じています。

山本の言う人間教とは、性別や出身や階層の差はあれど「人間どうしである限り、最後は話せばわかる」とする信仰のことですね。平和裏でおおらかな半面、人間というものを画一的に捉えてもいて、要は人間なら「普通はこう振る舞うだろう」「普通そんなことはしないだろう」といった相場観を、互いに共有していた。それが安心感につながっていた。

ところが、おそらく二〇一〇年代の半ばから、日本社会では「普通」の相場観が失調し、人間教が機能不全を起こすようになった。そのヤバさにみんな気づいている裏面で、採るべき対応策をまったく間違えているから、おかしなことになっていると思うんですよ。 

その徴候だったのは二〇一四年に発覚した「STAP細胞事件」です。実験のデータを自説に合わせて「恣意的に解釈しちゃう」くらいなら、普通にあることだからピア・レビューでチェックできるけど、「そもそも実験をやっていなかった」みたいな事態は、さすがに事前に想定できない。だからルール以前の問題であるトンデモ研究者が、発覚前はしれっとトップの研究所に勤めていられたわけです。

こうした場合、本来なら必要だったのは山本七平のように、「日本人が長年「人間ならあたりまえ」と思ってきた基準とは、実際にはなんだったのか?」を吟味し、その上で「これが新しい「普通」の定義だから、みんなで共有しよう」と再確認することでした。ところがその作業がスキップされ、ひとつには「このルールさえ守れば、万が一の際も責任は問われないと決めておこう」といった、アリバイ作り的な教条主義が蔓延するようになった。

 

浜崎 「あたりまえ 」の相場感がなくなったからこそ、逆にルールで縛るしかなくなったということですね。

與那覇 …要は、もう世の中の「普通」なんて壊れきっているんだから、単に無視すればいい。「普通」の人なら眉をひそめる非常識なことをやり、そうした露悪趣味こそ「奇才の証」だということにして、飛びついたファンを「信者」として囲い込めばいいんだと。
…そこでも同種の「自称カリスマ商法」が広まりました。とにかく「俺は天才だ!」と打ち上げて、ついてくる客だけを相手にすると。

浜崎 なるほど、山本七平が想定しなかったほどに、日本人の「普通」が壊れてしまったんですね。「日本教」が批判できているうちはまだいいのであって、今や、何の共通性もないバラバラか、コロナなんかの恐慌における恣意的な空気しかない状況で、「常識」が消えてしまったと。もちろん、相場感のすべてを明文化することはできないでしょうけど、「常識」が揺らいだのであれば、その立て直しを試みるべきところで、むしろ詐欺まがいの挙動が幅を利かせてしまったと。

それにちなんで言うと、その相場感が消えてしまったのが、二〇一四、五年だったというのは興味深い。確かに言われてみれば、そのあたりから、相場感などどうでもよくて、たとえば肩書さえあればとか、書類さえ整えればとか、世論の支持さえあればとかいった形で、記号的なものが「常識」の穴を埋めていった気がします。その典型が、まさにマクロ経済学のマの字も知らないにもかかわらず、「イェール大学助教授」という肩書だけで発言力を持ってしまった成田悠輔氏でしょう(笑)。

もはや、発言の実質的な内容など誰も気にしていない。当人の社会的記号、肩書だけに依存する社会になってしまいました。

 

與那覇 要は人間教が自壊した結果、「人となり」を見る習慣をみんな忘れたということです。成田氏は日本のメディアに売り出す際、明らかにテニュアの「准教授」と錯覚されるだろうことを見越して、肩書の表記を「助教授」としていた。従来ならその時点で、そうした小細工をする人は「普通じゃないよね」とチェックできていたのが、今の視聴者は「日本人がイェール大学の先生だって? すごーいー」みたいな(笑)。

 

浜崎 おっしゃる通りです。誰も「人格」を問わなくなってしまいました。

 

與那覇 その成田氏も含めて、とにかく「普通が壊れたなら、もう壊れっぱなしでいい」と謳う識者が持ち上げるのがAIです。これもまた第三次AIブーム(バブル)と呼ばれた二〇一〇年代後半の動向でした。一時はそれこそ全世界で「天才」のように囃された、ユヴァル・ノア・ハラリの 「サピエンス全史」(邦訳は河出書房新社)も英語版は二〇一四 年。彼もまたイスラエルのゲイで動物の権利の擁護者と いう履歴もあり、「「普通の人間」なる発想はもうすぐ終わり、AIに代替される」という論客でしたね。

 同時期にもうひとつ、世界と重なりつつも日本で異様に注目されたのが発達障害です。二〇一三年に国際的な診断 基準 (DSM) が改訂され、児童のみでなく成人もADHDとして診断され得ることになると、「私もそうかも?」と名乗り出る人が続出した。きっかけ自体はグローバルなもの でも、海外では下火になった後まで日本でだけ「バブル」が 続く点はAIと共通で、そこには重なる時期に人間教が 壊し、「普通」を見失った日本人のトラウマが垣間見えます。(後略)」

(引用終わり)

 

成田悠輔が笑われている。小気味いい!

東大経済学部を卒業し、大内兵衛賞を取ったにも関わらず「マクロ経済学のマの字も知らない」と浜崎洋介氏に決めつけられている。それはあるMMT論者とのやり取りで露呈したのであるが、いつもの奇を衒うやり方をしたように見えたのだが、余りに経済学の初歩を知らないことがばれて、しかも成田は全くフォローできなかったから、みんなに成田はイェール大学経済学部の助手!のくせに「マクロ経済学のマの字も知らない」と揶揄されてしまったのである。

 

 

この統計専攻しているという男の説明は全くナンセンスだな。

経済を形式的にしか捉えておらず、小学生レベルだ。

成田推しのようだが、成田も一応経済学者なのだからMMTの原理や

財政支出の意味を知った上での議論すべきなのに、この統計専攻の男と同様

経済の中身に入ろうとしない(つまり経済学が分かっていない)という点では

小学生レベルの反論しかしていないのだ。

 

浜崎氏がいう「「イェール大学助教授」という肩書だけで発言力を持ってしまった成田悠輔氏」とは、これまでなら日本社会に残っていた「常識」が成田のうさん臭さをチェックしたに違いないのだが、今の日本が、「当人の社会的記号、肩書だけに依存する社会になって」しまっていたから成田悠輔が実質がないにも関わらず成り立ってしまったということをだ。

 

肩書表示疑惑も成田は知らん顔なのだが、「肩書の表記を「助教授」」としたのは、本人が「日本のメディアに売り出す際、明らかにテニュアの「准教授」と錯覚されるだろうことを見越して」のことだとろうと成田悠輔の小狡さを指摘している。

 

要するに、成田悠輔という「イェール大学助教授」は、日本社会が常識を失い、軽薄そのものになった結果のあだ花ということになる。小賢しくもこの世を見通す力はあって成功(WEFにも呼ばれた)したのだから、本人からすれば笑いが止まらないかもしれないが、そんなバカとアホを相手にしてどうするのかといいたい。