10年前に書き始めたブログは

更新頻度は極めて少なく

 

月一しか更新しないとか

月一すら書いてないなどの

不定期ぶりもあったりする中

 

 

拗ね散らかしていたり

被害者意識が暴走していたり

 

生育家族への怒りや憎しみを

赤裸々に書き過ぎていたり

 

読み返して嫌悪感があった記事は

下書きに戻したりもした

(全体の三分の一くらいは下書き行きになった)

 

 

 

ブログ開始当時は赤ちゃんだった息子も

すっかり少年になりニヤリ

 

 

転職しながらも仕事は同業種同職種で

若干のベテラン感が出てきた真顔私も

すっかりド中年となった

 

 

この10年で変わったこと

それは

自分で自分を想えるようになったこと

 

 

 

「自分と向き合う」って言葉は

ほんと都合よく簡単に使うことができると思う

 

 

高校生の頃から

感情や気持ちを吐き出すノートを書いたり

 

内省しているつもりで数十年もの間

散々書き出しをして

自分と向き合っているつもりだったけど

 

 

自分責めをしたり

他者を非難して

自己防衛して

 

逃げを責めながらも

言い訳をして

矛盾と怠慢と

時間の無駄遣いを繰り返してきただけだった

 

 

 

自分がどれだけ悲しかったのか

自分がどれだけ寂しかったのか

自分がどれだけ怒っていたのか

 

自分と向き合っているつもりでも

その方向には全く進んでおらず

 

 

 

逃げたり憎んだり嘆いたりして

落ちた後には

 

さらに自分に厳しくなって

これまで逃げてきたことの全てを

自分が犯した罪のように捉えて

 

 

自分を罪人のように責めて

刑の執行を強制するかのようなプレッシャーを与え

その無理ゲーを越えられない自分をさらに非難する

 

 

そしてまた

「落ちるへ戻る」という不毛なループは

苦しいけど生ぬるい現実を作り続けた

 

 

 

 

以前にエヴァンゲリオンのアスカについて

ブログを書いたことがあったけど

彼女と同じ叫びが自分の中にあることに気付いて

 

 

もっと私を見てよ

私はここにいるのに

私を見てよ

 

私の存在を無いものにしないで

見て見ないふりしないで

 

 

その言葉を口にした時

驚くほどに号泣した

 

 

 

 

ほとんど彼女の記憶が残らないほどに

幼かった私を置いて

消えた母からも

 

 

自分の存在意義を家族に求め

父には過干渉に

弟には過保護に

そして

その対象から外れた私には無関心だった祖母からも

 

 

子どもをどう愛していいのかわからず

逃げでやり過ごした父からも

 

 

私は見てほしかった

私を見てほしかった

 

 

でもそれは叶わないから

 

 

人から認められるように

興味を持ってもらえるように

注目されるように

 

 

そんな過剰な欲求を抱えたまま

生きていることにも

なかなか気付けなかった

 

 

ブログを始めた理由だって

そこから来ている

 

 

自分に向けて一人で書き続けていたノートを

他人の目に留まる場所に変えて

誰かに見てもらえたら

 

自分を認めてくれる人を

感じられるかもしれないと思ったから

 

 

 

そこには

発信したい伝えたいと思えるものとか

自分が得た気付きを人にシェアするとか

インプットしたものを自分を通してアウトプットするとか

そういうものはなくて

 

 

精神の自立が伴っていない

幼い自分の垂れ流しであり

 

 

そんなもので

人に認めてもらおうと期待しているなんて

笑えるほどに

自分のことをわかっていなかった

 

 

それだけ自分が

悲しくて

寂しくて

自分の存在を認めてもらいたいと渇望していることを

わかっていなかった

 

 

でも今はそんな自分を知っている

そんな自分を認めようとしてる

 

 

 

営業的な発信がブログの目的ではないし

 

書くことで落ち着いたり

気持ちや脳内がすっきりするという

自分のためだけに書いているブログなので

いつまで書き続けるかわからない

 

 

不登校の息子については

まだ書きたいと思っているけど

この先10年なんて書かないだろうな

 

 

さて

息子に誘われているので

Amazon Primeで映画を観ることにしよう

 

涙腺が緩む予感がする~えーん

 

(画像お借りしました)